日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

裏も表もなく

2018-12-24 15:20:58 | 礼拝説教
【レビ記19章9~18節】

【ルカによる福音書1章26~38節】


 12月に入りまして、待降節第2主日を迎えています。11月末の話ですけれど、私が卒業した神学校で来年の春に卒業して、牧師として教会で働かれる方々に対して話しをする時間が与えられまして神学校に行って参りました。この授業は、毎週、牧師が入れ替わりながら、その専門的な見地から話をするという授業です。例えば「教会の財政」についてとか、「賛美の用い方」とか「キリスト教と葬儀」とか、割合に具体的なタイトルで話をすることが求められているように感じます。
 けれど、私が担当する時間のタイトルは「牧師の「学び」」というタイトルで、これは一体私は何を話せば良いのか(笑)何を話すことが求められているのか、戸惑いを感じておりました。でも、一旦話し始めますと実際のところ、90分では収まらない程に充実した良い時間を与えられました。

 一体牧師は何を学ぶ必要があるのか、「ナルニア国物語」の著者として、また非常に優れた信仰者として知られているイギリスのCSルイスが、一つの答えを出しているのではないかと思う文章を紹介しました。

 CSルイス自身、長くオックスフォード大学とケンブリッジ大学の教師としても働いておりましたが、ある時、イギリス空軍の兵隊を前にした講演会があったそうです。そこで、いわゆる割合神学的で学問的な話をしていたのだと思われます。
 その時、おもむろに一人の老将校が立ち上がって言ったそうです。「そんな話はわたしには無益です。しかし、いいかね、わたしだって信仰のある人間です。わたしは神がおられることを知っている。いや、わたしは夜の砂漠に一人でいた時、実際に神にふれたことさえある。それは実に驚くべき神秘だった。だからわたしは神に関する教義だの信条だのというものを信じないのです。本物に出会った人間には、そんなものはつまらぬ、知ったかぶりの、空ごととしか見えんのです。」と言われたというのです。

 その言葉を聞いたルイス先生はその将校を叱るのでもなく、むしろ、自分も全く同じ思いがあると言うのです。なぜかというと、神の学問、神学研究とは、いわば世界地図を作っているようなものだからと説明しています。

 人は、世界地図を見て感動することはありません。けれど世界地図は、今では人工衛星や、科学的な方法で割合に早く、しかも正確に作れるでしょうが、一体これまでどれだけの人がその地図作りに参加してきたのか、人は大西洋の海岸に立てば、目の前の海を見て感動することもあって、そこに神様がおられると感じるかもしれない。でも、それは、その人がそう感じることであって、それだけでは地図は作れない。これまで、それこそ何百、何千という人が大西洋に漕ぎ出し、多くの、しかもそれぞれが別々の体験をしながら、しかしその中で、同一の地図を作ることに成功したかを忘れてはならないのですとあります。

 神学もそのように、元々は、一人一人が神と出会うという全く個別の経験を通して信仰に導かれるものです、けれど、でもそれが全てではなく、そのような経験を通して造り上げられ、紡ぎだされて来たのが神学という学問であり、なぜそれが必要かというと、地図を見ただけでは感動しないけれど、でも海を渡ろうとするならば、必ずその地図が必要であり、時にはその地図が命綱にさえなるように、神学も神学そのものだけでは感動することは少ないかもしれない。
 しかし、この学問がないままに海に漕ぎ出して行っていいのか、それは地図を持たないで海に漕ぎ出そうとしているようなものではないのか。あの将校の言葉は真実に違いない。けれど、将校は神がおられると経験として分かっているとしても、その神の思いは何か、神様はどんな方なのか、神様の計画は何かを知らなければならないのではないか。そんな風に記してある著書を紹介しました。

 この説明は私の思いが大分入っていますので、ルイス先生の意図を正確に伝えているわけではないかもしれませんが、キリスト教の神学、また教義、あるいは信条、それは決して神ではなく、いわば地図のようなもの、しかし、その地図がなければ、出航は出来ないのだ。そう伝えたかったのだと思います。ですから学生の皆さんよ、これまで学んできたところのその地図を持って、この学校から出航して頂きたい。しかもその地図は、もしかしたら形だけが記されている白地図かもしれません。だから、その地図にこれから、御自分の経験を重ねながら、山の高さを書き入れ、海の深さ、砂漠の位置、水のあるところを書き入れて、信仰という地図を完成していただきたいと申し上げながら話をさせて頂きました。

