日本キリスト教団 大塚平安教会  

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心を尽くして主に感謝をささげ

2019-05-14 10:11:15 | 礼拝説教
【詩編9編2~7節】
【ローマの信徒への手紙10章5~10節】


 本日の説教題を詩編9編から「心を尽くして主に感謝をささげ」といたしました。「心を尽くして」という言葉、旧約聖書はもともとヘブライ語で記されていますが、それをどこか無理やりとはいえ、学者の皆さんが苦心されながら日本語に訳して、私たちが分かり易いようにと聖書に記されています。
 けれど、例えばここに記される「心」と言う言葉一つとってみても、私たちが感じる「心を尽して」と、聖書に記されている「心を尽くして」という言葉のニュアンスは大分違うようです。

 私たちが日本語で「心を尽くす」という言葉を読み、記し、また用いる時、どちらかというと感情的、情緒的なニュアンスが強くなるように思います。

 昨日、教会は、長く信仰生活を送って来られたK姉の葬儀を執り行いました。Kさんは、一人息子であったMさんが、思いがけなく病気を患い1982年7月、21歳の若さで天に召されていかれた。また、2005年には御主人が召されて行かれた。Kさん一人残された形となりました。
その為に、前任の鈴木伸治先生をはじめとする多くの教会の皆さんが、「心を尽くして」Kさんの御生涯を支え、また、昨日の葬儀に際しても、私たちは、まさに心を尽くして、皆様の協力の中で執り行うことができました。
 
 Kさんの葬儀に際し、生前にKさんは、御自分が天に召された際にはと、教会に葬儀に必要であろう費用を預けておられました。その費用で葬儀をしていただきたいと明確にその意志を示しておられました。
 
 ですから私と、教会の役員の皆さんで、葬儀の準備のみならず、予算の面から始まって、普段はご遺族だけが関わりを持たれる箇所にまで踏み込んで、「心を尽くして」教会がその役割を担いました。しかし、そこでは感情だけとか、情緒的にという面だけに流されるわけにはいきません。
 実に細かいところまで配慮して考えなければなりませんでした。考えていくと、あの事が足りない、とか、このことはどうなっているのかとか、例えば、返礼葉書の文面や、返礼の品物、デザインの細部まで決めていかなければなりませんでした。どちらでもよいというわけにはいきません。そのような感情面だけではなく、決めていくこと、具体的に関わりを持つこと、そのような「計画」とか、「決断」と言った意味が、ヘブライ語が用いる「心を尽くす」という言葉の中に込められていると言われます。

 あるいは、「心を尽くして」という意味は、役割が与えられたので、仕方なく行うという意味ではなく、自発的、自ら進んでという意味があると思われます。私たちの教会は、先週の礼拝後に2019年度の教会総会を行いました。そこで多くの事柄が話し合われましたが、役員選挙、会計監査委員選挙がそれぞれに行われました。そこで新年度の役員の皆様が選出されました。この礼拝において2019年度、教会の役員を担って下さる方、礼拝の奏楽を担って下さる方、子どもの教会の担当者としての役割を担って下さる方々の任職式が執り行われます。その任職にあたり、願うことは、自ら進んでという思いを持っていただきたいということです。
 
 16世紀、1500年代に、ドイツで宗教改革が起こり、カトリック教会からプロテスタント教会が誕生しました。その後プロテスタント教会は、それぞれに教派と呼ばれる教会が生まれることになります。私自身、長老派教会の流れを汲む教会において信仰を養い、洗礼を受けました。牧師として派遣された教会はバプテスト教会の流れを汲む教会でありました。岩手の花巻の教会もそうですし、町田にある教会もバプテストと呼ばれる教会の信仰の流れを持った教会です。バプテスト教会の特徴の一つは、「自覚的な信仰」です。
 
 そのため、その教会に集う方々は熱心に聖書を学びますし、町田の教会でも聖書の学びの講座を月に一度、私が担当して行っておりましたが、実に多くの方々が集まり、熱心な学びの時を過ごしたことを思い起こします。
 
 その時にも、バプテスト教会が大切にしていた「自覚的な信仰」について共に学びました。「自覚的」とは「自らが進んで」という意味が強く内包されています。私たちの教会は、そういう面で言えば、基本的には戦後になって本格的に伝道が開始された教会ですし、メソジスト教会の流れを汲む教会と考えられますが、むしろ合同教会として、その特徴を持つ日本基督教団の教会としての歩みを大切にしてきたと思います。あまり教派的な意識を持って歩んできた教会ではないと思います。
 しかし、教派的な歴史ではなく、「自ら進んで、喜びを持って、一つの使命を与えられた者として」任職される皆様は特に、しかしまた、主イエスの福音に繋がる私たち一人一人が、それぞれに「心を尽くして主に感謝を捧げる」そのような思いを持って歩んで参りたいと願います。
 
 更にまた、「心を尽くして」とは、「理解力」であるとも言われます。何ゆえに私たちは神に感謝するのか、その意味を把握し、理解して自分のものとする、そうでなければ心を尽くしきれないのです。

 昨日のK姉の葬儀にあたり、触れないわけにはいかない出来事は、先ほども申し上げましたように、ご子息のMさんの生涯であります。Mさんの遺稿集である「主よ、みもとに」という冊子を読みますと、Mさんは高校を卒業され、一年浪人して、大学に合格される、いよいよ入学というその直前に、腰痛を感じて病院に入院されます。当初は若年性ヘルニアという診断を受け、一週間もすれば直ると言われ、ヘルニアですから腰を牽引する治療をされたようです。しかし、その治療が恐らく良く無かったのでしょう。

