日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

祝福と平和を与えらえる神

2019-12-16 10:45:08 | http://www.ohtsukaheian.jp/
【詩編29編1~11節】
【ヨハネによる福音書12章20~24節】

 先週の月曜日、私達の教会は教会創立70周年記念コンサートを行いました。ドイツよりクリスト加藤尚子さんと、アナ・ガンさんがお出で下さり、ピアノとソプラノの歌声による素敵なコンサートを行って下さいました。この礼拝堂が一杯の状態で、110名以上の方、初めての方もおられ、久しぶりの方もおられ、懐かしくお会いした方もおられました。良い交わりの時も持てたと思います。本当に素敵でした。

 コンサートが終わりまして、私はその日、もう一つ、地区の教師会が相武台教会で行われるということで、こちらの方も、責任があるものですから、大分遅れましたけれど顔を出しました。その日は、厚木上教会にこの4月から赴任して下さった金沢正善先生が役割を担ってお話をして下さいました。金澤先生は50代で献身を決意して学校を卒業したのが55歳、それから15年と話しておられましたので、今70歳頃だと思います。いや~70歳で、また新しい教会を牧会されようとしているのか、私は70までには出来れば隠退したいなどと思っていますけれど、金澤先生、さすがにお若く、声も張りがあってとてもお元気に張り切っておられました。

 私は遅れて到着しましたので、先生の全部の話しを伺うことは出来ませんでしたが、もともとは理系の勉強をされていた方のようで、専門は物理化学という分野なのでしょうか、ヘリウムとか窒素とか水素あるいは酸素と、色々な気体を扱う話しを沢山されておられた。そんな話の中で、宇宙の話しとか、海の深い底、深海の話しとか多岐に及ぶ話しをして下さって大変面白く伺いました。その中から創世記1章の天地創造の話しをして下さいました。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」創世記1章2節に記されています。
 
 金澤先生がおっしゃるには、混沌というのは、先生が学んでいた学問の中では安定した状態と言えるんですよと話して下さった。混沌というのは色々な物質が交じり合った状態で、この混じりあっているというのが安定しているのだそうです。

 その安定している状態に対して、神が「光あれ」と話された。すると光があった。水の中に大空があれ、と言われた。すると空と水に分かれた。そのようにしてどんどん分かれていく度、安定していたものが不安定になるのだというのです。
 純度が増すとか、「純粋なもの」という言葉もありますが、純粋というのは案外科学的には不安定なものという考え方なのかもしれません。

 そんな話を聞きますと、動物にしても、植物にしても純粋であればあるほど、案外弱かったり、人にしても、あまりにも純粋な人であるとか、あまりにも潔癖症とか、ストイックな人というのは、案外この世を生きていくのが大変だったりするところと繋がっているのかもしれない、そんなことを思わされております。

 話は変わりますが、バアルの神と呼ばれる神が旧約聖書に度々登場します。列王記上18章には預言者エリヤ一人とバアルの神の預言者450人が旱魃の非常事態に対して雨乞いの対決をするという場面が記されています。バアルの預言者450人がどんなに叫んでも、祈っても雨が降らなかったのに、エリヤが主の祭壇を造り、献げ物を献げて祈りましたら、その祭壇に主の火が降って、焼き尽くす献げ物をと薪も石も、焼き尽くしたとあります。

 主の火は恐らく雷を意味しているのでしょう。雷は、私達の国では嵐や災害とも結びつき、古来より恐ろしいものという認識がありますが、バアルの神を信じていた地域では、恐ろしいことは恐ろしい、でも一方では雷の音と雨は、乾いた季節、乾季の終わりを意味するようです。これからは恵の雨の季節となるという合図、印のように思われていたようです。これから農業が本格的に出来るという喜びです。と同時に、もう一方では雷の音、これは神の声としても崇められていたようでもあります。
 
 また、バアルの神は、一人の神というよりは、バアルの神がいて、その下に沢山の神々がいた。金澤先生流にいうとすれば、神様も沢山いたほうが安定するのかもしれません。(笑)
 
 今日読んで戴きました詩編29編を読みますと、最初に「神の子らよ、主に帰せよ」とあります。この神の子らとは、もともとカナンの土地に根付いていたバアルの神の下にいた神を、「神の子ら」と言ったのではないかとも考えられている様です。
 29編を全体的に読みましても、受ける印象は、自然と神の関係性を告げているようにも思います。特に3節以降には、立て続けに、「主の御声」という言葉が登場します。
 
 この「主の御声」を雷の音と考えるとすれば、分かり易く感じます。「主の御声は水の上に響く」「主の御声は力をもって響く」「主の御声は杉の木を砕く」「主の御声は炎を裂いて走らせる」と言った言葉の数々は、雷の音を連想させるものだと思います。
 
 但し、勿論、この詩編はバアルの神について賛美しているものではなく、まさに天地創造を果たし、イスラエルの民を導きエジプトの地からカナンの地までを導いた「アブラハム、イサク、ヤコブの神」とも呼ばれる「主なる神」を賛美している詩編ですから、「神の子ら」とは、神の下にいる神というよりは、神の天使とも言えなくはないと思いますけれど、むしろイスラエルの民を指し示す言葉であり、それは、すなわち私達をも指し示しているのではないでしょうか。
 
 イスラエルの民が、そして、私たちの一人一人が主なる神を賛美する。混沌さえも作られ、そこからこの私達の世界を作られ、不安定というよりは秩序を与え、この世を造られ、私達人間は、神に似る者として作られました。