 私たちはキリスト教と、主イエスの福音と、人生のいつかの時点で出会う経験を致します。そして信仰者となる、人によっては生まれた時からクリスチャンホームの家ということもあります。家内は3代目のクリスチャンで、我が家の息子は4代目のクリスチャンとなりますが、そのようにして信仰が受け継がれることもあり、しかしまた、受け継いだというよりは、自分は、人生のこの時に、神と出会う経験をして信仰を得たそういう方も沢山おられるでしょう。

 先週、私たちはT兄の葬儀を行いました。T兄の葬儀に当たり、改めてTさんが記された本を読み返す恵が与えられました。T兄は14歳で就職、15歳で父親が召され、一家の大国柱となって、猛勉強の末、幹部候補生への道が開かれる。その道が開かれたと思った次の瞬間に、16歳で列車の事故に遭い、体に大きな障害を負う人生を歩むことになられました。多くの皆さんがご存知の通りです。

 思えば挫折の繰り返しであって、その挫折の究極のところで、二十歳で教会に導かれたとあります。神と出会うまでの数年は、どんなに荒れた生活だったかをも記してありました。

 しかし、Tさんは二十歳で神と出会って、まさにこれまでの自分に死んで、主イエスの復活と共に生き返ったような人生を歩まれ、この教会の創立に関わり、幼稚園の設立のために働かれ、社会福祉の面において、地域社会の働きにおいて、厚木基地の問題においで、一体どこからそんな力が出るのかと思えるほどの働きをされた方でありました。

 けれど、その力の出どころははっきりとしていました。それは主なる神から与えられた力でありました。与えられた人生、自分が思い描いていた地図ではなく、神から与えられた白地図を受け取って、しかし、その地図は真の愛なのだと知らされた時に、どんなにか力を与えられ、復活の人生を歩まれたのかを改めて思います。Tさんはその地図に実に見事に山の形、海の深さ、そして神の愛の、広さ、深さ、長さ、高さを描いた方であったと思います。

 今日はルカによる福音書から「イエスの誕生が予告される」という箇所を読んで頂きました。処女マリアのところに天の使い、ガブリエルが現れて「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と告げた場面です。マリアはその言葉に戸惑い、この挨拶は何かと不安を感じました。ガブリエルは「恐れることはない。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。」と告げるのです。

 マリアは更に驚き、戸惑いの中で「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」と必死の抵抗を試みます。けれど天の使いは更に念を押すように「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。神に出来ないことは何一つない」と告げるわけです。マリアはその言葉を聞き、最後には全てを受け入れて言いました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」そう告げたところ、天使は去って行ったというのです。

 マリアの所にいきなり、天に使いが現れて「おめでとう」と告げられる。「あなたは身ごもった」と言われる。「名前をイエスと名付けなさい」と言われる。これらの言葉は本当にマリアを困惑させたことでしょう。

けれど、神の使いの様々な言葉がかすむほどに、マリアの最後の一言、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」この言葉がこの場面ではどんなにか印象的かと感じます。ある牧師はこの場面は、神の計画、神の企画があって、その計画にあなたも乗ってくれと言われて、マリアは「わかりました、乗ります」と決断した場面であり、その決断が美しく、読む私たちに感動を与えるのだとありました。私もその通りだと思います。

 けれどまた、このアドヴェントの時期、これまで殆ど気が付いていなかったことに改めて気付いたことがあります。ある本を読んでいました時に、「受胎告知の祭り」という言葉を見つけました。これはどういうことかと調べましたら、西欧の特にカトリック教会で祝う祭りとありました。その日付がいつかというと、3月25日とありました。今日、読まれているこの受胎告知の場面、それは当然のことですが、御子イエスが誕生する10か月前の出来事です。ですから単純に10か月遡れば3月25日となるわけで、その日に、この出来事が起こったのだからとカトリックでは祝いの日となっていました。私はなるほどと思いました。

 御子イエスが誕生する10か月前の3月25日が受胎告知の日ならば、実にさらにそこから六ヶ月遡って前の年の9月25日にザカリアが香を焚いたことになるわけです。その時、妻であるエリサベトに子が宿ったことを告げられた日になるはずです。その時からザカリアは口が利けなくなるわけですが、天の使いはマリアに伝えました。「あなたの親類のエリサベトも、年を取っているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっている。」あのザカリアとエリサベトの出来事、その出来事を、恐らくマリアも知らされていたと思います。

