日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

三日で建て直す主

2022-06-14 15:09:02 | 礼拝説教
【詩編69編8~13節】
【ヨハネによる福音書2章13~25節】

 本日は兼ねてから報告していましたように、礼拝の特別賛美奏楽者として、池田宏里兄をお招きし、礼拝において特別賛美の曲を弾いていただきました。

 これまで2年以上に亘り、コロナ禍、パンデミックの状況が続き、礼拝も停滞というよりは、後退してきたとさえ感じます。その挽回の為だけでもないですが、このような賛美礼拝の時を迎えることが出来ましたのは真に幸いです。
コロナ禍により、私たちの教会だけに限るわけでもありませんが、多くの教会が、礼拝を献げることさえままならない、厳しい状況に置かれてきました。そのような中で必然的に多くの教会が、新しい伝道、新しい礼拝のあり方を模索し、礼拝をどう捉えるかを考えて来たと思います。私たちの教会も、時にはオンラインのユーチューブでの礼拝を執り行いました。このような状況をピンチというより、チャンスととらえて、オンラインでの礼拝のあり方を研究し、継続し続けている教会が幾つもあります。

 今年度、私たちの教会はどのような伝道を展開していくのか、4月末に教会総会が開催されましたが、限られた時間でしたから多くを話すことは出来ませんでした。
 けれど、教会基本方針の一つに記されていますのは、教会の働きとしても、地域の方々に教会を知っていただく機会としても、礼拝堂を豊かに用いていきたいという願いでした。特にこの2年以上に亘り、人が集まることが制限され、コンサートや講演会が事実上、開催出来ない状況となっていましたから、今年度は機会が得られるなら、沢山行っていきたいと記しました。この願いは、これまでのところ主の御心によって、適えられそうになっています。心から嬉しく思います。
 
 総会資料には、他にも願いを記していますが、礼拝、祈祷会を通して出来るだけ丁寧に聖書を読んでいきたいという思いを記しました。それは牧師だけに限るのでなく、教会に集われる皆さんと共にそのような時間を共有したいと願っています。聖書を読む、それは私たちの信仰の養いと深く関係します。聖書は神様ではありません。けれど、聖書に記されている言葉の一つ一つから神を知り、神を感じ、聖霊の力によって主なる神は私たちに何を伝えようとしているのか、神の思いを理解しようとする働きは私たちに求められていることです。それは何も今年度に限る訳でもありませんが、今日与えられた聖書箇所の説教の準備をする中で、聖書を理解しようとする思いが、改めて、やはり重要であると思わされています。
 今日は、ヨハネによる福音書2章から「神殿から商人を追い出す」という箇所を読んでいただきました。「ユダヤ人の過越し祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。」とあります。過越しの祭りはユダヤ教の三つの大きな祭の一つです。 

 この祭りの原点は、旧約聖書の出エジプト記という箇所に記されています。諸説ありますが紀元前15世紀頃の出来事です。エジプトで奴隷とされていたイスラエルの民が、モーセを指導者としてエジプトから脱出することになった大いなる神の業が記されています。その時、壮年男子だけでも60万人であったと記されています。総数は100万人を優に超えていたでしょう。そして自分達の故郷の土地に帰っていく、その出来事を忘れずに、祝っていこうとうとするユダヤ人にとって特別で、大切な祭りでありました。
 多くの人々が祭りを祝う為にエルサレムに向かい、エルサレムの神殿を目指しました。いわば巡礼の旅でありました。この時、主イエスと弟子たちはカファルナウムというガリラヤ湖沿いの町に滞在していましたので、カファルナウムからエルサレムに向かわれたわけです。

 その距離は直線距離でも180キロ、しかも湖沿いのカファルナウムからエルサレムはずっと登りが続いているそうです。車もなく、電車もなく、歩いて180キロの道のりですから一日30キロ歩いたとしても一週間はかかったでしょう。中々の距離と時間ではないでしょうか。簡単に祭りだから行ってみようかという距離ではありません。

 そのようにして主イエスと弟子たちはエルサレムに到着しました。更に神殿に行きました。そこで主は「神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たち、座って両替をしている者たちを御覧に」なりました。すると、主は「縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われました。「このような物はここから運びだせ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
その様子を見た人々は、どれほど驚いたことでしょうか。なぜこのような事をするのか、弟子達も驚いたと思います。読む私たちもこの場面は、読むたびに驚く思いがする箇所です。主イエスは優しい、穏やかな人である、そうであって欲しいとどこかで願っていますが、そうでない一面が記されている箇所です。

 境内でなぜ、牛や羊や鳩が売られていたかというと、犠牲の献げ物、生け贄として献げる動物を売っていたわけです。特に祭りの時ですから、多くの人々がエルサレムを目指しました。その多くの人々がどうやって集まってきたかと言えば、先ほども申し上げたように、巡礼の旅のようにして何日もかけて集まって来たわけです。