 急激に容体が悪化し痛みに耐えられなくなり、横浜市立病院に転院して、悪性の腫瘍が腰にあるとの診断を受け、直ちに手術を受けました。

 その結果、下半身麻痺となり、車イスの生活を余儀なくされることになります。その間、腰痛を訴えてわずか11日目のことでありました。

 それでもMさんは、持ち前の明るさから、車イスでも生活は出来ると、前向きに生きようとされ、以後凡そ半年にわたり、上半身を鍛え、勉強も熱心にされ、将来に多くの希望を持って生きようとされました。
いよいよリハビリの専門の病院に転院となった頃に、腫瘍が転移していることが判明し、検査の日々、さらに再手術、どうもお母さんのKさんは、医者から回復の可能性は薄いと宣告されていたようであります。

そんなMさんの所に、前任の牧師である鈴木伸治先生が毎週木曜日にお見舞いに行き、聖書を読み、共に学ぶ。毎週、毎週行ったようです。恐らく、病院において、まだ元気な頃のMさんは、鈴木先生と聖書について、神について、信仰について、生きることについて、死ぬことについて、果てしないほどに話しをしたのではないかと推測いたします。Mさんは自分の体について、決して楽観出来ない状態であることは分かっておられたと思います。だからこそ、尚更、神について、神の愛について、苦難と病について、鈴木先生に問い続けたのではないでしょうか。

 そして、一つの結論に達したのかどうか、それは本人にしかわからないことではあると思いますけれど、しかし、遺稿集の中に「私は誰」という正道さんの記した詩が記載されてありましたので、ご紹介したいと思います。

 彼はわすれていた イエス様が十字架にあることを 
 
 彼はわすれていた おのれのいたみの中で

 主は彼に何度かたずねられた 『私は誰か』

 彼は その意味を解せずにいた。

 主は私の、万人の、救い主 まことのキリストである。

 彼にはやっとわかった 主は彼のキリストなのだ 

 十字架の上のキリストなのだ。

 ここに記される、彼とはMさん御自身であろうと思います。主はMさんに尋ねられた。『私は誰か』その問いに当初答えられずにいた彼は、しかし、最後には、主は彼のキリストなのだ、十字架の上のキリストなのだ、と信仰を告白するのです。この詩がMさんのいつの時点に記されたのかは、定かではありません。日にちが記されてありません。けれど、いつの時点であるとしても、Mさんは主イエスこそ、私の救い主であり、まことのキリストであると、理解したのだと思います。

 自分が病床の中にあって、非常に厳しい状況の中にあって、回復する望みがあるのかないのか分からない状況の中にあって、尚、「理解」したのです。主イエスこそ、私の救い主。鈴木先生も相当に真剣であったに違いありません。ここに、生と死の戦いのさ中にあって問い続ける若者と、それに必死に答えようとする鈴木先生の姿を見るような思いがいたします。

 そしてMさんは、自分の病気によって、神を呪い、神も仏もあるものかとは記さず、主イエスこそ、私の救い主と記したのです。そう理解したのです。

 そういう理解をした者の生き方は、最後の最後まで「自分を愛し、隣人を愛する生き方」であったと記してありました。「わたしは心を尽くして主に感謝をささげ」主に感謝をささげる為には、神は誰であり、どんな方なのか、そういう理解が求められるのだと思います。しかし、それは、直ぐに答えが出るものではないかもしれません。まさに生涯において、私たちに託されている神の問いかけであるかもしれません。

 しかし、そのような理解しようとする努力なしに、「心を尽くして」という本当の意味を自分のものにするのも難しいものかもしれません。

 けれど、だからこそ、主イエス・キリストは、私たちの為に十字架に架けられ、死に、三日の後に復活されて、死に勝利された。私たちが理解しようとしても理解しきれない、そのような思いを受け止め、いいよ、そのまままでいいよ。

 あなたは私の愛する友であると教えて下さり、私たちをそのままで歩めと、信仰への道を導いて下さる、それが私たちに対する神の救いではないでしょうか。だからこそ「わたしは心を尽くして主に感謝をささげ」るのです。

詩編の「感謝をささげ」の後に続く御言葉は「驚くべき御業をすべて語り伝えよう」です。驚くべき神の御業、十字架と復活の主イエスを、今日はローマの信徒への手紙10章から読んで頂きましたが、そこでパウロはこう伝えます。

「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」とあります。

 心で信じて義とされ、口で公に言い表す。理解力とは、言葉にしてみなければわかりません。しかも自分の口で語る。勉強の非常に有益な方法は、人に教えることです。人が理解するように話せるかどうか、言葉で話して相手が理解できるなら、話す方はより深い理解を得ている。人にものを教える方々は、そのことを良く分かっておられるでしょう。
しかし、ここで大切な御言葉は、ロマ書に記される「信仰の言葉」です。

 Mさんが、主は私の、万人の、救い主 まことのキリストと告白したように、その信仰によって生きたことによって、お母さんのKさんも、お父さんも確かな信仰を、息子の人生のその生き様を通して、息子の死を越えて、復活の神を信じ、神を称え、神の救いに感謝して生きて来られました。

 私たちもまた、そのような先人の信仰をしっかりと見据えて、私たちに与えられているどのような状況にあっても尚、「わたしは心を尽くして主に感謝を捧げる」信仰を養い、この5月も共々に歩んで参りましょう。

 お祈りします。

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