日本キリスト教団 大塚平安教会 

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天に富を積むために

2017-11-29 12:03:21 | 礼拝説教
【マルコによる福音書10章17~31節】

「天に富を積むために」

 先週の月曜日に、私が卒業した神学校に行ってきました。4年生のフィールド・ワークゼミという授業で学生の皆さんに「牧師が必要な学び」について話しをさせて頂きました。卒業して二十数年になりますが、自分が学校の講壇に立つなんて、そんな日が与えられる程の月日が経ってしまったのかなと思われました。
 
 そのことを強く思ったのは、最初に聞いてみた質問です。「皆さん、今橋朗先生という先生をご存じですか?」ここに集まりの皆さんもご存じの方も多いと思います。学生の皆さんも4年生ですからね、蒔田教会で40年牧会されただけでなく、ほぼその月日を神学校の教員として過ごされ、教会を辞されてからは神学校の校長の役割を担って下さいました。私自身、今橋先生からどんなにか沢山学び、自分の人生にどんなにか大きく影響を受けたか計り知れないと思う先生です。けれど、学生の全員が「知りません」と言うのです。ちょっとびっくりしました。自分達が入学した時は、既に小林誠治先生が校長ですというのです。ですからね。私は、今橋朗先生の校長就任式にも小林誠治先生の校長就任式にも出席しておりますけれど、小林誠治先生しか分からないと言われてちょっとショックでした。月日は本当にあっという間に過ぎ去るものなのだと思います。
とはいえ、なぜ私が学生の皆さんに、「牧師に必要な学び」という一コマの話をしなければならないのかと言いますと、私が神学生の頃に、一生懸命に勉強したという話の、あること、無いこと、その恐らく多くは無い事の方が多いはずと思うのですが、そういった話がどうも飛び交っているのではないかと思われます。

 確かに、自分なりには一生懸命に学んだと思いますが、実際の所それほど成績が良かったわけでもありません。謙遜して言うわけでもなく、普通の成績だったと思います。
 ただ、思うのは私の場合、普通の成績を取るだけでも、とても大変だったと言えるのかなと思う。普通になるまでに人の何倍も努力する必要もありましたし、4年の卒業論文を仕上げる為に、担当の三小田敏夫先生という、実力は超一流でしたが、割合に地味で、しかも厳しい先生にぴったりと張り付いて、朝から晩まで時間をかけてテキストを読んだり、幾つもの大学から資料を取り寄せたりしながら、なんとか論文を仕上げたのです。

 ただ、そういう努力を三小田先生がとても喜んで下さり、その後の学生に私のあること、無いことを吹き込んだようで、今、教務部長の役割をされている先生は、私の後輩で、更に三小田先生について勉強した方ですから、どうも色々と聞いたのかもしれません。ですから、牧師の勉強の大切さをみっちり話して下さいと言われたのだと思います。でも、実際は困っていました。
 
 何が困るのかというと、学校を卒業して教会に赴任しまして分かることは、神学生の時に学んだ多くの事がそれほど役に立つわけでもないということです。例えば、今、水泳を習おうとして、泳ぎ方を教える本があったとする。そういう本には殆ど今の時代はDVDが付いていまして、いわゆる、説明というよりは画像で実際に泳いている場面を見ることが出来るようになっています。本を読んで、画像をしっかりと見て、よし、これで理解したから、泳げるようになるのかというと、そうではないわけで、結局の所、実際に泳いでみなければ、少しも上手になるわけではないのです。
 私の趣味のギターの教則本もありますが、それにもDVDがついていて一流の方が弾いているのを見ることが出来ます。それを見て、頭で分かっても実際は全く弾けません。
 
 そのようにして、どんなに勉強したからといって、それは勿論大切なことですし、そういった学びが本当に基礎となることは間違いないのですが、でも、既に4年生で、3カ月もすれば、卒業する皆さんに、これまで4年の学びをしてこられた皆さんに、少なくとも机上で勉強することの大切さを話すよりも、牧師となっていく皆さんに話しておきたいと思ったことは、人と人との関係を沢山学んでくださいと伝えたいと思ったわけです。

 人と人との関係、つまり人間関係ですよ。例えば人間関係の、なぜ人は「怒りが」出てくるのかという話をしました。人は怒ったり、笑ったり、泣いたりする。私は最近特に、人の感情というものがとても気になっています。感情学という学問を殆ど聞きませんが、そういう分野について考える必要があるのではないかと思っています。