 カファルナウムも大分遠くですが、ユダヤ以外の国や地域からも、ユダヤの家柄、その血筋の人々は集まって来たでしょう。長旅ですから当然牛や羊を連れての旅は大変ですし、しかも献げる動物は、体に傷の無い牛や羊でなければなりません。
 旅は時間もかかりますが、食費、宿泊費といった費用も嵩んだことでしょう。祭りの旅に毎年来られる人もいたかもしれませんけれど、海外から生涯に一度だけでもと思い切って来る人も多くいたでしょうし、貧しい遠くの村から、町から数人で集まって、皆で費用を工面しながらやって来た人たちもいたと思われます。
 長野県に善光寺という大きなお寺がありますが、江戸時代の頃には「生涯に一度は善光寺参り」と言われて、大勢の人々が集まって来たと言われます。日本で言えば、そんな感じだったと思います。

 更に境内には両替商もいました。私たちも海外に行く時には、旅行前に空港や銀行で手数料を払って行く国の通貨に両替をして準備しました。今はカードがありますから、あまり心配は無くなりました。イエス様の時代、恐らく最も使われていたのはローマの貨幣です。けれど、ローマの貨幣には王の顔が刻印されています。そんな貨幣をエルサレムの神殿は受け取りません。あるいはローマ以外の様々な国から人々がやって来ますから、その地域で使用されていた貨幣があったでしょう。とにかくどんな貨幣もユダヤのシェケル貨幣に両替しなければなりませんでした。
費用をかけて、長旅をして神殿についてみると、通常の何倍もの手数料を払ってシェケル貨幣に両替して、更に通常よりはずっと高い犠牲の動物を購入しなければ礼拝を献げることが出来ない。そしてそういった商売を赦していたのは、エルサレム神殿の偉い人といいますか、サドカイ派と言われた宗教指導者や、サンヘドリンと呼ばれる議員たちがいる。そのような仕組みが出来上がっていたと言われます。

 ビジネスが悪いわけでもない、商売を否定しているわけでもありません。でも、主イエスは縄で鞭を作って動物を追い出し、両替人の金をまき散らし、台を倒して言われたのです。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」この御言葉は、父なる神、主なる神に対する真の礼拝を求める、本当の礼拝を求める主イエスの渇望です。
この様子を見ていたユダヤの人々は驚きました。驚くだけでなく「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と詰め寄りました。主は答えて「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」この答はそこで聞く人々にとって、よく分からない、意味をなさない答えであったでしょう。
 弟子たちは、イエスが言われた神殿とは、御自分の体のことだったのかと、後に死者の中から復活された主イエスと出会った時に、この場面を思い出して、その意味を知り、主の言葉を信じたと今日の最後の御言葉が記しています。

「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」その時、聞いていた人々には分からなくとも、この御言葉は主イエスの決意を示した御言葉だと思います。
先週も申し上げましたが、読まれている聖書箇所は、主イエスが公の生涯を歩みだして、まだそれほど日が経っているわけではりません。弟子たちを招き、カナでの婚礼に出席し、水をぶどう酒に変えた場面までで、凡そ一週間、この今日の場面までには更にそれから数週間経っていたと思われますけれど、しかし、この場面でこそ主イエスご自身が、決意されたこと、それは律法、神殿、生け贄、祭司という礼拝システムからの解放です。これまで当たり前のようにして守られてきた習慣、慣わしとしての礼拝からの改革です。
 
 この聖書の場面は、主イエスの宗教改革であるとか、信仰復興運動、リバイバルを求めた姿だとも言われます。
古い自分に死んで、主にある、新しい信仰に生きるようにと求める主イエスの愛というより、怒りの姿として聖書に記されているのだと思います。神の怒りに対する宥めのしるしとして主イエスは自らが十字架となり、私たちの罪を完全に赦し、価値ある一人一人としてくださいました。

 私たちが、安心だ、平安だと思うことの一つは、いつもの日常です。いつもの日常を繰り返している、それがどれほど安心か、そして、いつもの礼拝がどれほど平安であるかと思います。だから私たちは主イエスが示された、激しい神に対する渇望の姿に戸惑い、驚くのかもしれません。
でも、いつもの日常は、安心であるとしても、いつの間にか停滞し、そして気が付いたら後退していきますよ。だから、主イエスは、あなた方は信仰を得て、古い自分に死んで新しいあなたを生きるようにと求めておられます。主にある新しい価値観を、今日から、今から生きるようにと伝えておられます。私たちは過去のあの事、この事に縛られるのでなく、これまでの前例に倣って生きていくのでもなく、主なる神に守られて、新しい自分を、前を向いて、元気に生きていきましょう。

 お祈りします。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