日本キリスト教団 大塚平安教会 

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神の賢さとは

2017-11-04 23:00:36 | 礼拝説教
【マタイによる福音書25章1~13節】

「神の賢さとは」

 皆さん、雨の日となりましたが、今日は子どもの教会との合同礼拝となりました。子どもたちとの一緒の礼拝を過ごせる幸いを感謝しながら過ごしていきたいと思います。
 
 既に多くの皆さんがご存じのように、私は岩手の花巻が出身です。岩手の花巻と言うと、有名なものが三つありまして、一つは花巻温泉、一つはわんこそば、それから宮沢賢治となります。

 宮沢賢治は沢山の童話や詩を記して、全国的にも良く知られている一人だと思いますけれど、今日はその中でも、特に知られている「銀河鉄道の夜」の話をしていきたいと思います。

 主人公はジョバンニという少年です。小学校の4,5年年生位でしょうか。その中の良い友達にカムパネルラ、ちょっと意地悪な友達のザネリがいました。ジョバンニのお父さんは家を出て行って、どこに行ってしまったのか分かりません。ですからジョバンニは病気のお母さんを助けながら生活していました。時々、ザネリから、そのことでからかわれて、「お前の父さんは悪者だ」とか言われてジョバンニは少し寂しい少年でした。

 ある日の事、夜にお祭りがある日のことでした。ジョバンニは皆で学校の授業を受けていました。その授業で、先生から夜の星の天の川のことを教わります。先生は天の川は一つ一つが星であると教えながら「乳の流れる川のようですね」と話してくれました。
  
 その日の夜、皆はお祭りに行っていたのですが、ジョバンニは一人寂しく夜空をながめていました。あれが天の川なのかな~って思ってみていると、なんだか、だんだん汽車の音がどこか遠くで聞こえてきます。その汽車の音はどんどん大きくなってきて、不思議な声が聞こえて来ました。

 その声は「銀河ステーション、銀河ステーション」と言っているように聞こえます。そして、目の前が急にパッと明るくなって、びっくりして目をこすっていたら、なんだか、ゴトゴトゴトと、音を出しながら走っている汽車の中にジョバンニは座っていたのでした。
 窓の外を見ると、どうも夜空の中を走っているようです。そして、前に一人の少年が座っていて、最初寂しそうに見えていたその少年は、カムパネルラだと気が付きました。

 ジョバンニは「カムパネルラ、前からそこにいたの?」と聞こうとした時、カムパネルラのほうが「遅れてごめん、僕以外の誰も追いつかなかったよ。ザネリもね」と言うのです。

 そこから二人の銀河鉄道旅行がはじまります。最初は白鳥座の駅で降りて、天の川の岸辺でキラキラ光る水晶やトパーズや素敵な石や、すごく昔のクルミの実を見つけたり、そこでくるみの実を調べているおじさんと話したり、汽車の中では、「鳥を取る商売」をしているおじさんと話しをして、ガンという鳥を食べさせてもらったら、おかしのように美味しかったり、その次には氷山にぶつかって沈んでしまった船にいたという青年が男の子と女の子を連れて汽車の椅子に座っていて、沈む時に讃美歌の歌声が聞こえてきた話とかをしてくれたりするのです。

 他にもいろいろな人が登場してくるのですが、でも、ふしぎなことにジョバンニはだんだん機嫌が悪くなるというか、ふさぎ込んでいって午後の2時のあたりのことでしたが、ふと、「こんな静かなところで、僕はどうしてもっと楽しくなれないのかぁ」と思ったりしていました。
 さそり座の駅を過ぎて、3時ごろ南十字星に到着した時、一緒に乗り合わせていた人たちが下りる支度をはじめます。ジョバンニはどうして皆さんおりるのですか?と聞きましたら、ここが天上へ行くところだからと返事がありました。

 天上なんか行かなくたっていいじゃないか、もっと一緒に旅をしましょうと話しますが、どんどん駅が近づいて来て、その駅からは「ハレルヤ、ハレルヤ」という明るい声がひびきてきて、遠くからはすきとおったなんともいえないさわやかなラッパが響く音がして、そして緩やかに南十字星の駅の十字架のちょうど向いに停車するのです。そして、みんな降りてしまった後、ジョバンニはカムパネルラに話しかけます。「カムパネルラ、またぼくたちふたりきになったね、どこまでも僕たちはいっしょにいこうね」と話しかけたら、笑って「そうだね」と答えてくれたのですが、でも、もう一度振り返った時にはカムパネルラは消えるようにいなくなっていました。

 ジョバンニは驚いて、一人となって、大きな声で泣き叫んで、そして目を開けたら、ジョバンニは汽車ではなく、家の近くの静かな夜の丘の草の中に眠っていたことに気が付きました。
 
 あ~もしかしたら夢だったのか、そうだお母さんが心配しているから早く帰ろうと走り出しました。でも川の近くに行ったら、そこに大人が七人も八人もいるのです。ジョバンニは胸が冷たくなったように感じて、「何があったのですか」と尋ねました。「子どもが水に落ちたのですよ」という返事がありました。
 祭りの楽しさの中、小さな船に乗っていたザネリが何かの拍子に舟が揺れて、バランスを崩して川に落ちてしまったのをみて、すぐにカムパネルラが川に飛び込み、ザネリを抱え、船に押し上げた後、カムパネルラはまた川に沈んでいったというのです。そして、それから45分たってしまっていたというのです。

