日本キリスト教団 大塚平安教会 

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幸いに生きるために

2021-10-10 11:47:19 | 礼拝説教
【詩編128編1~6節】
【ルカによる福音書11章27~28節】


 今日の説教題を「幸いを生きるために」としました。私たちは誰もが、出来れば「幸いを生きていきたい」と願います。けれど、幸いとはどういう状態なのかと問われるとすれば、具体的にこういう状態と答えるのは難しいかもしれません。
 世界に有名な「幸福論」という著書が三つあるそうですが、フランスのアランという人が記した「幸福論」によると、人はいつも気分が悪いのだそうです。何か不幸なことがあったわけでもないのに、常に気分が悪く、機嫌が悪い人が多い。人は意識せずに、自然に任せておくと次第に不幸な感情に取りつかれてしまうようです。私はそれが良く分かるような気がします。
 
 
 私たちは何かを考えている時、かなりの確率が悩みであり、不安ではないでしょうか。私は最近、家を出て教会に向かう時に、なぜか必ず忘れ物があって途中で戻るのです。今朝もそうでした。
 血圧の薬を朝食の後に飲むのですが、朝食の後、薬を飲もうと思って立ち上がって、なぜか洗面台に行って歯を磨いていたり、着替えたりしているうちに、あれ!薬は飲んだのか、飲まなかったのか分からなくなったりします。そんなことをしていますと、自分も歳を取ったな、なんて思ってがっかりするわけです。

 だから余計に気を付けなければならないのですが、何に気を付けるのかというと「自分は幸せを生きていくぞ」という意識を持ち続けることだとアランは教えました。あるいは「幸福であることは人間の義務」だとも告げています。
人は不幸な人、不機嫌な人の側に近寄りたいとは思いません。ですから私達が出来る、人に対する親切は何かというと、何かをするよりも、機嫌良く生きる、それだけで大分人に対しては親切だと思います。大切なことではないでしょうか。

 今日読みました詩編128編も、人が幸いであるとはどういう状態なのかを記している詩編だと言えるでしょう。2節にこうあります。「あなたの手が労して得たものはすべて あなたの食べ物となる。あなたはいかに幸いなことか いかに恵まれていることか。」海や湖に出る漁師であれば魚を獲る。農家であれば土を耕し、水を注ぎ穀物、野菜を育てる。山に向かう猟師であれば、鹿やウサギを狩る猟をする。あるいは、街に出かけて行って何等かの商売をする。大工したり、道路を作ったりする。そういった労働の末に、手に入れた食糧がある。今日の一日の糧がある、それはなんと幸いであろうかと伝えます。
3節には「妻は家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木、食卓を囲む子らは、オリーブの若木。」この箇所は家庭における幸いを記しているのだと思われます。今の時代は、妻も夫も働きに出るのが普通であって、時代遅れだとか、妻が家の奥にいるなんて、女性蔑視だといった見方はしなくて良いと思います。

 先ほど、結婚という讃美歌を歌いまして、驚いた方がいたかもしれませんけれど、私はこの104番の讃美歌は好きな讃美歌の一つです。スコットランドの古くからの民謡に、牧師である以上に讃美歌作家として知られているイギリスのブライアン・レンが讃美歌の歌詞をつけて作った讃美歌です。
「愛する二人に、あふれる喜び 造られた神を たたえて歌おう」と歌いだしますが、家庭の基礎、土台は結婚する二人から始まります。二人で家庭を築き、幸いにも子供に恵まれる。勿論、生活する中で、色々な困難を経験するとしても、二人で協力しながら生活を営んでいるある日、夫が家の奥にいた妻を見つめて気が付くのです。 
 笑顔で、明るい家庭の中で食卓の準備をしている、その様子はまるで、実り豊かなぶどうの木のようで、その食卓を囲んで子どもたちがやって来る、その様子はオリーブの若木のようにしなやかで希望に満ちているな、なんという幸いなことであろうか。と普段の何気ない風景を見ながら、しかし、そこに与えられている幸せを見つけて喜んでいる場面、それが128編3節です。
人々の多くは幸いが、自分の所にやって来ないだろうかと幸いを待っているところがあります。でも、外からやってくる幸いはきっとまた、どこかに行ってしまいますよ。外ではなく、自分の内に幸いを見つけられる人こそ、まことに幸いだと思います。

 5節、6節にはこう記されています。「シオンから 主があなたを祝福してくださるように。命のある限りエルサレムの繁栄を御 多くの子や孫を見るように。」この箇所は、長寿であるということと、幸いが結びついています。一月ほど前になりますが、さがみ野ホームにおられた大森操さんという男性の方の納骨式を執り行いました。式のためにホームから送られてきた資料を読んでビックリしました。大正12年生まれとありました。98歳の方でした。さがみ野ホーム最長老だったそうです。7月に召された方ですが、亡くなる2か月前の5月には庭に出て、ビールを飲んで、プリンを食べていたそうですから更に驚きました。元気で長寿である、それは神様の祝福を感じます。自分も出来ればそのように生きていきたいと思います。でも、詩編は長寿だけではなくて、

