日本キリスト教団 大塚平安教会 

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誠実に愛する

2017-11-07 12:09:53 | 礼拝説教
【創世記4章1~10節】 
【ヨハネの手紙一3章11~18節】

 2017年度の召天者記念礼拝において、読んで頂きました聖書箇所、ヨハネの手紙の3章11節からの箇所を読んで頂きました。「互いに愛し合いなさい」というタイトルが付けられています。
 
 主イエスの弟子の中で、恐らく一番主イエスに愛されていたのはヨハネではなかったと言われています。そのヨハネがヨハネによる福音書を記し、ヨハネの手紙の一も、記したと学問的にも言われていますが、福音書もそうですが、ヨハネの手紙も、どんなに愛が大切なのかと何度も、何度も記されているように思います。パウロという人がいますけれど、今、水曜日の祈祷会でパウロが記したコリントの信徒への手紙という箇所を読んでいますが、「愛」というよりは「神の赦し」を強調しているかなと思わされます。
でも、ヨハネはね、主イエスの直接の弟子として、赦しもそうですが、やっぱり「愛」なんですね。神は愛だとさえ言っているように、互いに愛すること、それがどんなに大切かと告げているわけです。
 
 とはいえ愛とは何か、これは私達にとって、キリストを信じる者にとって、生涯のテーマと言ってもよいのではないでしょうか、また、多くの書物が愛について記しているわけですが、聖書は「互いに愛しあいなさい」と教えました。しかも、その愛の形をどのようにして私たちが知ったのかというと、16節に「イエスは、わたしたちのために、命を捨てて下さいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」とありますように、聖書が告げる愛とは、自分の命を捨てるほどの愛だというのです。

 フランスの作家で、エマニュエル・シュミットと言う人がいます。その人が記した本に「イエスの復活」という本があるのですが、主イエスが最後の晩餐の場面からゲッセマネの園で捕えられるまでの間に、イエス様がご自分の心の中でずっと考えておられたことを記す場面があります。

 自分がもうすぐ捕らえられてしまう、そんな覚悟を持ちながら、しかし、自分自身を顧みながら思うのです。自分はただ人々に「愛」を示し続けたかったのだというモノローグ風にといいますか、独り言のようにして記されている場面です。自分はただ「愛」だけを示し続けたかった、愛だけが全てだった、「あなたは神の愛を信じるか」と問い続けて来た。
 けれど、人々は、この病気は治りますか。この足は立てるようになりますか。目の病気は扱っていますか、と次から次へと押し寄せて来る、私は皆に「あなたは神を信じるか」と問い続けてきたのに、もうその言葉は何の意味もなくなり、癒しの出来事ばかりを求め、そして、愛を説き続けて来ただけなのに、人々はこの世の社会的改革を求め、政治的指導者を自分に重ね、願い、熱狂的になっていった。でも、立場のある人々が妬みから主イエスを捕えてしまうと、人々はもう自分の言葉など無関心になってしまうのだ。と嘆く場面があります。とても人間臭い主イエスの姿が記されていると思いますが、しかし、優れた小説だと思います。
 著者は、主イエスの徹底的で、普遍的な、しかも顧みを求めることをしない「愛」を描きたかったのだろうと思います。

 顧みを求めない愛、私たちは、そのように生きたいなと思いつつも、いつの間にかどうしても顧みを求めてしまうし、顧みがなければ腹が立つのです。ヨハネの手紙は「互いに愛し合うことだ」と教えますが、互いにとは少なくとも、この世のギブ&アンドテイクのような、これだけやったのだから、これぐらいは返してもらわないというものとは違う「互いに」という意味でありましょう。

 旧約聖書、創世記4章という箇所も読んで頂きましたが、アダムとエバの二人の息子のカインとアベルがそれぞれに、主に捧げものをしました。カインは土の実りを、アベルは羊の中から肥えた初子を献げたのです。主はアベルの献げものを喜び、カインの献げものを顧みませんでした。怒ったカインは、神に怒りをぶつけるわけにはいかないので、アベルに怒りをぶつけてアベルを殺してしまったというのです。
 自分がこれほどやったのにと思ったからでしょうか、しかし、この創世記の箇所をじっくりと読みますと、カインは土の実りを献げ、つまり収穫の実の地を献げたと思われますが、アベルは羊の中の最も肥えた初子、つまり、持っている物の最上のものを献げたとあります。カインはもしかしたら最上のものは自分のものとしたと思われます。

 そのことに気が付いていた主は、アベルの思いに応え、カインの思いに応えなかったのです。恐らくカインも自分を顧みてくれなかったその理由も分かっていたのではないかと思います。だからこそ、更に腹を立てたのではないかとも、私は思う。腹を立てて見せることによって、神に対しても、アベルに対しても自分を正当化しようとした。私の考えすぎかもしれませんが、でも、それほど人の罪は重いとも言えるのではないでしょうか。

