日本キリスト教団 大塚平安教会 

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信じる生き方

2021-06-27 15:33:06 | 礼拝説教
信じる生き方

※ ビデオのラスト30秒ほどが切れています。文字でご確認ください。

【詩編116編1~11節】
【コリントの信徒への手紙二 12章7~10節】

 今日の説教題を詩編116編10節の御言葉から「信じる生き方」としました。神を信じる者の生き方があると私は思います。特にそれは、人生の後半に大きく変わってくると思います。
昨日の土曜日、の午前中、壮年会の方々が教会に来て掃除をして、今日の備えをして下さいました。掃除の後、お茶をしたのですが、口々に自分達は年を取ったという話をしておられた。「耳が遠くなった」とか「同じ姿勢だと腰が動かなくなる」とか、「もはや、壮年会ではない」とか色々言っておられました。でもね、そんな会話を皆さんが笑顔で、笑いながらしておられるのです。私はその笑顔を見ながら「信じる者の生き方」があると思わされました。

 世の中はコロナ禍が続き、パンデミックが続いています。日本だけでなく、世界中に様々な分断やひずみが生まれています。経済活動も弱まり、昨年は子どもの出生数も過去最低とありました。先日、私が関わっている町田の保育園で理事会がありましたが、今は、待機児童ゼロだと聞きました。

 待機児童ゼロが示していることは、幼稚園、保育園のどの園も、定員を満たしていないと意味だそうです。私達の教会も、ドレーパー記念幼稚園がありまして、佐竹和平園長をはじめとして、励んでおられますけれど、どうぞ、覚えてお祈り下さい。
 
 そのような厳しい状況ですが、私達の国では、50年連続上昇している数字がありまして、それが何かというと、100歳以上の方の人数です。 昨年9月に、100歳以上の方が8万人を超えたとありました。綾瀬市の人口が8万3千人ですから、綾瀬市と大体同じ位の方が100歳を超えています。

 人生100年と言われる時代になりました。先ほど人生の後半と申し上げましたが、人生は60歳が分岐点だそうです。20歳から60歳までの40年と、60歳から100歳までの40年があるというのです。ですから60歳が丁度折り返し地点となります。そう聞きますと、私は、今、人生の後半40年の最初の一年を生きているわけで、いよいよ人生これからだと思うのですが、前半の40年と後半の40年の違いは何かというと、20歳から60歳までの40年、この時代の方々は、いわば右肩上がりということでしょう。

 二十歳前後で学校を卒業し、就職、仕事を始め、更にパートナーが与えられて、家庭を築く。体も元気ですし、多少の失敗があっても、年齢でカバーできますし、やり直すことも出来ます。
 それぞれに夢があって、地面に夢の種を植えるわけですよ。20代、30代の方々は、自分はどう生きていこうかと考えながら、自分の「夢」という種を埋めるのです。その「夢」が芽を出して、「希望となり」葉が出て、成長していく、上手に成長させるが、30代、40代、成長した夢は確かな幹となり、枝を大きく伸ばし、そして花を咲かせる。更に花が実となり、実を結ばせるのが、40代、50代、そんな風に考えることも出来るでしょう。右肩上がりの人生ですから、実を結ぶまでを一生懸命に生きていけます。

 となると、その「希望」の実りをどう生かするのか、という課題が与えられるのが後半の40年かもしれません。その実り、リンゴならリンゴだとすると、一個の実り、けれどその中に種があるわけで、その種を数えるとすれば数えることは出来るでしょう。でも、種を地面に植えて、芽を出し、成長しリンゴとなると考えれば、もはや無限です。
 後半の40年がなすべきことは、そのようにして無限の世界、数えきれない世界、目に見えない世界、もっと言えば、「夢」が「希望」となり、「希望」が結実して「信仰」の世界をどう生きるのかが問われているだと思います。

 20歳からの40年の人生で成長させる希望は、多くの場合、世の目に見えるものです。人によってそれは財産、富かもしれませんし、社会的地位かもしれません。そして、それは多くの場合、人間の知恵や努力によって結実して、その結実こそ幸いだと自分も人も思うでありましょう。人の目から見るとどうしてもそう思うのです。

 でも、それらの世の富はいつか消えて無くなりますし、神の目から見たら果たしてどうでしょうか。

 ある牧師が旧約聖書に登場するダビデ王について記しました。「一人の牧童から一国の王となったダビデの最大の業績は王国の建設にあったと当時の人は思っただろう。しかし神の目から見ると、彼の業績は別のところにあった。」