 人が同じ出来事を体験する、けれど、同じ体験でも、それに対して一人ひとりの対応も違えば考え方も違うことが良くあります。よくあるというよりはいつも違うと言っても良いでしょう。ですからそこから表出される感情も全く違ったものになります。

 人によっては怒り、人によっては反省し、人によっては悲しんだりするのです。なぜ、そうなのか、なぜ、人は「怒り」が出てくるのか、それは、「自分の心の中に自分なりの基準が入っているからです」と話しました。その基準、すなわち、聖書的に申し上げるなら私たちの心の中にある「律法」です。

 私たちは知らず知らずのうちに、自分の心の中に自分なりの「律法」をもって成長していきます。そしてその律法は自分にとってはあまりにも、当たり前のことですので、誰にとってもそれは当たり前のはずだと思っているところがあるのです。
 けれど、実際は別の人にとっては全く当たり前でもなく、特別なことであったりするわけですから、そこに大きなギャップや相違が現れて来て、そして、その違いが気になり、多くの場合、気に入らなくなり、怒りとなる、そういうことがありますよと話しました。

 何年もの前になりますが、ある日の礼拝に出席された方がおられて、礼拝の後に私に話しかけて来られた。自分が通っている教会は献金のお祈りの時に、紙に書いてある祈りの文章を祈るというのです。そんなことはおかしいというのです。私は、役割にあたる方が前もって準備しておられたのだろうと思うだけですから、それは、そんなに悪いことだろうかと思って黙って伺っていましたが、「祈りは祈祷会で養われるべきものでしょう。祈祷会で養われるのだから、紙に書くなんてとんでもないですよ」と言いながら、帰って行かれました。

 その方の心の中には「祈りは紙に書いてはならない」という律法が入っていて、それはその方にとってはあまりにも当然であり、自明のことなのです。それは違うでしょうと一言、もし私が言ったとすれば、もう二度とこの教会には来るまいと思われたかもしれません。
 
 そのようにして私たちの心には、自分にとってはあまりにも当たり前と思う、様々な自分の基準が入っていて、そしてその基準でもって判断をするのです。ですから何も神学生だけでもなく、私たちもよ~く気を付けなければならないのだと思います。

 今日は、マルコによる福音書の10章という箇所を読んで頂きました。金持ちの男というタイトルが付けられている箇所ですが、ある人が走り寄って来て、ひざまずいて主イエスに尋ねました。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」
「何をすればよいのか」、「何を行えばよいのか」この辺りも、とても気になる表現ですが、続きを読みますと、主は答えられます。「なぜ、わたしを「善い」と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」という掟をあなたは知っているはずだ。」
 
 すると、この青年は「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えたというのです。
主イエスが言われた「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」この教えは何かと言えば、主なる神がモーセを通して、イスラエルの民に教えられた十戒です。わずか10の教えです。現代の日本の法律の数が幾つあるのか、詳細はわかりませんが、ネットで調べてみますと国が定めた憲法、法律が凡そ2,000あるそうです。それから、政令や勅令と呼ばれるものを含めると凡そ7,500あるそうです。7,500多いのか、少ないのかどう感じられるでしょうか。
 
 スイスの神学者でカール・バルトという神学者がいます。20世紀最大の神学者と言われるほどキリスト教社会では知られた先生です。その先生が、今から103年前の1914年の10月に説教された原稿が本の中で読むことが出来るのですが、1914年というと、ヨーロッパで第一次世界大戦がはじまった年になります。ドイツ、フランス、オーストリア、ベルギー、オランダ、イタリア、イギリス、その年の8月には日本もドイツやオーストリアに向って宣戦布告しました。そんな年の、世界情勢が非常に緊迫した状況の中の10月に、ある教会の礼拝でこの「金持ちの男」の聖書箇所で説教をしている原稿です。

 こう話しています。「もしも、人間がこの地味な事柄、すなわち十戒に聞き従ったなら、われわれは今戦争などしていなかったであろう。十戒への服従、このことがあるなら、すべての邪悪から解放されていたことだろう。」
 
 もし、人が聖書に記されている十戒を本当に守っているとしたら、そこには戦争が生まれるわけがないというのです。けれど現実には戦争が起こっている。だから人は十戒を守ることは出来なかったということです。私たちも子供にも話します。子どもの教会で、2,3年に一回は必ず十戒の学びを行いますし、幼稚園の子どもたちに話す機会もありますし、教会によっては主の祈りを祈るようにして、十戒を唱える教会も少なくないと思います。