 ザカリアは天使に話しました。「わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」この言葉は、「既に私たちは年を取りすぎていて、子どもを宿す力はもう無くなっているのに、どうしてそんなことがあり得るのですか」ということでしょう。しかし、そのザカリアの思いを越えて、エリサベトは子を宿しました。

 ザカリアもエリサベトも本当に驚いたでしょうが、しかし、喜びに包まれたことでしょう。でも驚いたのは二人だけではなく、ザカリアの家族や、親類も相当驚いたのではないでしょうか。マリアもその出来事を聞いていたに違いありません。とても信じられない。でも、喜びの出来事だし、何よりも自分との関わりから考えれば、特にどうということでもなかっただろうと思います。

 けれど、マリアは天使の言葉を聞いて、「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と言ったものの、自分が本当に子を宿しているのかどうか、
 
 男性にはわかりませんが、女性が子を宿したかもと思えるのは、一体いつ頃なのか、2か月後か、もっと後か、どんなに早くても、ひと月以上は必要ではないでしょうか。だから、マリアは何よりも早く、夫となるヨセフよりも早く、エリサベトの所に向かったのだと思います。天の使いがエリサベトも子を宿している、神に出来ないことは無いと言ったからです。そしてエリサベトと出会ったとき、エリサベトの胎の中の子が喜んで踊ったというのです。エリサベトは「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」とマリアに話しかけました。

 マリアはその後、マグニフィカートと呼ばれるマリアの美しい賛歌を歌います。しかし、マリアはそこに三か月ほどエリサベトのところに滞在したとあります。

 この三か月が大切だったのではないでしょうか。それはすなわち、マリアは本当に自分が、神様の子を宿したのだと確信するまでの時間ではなかったと思うのです。この確信が与えられたマリアは、エリサベトと共に益々心が、喜びへと変えられます。三か月後、エリサベトはこの時9か月となり、もうすぐ出産です。聖書には記されていないとしても子を宿した二人の女性が共に大きな喜びの中にいたのだと思うのです。

 そして、この三か月の間、マリアの心の中に大きな変化があったのではないかと私は思います。

 昨日の土曜日、午前はさがみ野ホームでクリスマス礼拝を守り、午後からは幼稚園のお母さん方と共に母親クリスマスを祝いました。その母親クリスマスでも話しましたが、人間は自分の中の「意志」と「感情」とが戦ったとしたら、必ず感情が勝つのですという話しをしました。例えばアルコール中毒の人がいたとする、その人は本、当はもう止めたいと思っているのです。止めようと思う、そういう意志は働くのですけれど、でも、その意志を感情が越えていくのです。だめだと分かっていても止められない、それほど人の感情は、人の意志を越えていくのです。

「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように。」と告げた時、それはマリアの意志であったと思います。けれど、神学だけでは信仰が伝わらないように、意志だけでも信仰は続きません。意志が感情へと変わらなければなりません。感情とはその意志が本当に自分自身になるということです。そして、そうなるまでには、どうしても時間が必要です。

 だから、エリサベトと過ごした、この三か月どんなに大切であったかと思います。幼子を自分のお腹に宿していると確信すればするほどに、この三か月の間に、マリアは自分の意志を越えていく神の愛に包まれて、エリサベトと共に、喜びの感情が爆発していくように感じていたのではないでしょうか。

 そしてその時、マリアは、これまで自分が持っていた自分の人生の白地図から、神様が与えて下さった地図へとしっかりと持ち替えて、そしてその地図を頼りに生きる決心をしたのではないか。その決心は自分を捨てる決心です。信仰とはある意味、自分を捨てる勇気が求められます。
 これまでの自分が自分でなくなり、復活の主イエスとともに全く新しい自分に生きる勇気です。裏も表も無く、その全てを神にこそかけて生きる決心です。

 しかし、同時にそれは捨てると言っても、まことに神の愛を受け止め、神に信頼を寄せ、主イエスが後に教えて下さったように、神を愛し、隣人を愛し、自分を愛することの大切さをどれほど感じ取ったことでありましょうか。私は主の御計画に生きている。神の恵みの中に生かされている。マリアの喜びは自分の意志を越えて、本当に素晴らしかったと思う。

 そして、クリスマスの出来事は静かに、しかし確かに進んでいくのです。

 そのような勇気を、決心を主なる神は、私たちに対しても、主はいつも求めておられるのだと思います。
「主よ、私は主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように。」そう祈りつつ、この一週間も歩んで参りましょう。     

 お祈りします。

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