 ダビデは、イスラエルの歴史から見ても、誰よりも多くの領土を広げ、誰よりも富を築き、国民から愛されました。後の時代に至るまで、ダビデの末から救い主が誕生するとさえ言われる程の人になりました。でも、ダビデの最も優れた、そしてかけがえのない業績は、何かというと、「詩編」だというのです。

 聖書に150ある詩編の中で、ダビデの詩編と呼ばれる詩編、ダビデと関係すると考えられる詩編は半分近くの73の詩編がそうだと言われます。

 これまで礼拝において長く詩編を読み進めて参りましたが、ダビデの詩編の特徴の一つは、ダビデが王になる前に、サウル王に妬まれ、嫉妬され、命を狙われ、逃亡生活を強いられて、苦悩の中で神に叫び、神に祈り、神を願い求めた心の叫び、それが詩編となっているということです。

 ダビデが一代で築いた富、優れた王国、地位、それらすべては滅びましたが、ダビデが残した「詩編」は今も、人々の心を捉え、世界中の信仰者を励まし、力付け続けている。皆さん、「希望」が「信仰」になる瞬間、それは見えるものを越えて、見えないもがいつまでも残る時なのかもしれません。

 今日は詩編116編を読みました。この詩編はダビデの詩編ではありませんが、詩編の前半で、詩編の作者は神に必死に祈り続けています。病気であったのか、敵との戦いの中だったのか、詳細はわかりません。でも3節には「死の綱がわたしにからみつき」、とあり、「陰府の脅威にさらされ 苦しみと嘆きを前にして」とあります。4節には「どうか主よ、わたしの魂をお救いください」と記されています。苦しみの様子がわかります。けれど8節になりますと「あなたはわたしの魂を死から わたしの目を涙から わたしの足を突き落とそうとする者から助け出してくださった。とありますから、命の危機から逃れ、健康を取り戻したか、敵から逃れられたのでしょう。喜びを込めて10節で「わたしは信じる「激しい苦しみに襲われている」と言うときも 不安がつのり、人は必ず欺く、と思うときも」と続きます。

 年を重ねる、長く生きていますと、詩編の作者が記しているように、壮年会に限るわけでもありませんが、激しい苦しみに襲われたり、不安がつのったり、する時があるものです。皆が元気に年を取りたいと願いつつも、いつまでも若い頃のように動けるわけではありません。人生の後半70歳、80歳、90歳と次第に思うように動かなくなる箇所も増え、思うように機能しない箇所も増えていくのです。

 人生の前半の40年が、手に入れる、集める、増やす生き方だとすれば、人生後半の40年は手放す、失う、減らす生き方だと言えるでしょう。でも、手放し、失い、減らす中にあって、本当に大切なものだけが残り続けるのではないでしょうか。健康を失うとしても、大切な何かを手放すとしても、体力を失としても、尚、残り続けるものがある。何が残るのか、「信仰」こそが残る、とも言えますが、死信仰、希望、愛、この三つはいつまでも残る、しかし、その中で最も大いなるものは愛だとあるように、「神の愛」が残るのでしょう。神様の愛は、減るどころか、年々増えて、私達の人生を益々幸いへと導いて下さる神の力、神の印であろうと思います。

 先ほど、コリントの信徒への手紙を読みました。使徒パウロが神様に祈ったようすが記されています。一つのとげが与えられ、何度も祈ったとあります。 

 けれど、主は「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」と言われたというのです。
 主なる神の愛、主イエスが教えて下さる愛の形は、今、あなたにとってそれは十分だという「恵み」だと思います。時として神様、私はこんなに辛い思いをしているのに、神様、こんなに激しい苦しみに襲われていますと、思うことがあります。年を重ねれば、重ねる程にその回数が増すかもしれません。右手が痛いと思っていたら、左手も痛くなる。左足が動かないと思っていたら右足も動かなくなる、でも、そこでこそ信じる者の生き方がある、それは私の恵はあなたにとって十分だと告げられる神の御言葉です。

 人の思いから見れば失うものばかり、でも、尚、神様は私を忘れておられず、神の愛の中に招き、神の愛を生きる者として下さっている、この状況でも、尚神の愛が確かに与えられていると信じて生きていける。年を重ねれば重ねる程に、笑顔が絶えず、祝福に生きられる生き方があるに違いないと私は思います。

 そのようにして、私たちは、主に愛されて、主を愛し、主に祝福されて、隣人を祝福し、神の恵みをしっかりと受け止めて、今週も過ごして参りましょう。

お祈りします。

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