 「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」という掟をあなたは知っているはずだ。」と私たちに主イエスが言われたとしたら、私たちは一体なんと答えるのでしょうか。知っていると言えるのでしょうか。知らないと言うのでしょうか。 

 私は子どもの頃は、聖書の御言葉を知りませんでした。勿論、十戒も知りませんでした。でも、親からは「殺すな、盗むな、嘘をつくな、奪い取るな」位のことは言われていたと思います。現代の日本でも、仮に聖書を読んだことが無い人がいて、だから殺しても良いとか、盗んでも良いという人はいないでしょう。それほどに、十戒は人が人として生きていく為に、とても基本的で、必要で、大切な教えであることを意味していると思います。

 もともと、この金持ちの男の問いかけは「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」という問いかけでした。バルトは「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいのか」と問いかけられるのは、彼の人生の最も素晴らしい時であったに違いない。」と記しました。私もそうかもしれないと思います。永遠の命を考える前に、人は様々な事柄を考えます。学校に入れば、どうやって勉強しようかと考え、どのようにして受験に臨むのかを考え、どうやって優れた学校に入ろうかと考え、そして、どのようにして自分の人生を生きていこうか、どうやって収入を得るのか、どうやって社会的地位を手にするのか、どうやって伴侶を得て、どうやって良い家庭を築いくのかを考えるのです。そして、どうすれば人生の成功者になれるのか、と実に様々な、何度も何度も考えながら生きるのだと思います。

 そして、それらの物を全て手に入れても尚、手に入らないものがある、それこそが「永遠の命」ではないですか。バルトがその説教で話していることは、何よりも突然の戦争です。どんなに優れた良い生活をしたとしても、自分にはどうしようもなくなる場面がある。命が脅かされる状況に陥る時がある。その時、人は永遠の命を考えるものだと話しています。それもそうなのかもしれません。

 けれど、聖書の少なくともこの場面は何等かの緊迫した状態があって、この青年が主イエスのもとに飛び込んできたわけではないのです。むしろ、明らかに、この金持ちの男は、永遠の命を受け継ぐ保障のようなものを願ったのだと思います。元々受け継ぐと言う言葉が、遺産を受け継ぐといった類の言葉が用いられています。そのようにして神様から永遠の命を受け継ぎたいのですと願ったということでしょう。
 
 その問いかけに、主は十戒を示して下さった。しかし、男は「先生、そういうことはみな、子供の時から守って来ました」と言ったのです。この人は嘘を言っているのでしょうか。私は違うと思う。実際に、この人は、子どもの頃から恐らく財産もあり、教育熱心な家庭であったと思われますが、それゆえに何度も何度も聖書を読み、十戒などはそらで言えるほどに、その心の中に完全に入っていたに違いありません。心に十戒があることは当たり前であって、いわば普通のことであり、そしてそれは自分の心の律法ともなり、しかも自分は守っていると信じて疑っていない程だったろうと私は思います。

 けれど、自分ではわからない程に、自分の身についていながら、その十戒すら守り切れていない事には気が付かないのです。そこに人の罪がある、この金持ちの男のみならず、私たち一人ひとりにそのような、分かっているけれど、出来ていない、出来ていないことすらわかっていない罪があるのだとも思います。
 
 そして、皆さん、主イエスが、十戒の教えを通して、果たしてこの人に何を伝えたかったのか、ここで更にはっきりしてくるのです。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」その教えは、隣人を愛することです。ただそれだけです。

 あなたは神を愛するように、それと同じように隣人をひたすら愛しなさいと主イエスは教えておられるのだと思います。隣人に対して、自分の律法でもって裁いたり、怒りをぶちまけたり、見下したり、自分が中心となって、あの人は気に入るとか、気に入らないではなく、ひたすら隣人を愛することだと教えておられるのだと私は思います。
 
 そして、そのことは、何をすれば永遠の命を得られるのかという問いかけに対する目新しい答えでもなく、これまで聞いたこともないと思えるような権威からの言葉でもなく、いつも、いつも伝えられ、いつも守りなさいと言われ続けていることなのです。ただ、隣人を愛すること。そこにこそ、天に宝を積む道があると主は言われているのではないですか。
 
 私たちが、躓くのは隣人を愛しきれないでいるからです。そのような私たちに主イエスは言われます。あなたはあなたの心の律法を捨てて、ただ隣人を愛しなさい。その先に永遠の命に通じる道が備えられているのだから。
                                                            お祈りしましょう。

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