 私たちは、自分にとって最上だと思う物を、何よりも神様に献げてとは願いますけれど、でも、本音のところでは、やっぱりもったいないと思ってしまう。そして、やっぱり大切なのは自分であり、自分の家族であり、自分の人生なのです。だから先ほどの小説のように、「この病気は治りますか。この足は立てるようになりますか。目の病気は扱っていますか」と主イエスのもとへ集まってくる人々の思いのほうが良く分かるなと思うのは私だけではないだろうと思うのです。

 でも、そんな私たちの為に、主イエスが決断したことは、「わたしたちのために、命を捨てることであった」と聖書は語るのです。
捨てるとは、もう要らないからということでしょう。でもなぜ、命を捨てるのか、一つには、捨てるとは顧みを求めないという決意からではないでしょうか。主イエスは、「私はあなたがたの為に、私の命を献げる」だから、必ずや顧みなさいと語り掛けたのではありません。あなたがたに恩を売るのでもないし、私が、ただ徹底的にあなたがたを愛して、愛して、愛する意味において、こうするのだと「捨てる」という言葉を用いたのではないでしょうか。

 そして、もう一つ、4年前に天に召されましたが、榊原康夫という牧師がおられて、大変厳密に聖書を読まれる先生として私も尊敬している方ですが、その書作の中に、「捨てる」と言う言葉は、「立てる」という言葉としても用いられているとの説明がありました。榊原先生は、口語訳聖書で説明しておりますが、例えば、使徒言行録の20章にパウロがエフェソの教会の長老を呼んで、いわば最後の惜別の言葉を告げた場面があります。その中にこういう言葉があります。「どうか、あなたがた自身に気を付つけ、また、すべての群れに気をくばっていただきたい。聖霊は、神が御子の血で贖い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたをその群れの監督者にお立てになったのである。」パウロがそう語った後に、エフェソの教会の長老とパウロは共に涙を流して抱き合って別れを惜しんだ場面ですが、この「監督者にお立てになった」立てるという言葉は、「捨てる」と言う言葉と繋がっているのだと説明します。

 つまり、主イエスが御自分の命を捨てる決意を持った時、弟子たちに自分の命を捨ててと告げた時、実際にそうされた時、十字架に付けられた時、主イエスの願いは、自分を捨てるのは相手を立てるためであったというのです。

 本当に、その通りだと思います。主は御自分の命を懸けて愛されて、私たちを立てようとされたのだと思います。この世の様々な誘惑に打ち勝ち、主に立てられたものとして、すなわち愛をもって生きるようにと教えて下さっただと思うのです。主イエスは徹底的に私たちを愛して下さいました。なぜなら「神は愛だから」です。
 
 でもね、先ほど、パウロは赦しを、ヨハネは愛をと申しましたが、愛は人を立てることですけれど、赦すのと違うのか、なんでもイイヨと言えば、それが愛なのか、私たちはそこで迷ったりするわけです。
ヨハネは、本当に主イエスに愛されていた、愛されていると信じていたと思いますが、聖書を読みますと、結構、叱られたりもするのです。ある時、ヨハネがイエス様に言いました。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者をみましたが、わたしたちにと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました。」と言ったのです。すなわち、あいつらは自分達の話を聞かないから、気に入らないということでしょ。でも主イエスは、「やめさせてはならない」と言われました。そのすぐ後に、イエス様一行があのイスラエルの民の中で、差別されていたサマリアの地域を通ったわけです。サマリアの人々は歓迎しなかったとあります。でも、イエス様はそういうことは気にしなかったのでしょう、でも、ヨハネは頭に来てね「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」と聞いたというのです。

 主イエスは、とんでもないとヨハネと兄弟のヤコブを戒めたとありますが、人を立てるとは、なんでもいいよ、いいよ、だけでもないようです。じゃあ、叱ってもいいのかというとそうでもなくて、何が大事か、愛するとは、褒めるにしても、叱るにしても、その言葉に「愛」があるかどうかではないですか、あの人気に入らないと思いながら、でも私はクリスチャンだからと、ひきつった笑顔で、挨拶しても、それは通じません。そうではなくて、何を言うにしても、相手を立てる言葉を用いるということではないですか。誠実に愛するとはそういうことではないでしょうか。

 信仰と希望と愛はいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。なぜか、愛こそが神そのものだからです。
この主イエスは愛そのものなのかもしれません。そしてその方の愛によって、私たちの信仰の先達もその生涯を神によって立てて頂いて、そして素敵に行き抜いて、一人ひとりが良い証をされて地上の生涯を生きられました。私たちもその思いを継いで今日はこうして特別な礼拝を守っております。
私たち自身も、私たちの家庭も、私たちの教会も、私たちの社会も、私たちのこの地球も、この宇宙も、全てのものが愛から生まれ、愛によって成長し、愛によって「互いが仕え合える」ようにと、されているのでありましょう。そっして、そこにおいて、私たちが願ってやまない誠の平和を見出すことが出来るのだと信じて生きていきましょう。      

                                                          お祈りいたしましょう。

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