 二人で汽車に乗っていた時、カムパネルラはこう話していました。「おっかさんは、ぼくをゆるしてくれるだろうか」、ジョバンニは驚いて「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないじゃないの」と言いましたが、「ぼく、わからない。けれど、だれだって、ほんとうにいいことをしたら、いちばんしあわせなんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるしてくださると思う。」と言ったのです。ジョバンニはその言葉を思い出していました。

 さて、皆さん、この銀河鉄道の夜の話をどう読むのかは、私たちが考えなければなりません。汽車の中で「おっかさんは、ぼくをゆるしてくださると思う」と言っていたカムパネルラは、その時、ザネリを助けて、自らは川に沈んでいったその時と重なるのかもしれません。あるいは、その後なのかもしれません。
 この銀河鉄道は、神の、天の国へ向かう鉄道であったろうと思うのは私だけではないと思います。午後の2時ごろにジョバンニはとても悲しくなって、そして3時頃に南十字星に到着するのも偶然かもしれませんが、主イエスが十字架で亡くなった時刻と重なるのだと考える学者もいます。

 皆さん、そしてなにより宮沢賢治はこの物語を通して、私たちに伝えたかったものは何か、椚山義次という福島大学の先生が、それは、「さいわい」ではなかったのかと教えておられます。この「さいわい」はこの世のラッキーといった感覚とか、一般的な「幸福」の追求とも違う幸いを示唆していると教えておられます。

 今日はマタイによる福音書の25章という箇所から読んで頂きましたが、そこには「十人のおとめ」のたとえでした。主イエスが「天の国は次のようにたとえられる」と話して、十人のおとめがともし火をもって、花婿を迎えに出てくと言う話をされました。時々勘違いする人がいますが、この十人のおとめは、花嫁の友達、仲間です。花嫁が家で待っていて、友達の十人が花婿を向えに出るという話となります。ところが花婿が来るのが遅れて、五人のおとめの油が切れてしまったというのです。油を分けて下さいと他の五人に頼むのですが、分けるほどはありませんと断られてしまったというのです。

 私はこの話を読むたびに、断ったおとめは少し冷たいおとめだなと思います。けれど、なぜ油は分けられないと言ったのか? それはきっと油という言葉を用いながら、本当は目に見えるものではなかったのではないかと思うのです。目に見えないものを半分にすることは出来ません。そして「幸い」、あるいは「信仰」もまた、分けるといった類の者ではないのではないかと思うのです。むしろ、そのように生きることなのだと思うのです。

 もともと、このたとえ話の不思議だと思うところは、意地悪な考え方ですけれど、もし、もっと花婿の到着が遅くなったら、10人のおとめのだれもが油を切らしてしまうということだってあるのではないかと思うのです。だから丁度、五人が切れたあたりを見計らって花婿が到着した、のでもないのです。 私は、恐らく花婿の到着時間がいつであっても、5人は油を切らし、5人は油があったのだろうと思います。なぜなら、主イエスが私たちに伝えたかったことは、天の国とはこういうことだと、つまり、油を分けるとか分けないとか以上に、分けても、分けても尽きない油、用いても、用いても尽きない灯、そのような幸いをあなたは手にすることが大切だということではないかと思ったからです。

 人は不思議なことに、同じ状況に遭遇しても、同じ対応をするわけではありません。どんなに辛く苦しいだろうと思える境遇でも、笑顔で生き生きと生きている人もいれば、人がうらやむ生活を営んでいても、妬みと悲しみに生きている人もいます。権力を手にいれても、その権力を守るためにミサイルを打ってくる人もいれば、今日一日のわずかなパンを互いに分け合いながら食べられることに感謝している人もいます。

 皆さん、幸いとはなんでしょうか。宮沢賢治もまた本当の幸いは何かを求めた一人であったと私は思います。体が弱く、生きている間は一度も報われるようなこともなかったかもしれませんが、でも、幸いを自分の心の中にあることを見出した一人だったのではないかと思うのです。

 賢治は37歳で天に召されました。死ぬ間際になって、父親から何か言い残すことは無いかと尋ねられます。その時、賢治は父親に自分の信仰について思う所を話したところ、父親は「お前は偉いなぁ」と語ったと言われます。この言葉を聞いた賢治はそばにいた弟に「ついに、俺も父親に褒められた」と言って喜んだと言われています。
 
 皆さん、子どもが喜ぶのは、お母さん、お父さんがこどもを誉めるというよりも、認めてあげた時です。カムバネルラも最後まで、自分のしたことが、親はほめてくれるだろうか、ゆるしてくれるだかろうか、さいわいだと言ってくれるだろうか、それが心配だったのではないでしょうか。

 幸いのある場所、そこには愛があります。愛がある場所、そこにこそ神様がおられます。カムパネルラはきっと、お前が私の子どもで良かったよ、とおっかさんが言ってくれるだろうと思っていたでしょう。賢治自身もその死を目前にして、父親に褒められた時に、どんなに幸いを感じたことでしょうか。

 お前が私の子どもでよかった。あなたが私の夫でよかった。お前こそ、私の妻としてありがとう。私たちは家族でよかったなぁ。それこそが尽きない油の正体です。そして、誰よりも主なる神が、あなたがあなたで本当に良かったと言って下さると知ることです。その時あなたは、賢いおとめのように、自分も尽きない油を手にしていると知るのだろうと思うのです。

お祈りします。

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