 更に、旧約聖書の神は、イスラエルの人々、地上の人々に対して、様々な方法でもって語りかけています。それは、時にはアブラハムに対して、あるいはモーセに対して、直接的に、主なる神が語り掛けた場面も多くみられますけれど、出エジプトを果たし、荒野を旅した民に対しては「昼は雲の柱、夜は火の柱」でもって民の先頭を離れることはありませんでした。なによりも神は、神の御言葉を告げるエリヤ、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、また多くの預言者の声を通して主なる神を示して下さいました。
 
 時には、直接的に、時には自然現象を用いて、時には預言者を用いながら、まさに「神の御声」を伝え続けられました。それは、人に聞こえる言葉、見える現象、感じる取ることが出来る霊的な御言葉を用いて語り掛け、神の救いへの道、私達にとっては時間的、歴史的な流れを作られ、その流れの中で、主なる神の臨在を示し続けて下さったとも言えるでありましょう。
 
 そしてその神は、新約聖書に至る時、自然現象や預言者ではなく、私達によりはっきりとわかるように、主イエス・キリストという方を誕生させて下さり、この方を通して、神の愛を知るようにと取り計らって下さいました。

 今日は、ヨハネによる福音書を読んで戴きましたが、その1章1節からの御言葉にはこうあります。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、始めに神と共にあった。万物は言によってなった。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」

 主イエス・キリストは神と共に天地創造の最初からおられ、神の言として語りかけ、神の御声としてこの世界を創造され、全ての命の根源となられ、人々を照らす光となられました。
 
 詩編29編の最後の11節には「どうか主が民に力をお与えになるように。主が民を祝福して平和をお与えになるように。」と記されています。
 
 どうぞ神様、私達にあなたの力を、あなたの平和を与えて下さいと祈りながら詩編は締めくくられる。その願いは、主イエス・キリストによって成就し、私たちは神の力が与えられ、神の平和が与えられたのです。
 
 では、どのようにして与えられたのか。一言でいうとすれば、神様が本気になられたということではないでしょうか。

 最初に金澤先生が話をされた、混沌とは安定した状態という説明をなるほどと伺っていましたが、それでは天地創造は、不安的なのかとすぐに思いました。皆さんもそう思われたかもしれません。
 科学的な安定とか、不安定について私には良く分かりませんけれど、混沌という安定した状態、少なくともそのような安定からは何も生み出されるものが無かったと言えるのではないでしょうか。主なる神は何の無い状態を良しとはされませんでした。

 だから、光あれと言われ、光があった時にそれは「良かった」と言われたのです。空と水が別れ、自ら陸が出来、太陽と月と星が作られ、鳥、魚、動物が作られていった、その一つ一つが作られて行く度に、それは「良かった」と神は言われて、私達人間が土の塵から作られた時、主なる神は「極めて良かった」と言われたのです。なぜなら、それが神の思いだからです。神が本気になって、この世界を作られた、神が本気になって私達人間を創造して下さった。そして人を御覧になって「極めて良かった」と言われているのです。

 更に、旧約聖書を通して、主なる神は御言葉によって、見える姿でもって、自然現象によって、雲の柱、火の柱でもって、預言者を通して、その時その時に神の本気を示して下さり、イスラエルの民を御自分の指し示す祝福へと導かれようとされました。けれどそれはついに適うことがありませんでした。「極めて良かった」状態が維持されることはありませんでした。

 だから、主は更に本気となられて、私達の世界に天地創造の最初からおられた御子イエス・キリストを誕生させて下さった、これが神の本気ですよ。主イエスは、地上のご自分の生涯を神の愛を示し続けて生きられました。病の人、弱っている人、涙している人の所へ行っては、慰め、祈り、御言葉を語るだけでなく奇蹟の業でもって、一人一人の人生を取り戻して下さり、新しい命へと導いて下さいました。

 けれど、主イエスの本気は私たちが思いもよらない形で成就されました。それは、先ほど読んでいただいたヨハネによる福音書にこう記されます。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」人の子が栄光を受ける、それは主イエスの十字架刑を意味しています。主はこの時、主の本気を弟子たちに告げられたのです。

 神の御子が本気になり、私達を神の方向へ向けさせるために、主は十字架刑を受け入れ、しかしそこで終わらずに、三日の後に復活され、弟子たちにその姿を現されただけでなく、聖霊の力をも用いられて、弟子たちはどんなにか神の力が与えらえたか、それは私たちの良く知るところであります。
 
 神の本気を受けた人々は、自分の命を顧みることなく、主イエスの福音を本気で宣べ伝え始めたのです。その思いが、今も確かにこの教会に宿っていると私は思います。
 
 大塚平安教会は今年で創立70年、先週月曜日はその記念のコンサートを行いました。思えば既に一年半も前から準備してきたコンサートです。演奏され、歌われたお二人は、日本中6箇所でコンサートをしてこられ、私達の教会がラスト、フィナーレのコンサートでしたが、きっとどこの場所のコンサートで行ったよりも、この教会のコンサートを喜んで下さったと私は思います。なぜなら私たちはどこよりも本気で、準備したからです。本気の気持ちは人に力を与え、祝福と平和がそこに生まれます。

 コンサートの前日の礼拝は、召天者記念礼拝でありました。この70年の間、大塚平安教会を本気で支えて来て下さった信仰の先達を覚えての礼拝でありました。70年と一言でいうとしても、その歴史にどれほどの喜び、祝福が与えられてきたかと思うと同時に、苦悩、混乱、悩みもまた同じように与えられてきたに違いありません。

 けれど、そのような状況にあって、いや、どのような状況にあっても、主イエス・キリストの祝福と平和が与えられ続けられたからこそ教会は神の教会として、歩み続けてこられたに違いありません。私達もまた、そのような歩みを歩んで参りましたし、これからも歩んで行きたい、一緒に歩んで行きましょう。ここに、神の祝福と平和がある、そう告げ知らせながら、この一週間も共々に過ごして参りましょう。

 お祈りします。

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