 「多くの子や孫を見るように」とも記されています。自分の子ども達がそれぞれに家庭を築き、その家庭でも子どもに恵まれて、気が付けば自分達は多くの孫に囲まれている。長く生きて来て良かったなぁとつくづくと思う、そんな情景が記されていると思うのです。

 そのようにして詩編128編は、「幸い」とは、まず、日毎の糧がしっかりと与えられる。そして家庭が守られ、家族が幸せである。更に長寿が与えられ孫に囲まれる。人の幸いとはこのようなものではないかと伝えているのだと思います。
 
 そして、「幸い」に生きるために必要なことは何か。それが1節に戻りますが、こうあります。「いかに幸いなことか 主を畏れ、主の道を歩む人よ。」あるいは4節「見よ、主を畏れる人はこのように祝福される。」と記されています。私たちが幸いに生きるためにも「主を畏れ、主の道を歩む」これが真に幸いに生きる秘訣であると詩編は伝えているのです。

 先ほど、新約聖書からルカによる福音書11章を読みました。短く読みましたが、主イエスが口を利けなくする悪霊に取りつかれた人を癒している場面です。悪霊を追い出したところ、口の利けない人が物を言いだしたので、周りの群衆は驚いた。驚いただけでなく、主イエスを怪しむ人もいたり、試そうとしたりする人も出てくるのです。

 けれど、主イエスの業と言葉を聞いて、感動した一人の女性が「なんと幸いなことでしょう。あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」と主を讃えたのです。直接主イエスを褒めて、讃えるのではなく、間接的に、主イエスの母であるマリアを褒める、母親の幸いを告げることによって、より効果的な誉め言葉となっているかもしれません。
けれど、主はこう答えました。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」主なる神の言葉を聞いて、聞くだけでなく、それを守る人たちにこそ、幸いだと告げたのです。ここで言う神の言葉とは具体的には主イエスの言葉です。

 主イエスが語る祝福の言葉を聞くことです。主が告げる祝福の言葉とは、招きの言葉です。言うまでもなく神の救いへの招きであり、神の国への招きです。

 先日、夕食の際にふいに、長男が話しかけて来て、「お父さんは、説教した後に、周りの人がどう思っているのか気にならないの?」と聞かれました。私はその問いに関しては明確な答えがありまして、「自分からは絶対に説教の評価を求めない」ということにしているよと答えました。評価を聞かない、それは多くの先輩の牧師からも教えられたことでもあります。上手くいったと思う説教も年に何回かはありますが、むしろ何とか話しきったと思う時も多く、全くダメだったと思う時も多いのです。でも、時として自分の評価とは全く違う思いで受け止めてくださる方も多く、時として自分では上手くいったと思っても、全く分かりませんでしたと言われたこともあり、その逆も良くあるのです。
勿論、どんな評価をされるとしても受け止めなければなりません。けれど、説教もまた神の国への招きであり、神の救いへの招きです。あなたも、あなたも神の救いへ導かれて欲しい、もっと具体的には、特に洗礼を受けておられない方々には、そのような道筋を辿って欲しいと心から願っています。

 更に、何よりも主イエスが話される御言葉、救いへの招きのみ言葉を是非、受け止めて欲しいと願います。それが、人が「幸いに生きるために」どうしても必要だと私は思っています。聖書を読み、主イエスの御言葉を読み、感動する人は多いことでしょう。御言葉に励まされ、喜び主を讃える方々も多いことでしょう。でも、そこまでで、終わってしまう方々も少なくありません。

 詩編128編は「いかに幸いなことか 主を畏れ、主の道に歩む人よ」とあります。主を畏れ、主の道を歩む人となる。主を自らの神とし、この方を自分の人生の中心に据えて、主に従って生きていこうと決心する人となる。それがどんなに幸いなことなのかを詩編の作者は伝えているのです。ここにこそ、人が生きる幸いがあるのです。

 週に一度の礼拝、いつもの礼拝であり、普段と変わらない礼拝であるかもしれません。でも、この礼拝において、神の聖霊が働き、私達はその方によって、目が開かれ、ついつい霞んでしまいそうになる目が清くなり、よく見えるようになって、私たちは新しい一週間を歩むのです。
 見える目に映ってくるのは、どんな場面においても神の幸いでありましょう。神の祝福でありましょう。そのようにして私たちは生きて参りましょう。幸いを生きて参りましょう。

 お祈りします。


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