日本キリスト教団 大塚平安教会 

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神と出会う喜び

2018-12-24 16:01:42 | 礼拝説教
【イザヤ書43章1~7節】
【ルカによる福音書1章57~80節】
 
 来る次週、御子イエス・キリストの誕生を祝うクリスマス礼拝を目前としたこの週に読まれましたのは御子イエスの誕生に先だち誕生した、後の洗礼者ヨハネと呼ばれる幼子の誕生の場面であります。
 
 父親はアビヤ組の祭司ザカリア、母親はアロン家の血筋を受け継ぐ女性エリサベトでありました。今日のこの説教を準備するにあたり、幾つかの注解書にあたり、また該当する説教などを読んでみるなかで、幾度も説明されていたことの一つに、このヨハネの誕生を経験して、「ザカリアは祭司から預言者になった」といった類の言葉がありました。特に後半のザカリアの賛歌の内容から特にそう言われるようになったのだと思われますし、このような説明を元々はルターが用いたといった文章もありました。
 
 古来、救い主、メシアという言葉は、「油注がれた者」という意味であったと言われます。特別に油が注がれ、その役職に就く仕事の一つは王であり、二つ目は祭司であり、三つ目に預言者でありました。サウル王、ダビデ王も祭司サムエルによって油注がれる場面がありますし、祭司としては誰よりも先に、祭司アロンが油注がれる場面がレビ記の中に記されます。預言者については詩編105編15節に「わたしが油注いだ人々に触れるな わたしの預言者たちに災いをもたらすな」という御言葉が記されています。
 
 預言者は、主なる神の御言葉を聞き、イスラエルの民に伝える役割を致しました。
 預言者は自分の思うところの言葉ではなく、聞く人々の耳に心地よいと思われる御言葉でもなく、ただ神の御言葉を人々に伝える、ですから時には人々から嫌われ、嫌がられることが何度もありました。
 
 今週の箇所で言えば、誕生したばかりの幼子ヨハネこそ、後に洗礼者ヨハネとなり、預言者の一人として神の御言葉を宣べ伝え、人々を悔い改めの洗礼へと導いただけでもなく、何にも勝ってヨハネは主イエスに洗礼を授けた人として聖書に記されています。
 主イエスは後に「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。」と告げていますし「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。」とも続けて話しておられるところから、ヨハネは聖書の中で最後のしかも、最大の預言者であると言われます。そのようなヨハネが、祭司ザカリアとその妻エリサベトから誕生しました。
 
 祭司の働きは、何よりも礼拝を司る者と言えるでしょう。神に仕え、神殿で働き、古来より、守られて来た律法の元での儀式、しきたり、習慣を重んじながら、人々に神を宣べ伝え、受け継いだ信仰を守る役割を担っていました。先週の一週間はいよいよクリスマスの本番が近づいて来たと思わされる行事が続き、また、今週も、今日の午後には、子どもの教会のクリスマスへと続きますが、二日前に行われた婦人会の合同クリスマスの礼拝、祝会を一緒に過ごしまして、少しほっとした時、ご婦人方との会話しながら、特に金曜日には、幼稚園の子どもたちのお母さん方が沢山来て下さったこともあり、そんな方々にやっぱり伝道していきたいですねと話をしておりましたら、ふと先月の末に召されたTさんと、乙幡和雄先生の話となりまして。あの二人は良くやり合っていたというのです。

 Tさんは伝道を一生懸命に考えて、幼稚園まで作ろうと頑張っていた。Tさんはいつか牧師になりたいという夢を持っていたけれど、その夢を諦めて頑張っていたから、中々「うん」と言ってくれない乙幡先生と良くやりあっていたと愉快そうに言うのです。
 その話を聞いて、何か祭司と預言者のようなだと思いました。教会の中にあって、礼拝を守り、習慣、しきたりを重んじる人、伝道一本で頑張ってと働かれる人、教会は色々なタイプの人がいて、そしてそれぞれが神の民として歩んでいるわけですから、それで良いのであって、互いに思うところを言っても、そこで少しも信仰が崩れることもなく、逆に強く繋がっていたお二人だったと思います。

 ザカリアは祭司でありました。事の発端は、ザカリアが神殿で、祭司としては名誉ある香を焚くという役割を担うことになった。香を焚いている時、もっとも緊張が強いられる時に、天の使いのガブリエルが現れて、「ザカリアよ、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい」と告げられたわけでありました。

 しかし、ザカリアは驚きと共にこう告げました。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年を取っています。」この受け答えは、年を取りすぎている私たちにはとてもそれは無理な話です、と答えたのだとも言えますし、「何によって」という言葉を大切に読むとすれば、ガブリエルは「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。」つまり、口が利けなくなるというしるしによって、あなたはそのことが分かり、受け止めるであろうと天の使いが言ったともいえます。

 今日読まれた箇所では、親類の者がザカリアに「この子になんと名を付けたいか」と手振りで尋ねた。とありますから、身振り、手振りをしながら、ということは、口が利けないということは、耳も聞こえなかったのではないか、このことを先週の子どもの教会で、話をして下さった方が説明して下さって、私は改めて、なるほどそうかもしれないとすっかり納得したのですけれど、恐らくザカリアは口も利けず、耳も聞こえない状態で、つまり、徹底的な沈黙の時間を生きたのではないかと思います。

 しかし、そんなことを思いますと、この10か月の間、ザカリアとエリサベトはどんな思いで過ごしていたのか、二人とも、エリサベトのお腹に赤ちゃんが宿っていることに信じられないという思いと、しかしこの出来事によって神を賛美する思いと、その喜びを共有したいと思っているにも関わらず、聞こえない、話せないわけですから、二人の会話が上手く成り立たない苛立ちとを、なにかこれだけでも色々な思いで想像できるように思います。先週の話の続きで言えば、エリサベトが六ヶ月になった時に、マリアがこの家を訪ねてくることになりますが、ザカリアとの会話が難しかったエリサベトにとって、またどんなにマリアの訪問を喜んだかとも思うのです。

 更には、子どもを授かることができないと諦めていた二人が子を授かったわけですから、親類の者たちも同じように、どんなにか喜んだかと思います。ですから「月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った」と記されています。そこには嘘が無いと思う。人々には不思議と思われる出来事が幾つかあったにしても、周囲の皆は、ザカリアとエリサベトを祝福したことでありましょう。

 けれど、そのような喜びの中に一つの問題が与えられます。当時の習慣では赤ちゃんが生まれると八日目にその子に割礼を施し、また名前を付けることになっていました。しかも恐らく、この生まれた子は、既に生まれたときからザカリアという名で、近所や親類の間で呼ばれていたかもしれません。ザカリアには子どもいませんでしたし、授かった最初の男の子であり、跡継ぎです。その役割の一つとして名前を受け継ぐことも大切な役目でした。
 ですから、既に周囲の御名は、名前はザカリアしかありません。既に決まっているようなものです。

 ザカリアは代々受け継がれてきた祭司の家柄であり、生まれてきた子どもも後に祭司として働くことになる、実に当たり前のことであって、これまでの習慣、慣例からしても、ザカリアという名前しかなく、それが皆の喜びでもあるのだと、誰もが思っていたことでしょう。

 けれど、そのように言う親類の者たちに対して、エリサベトは「いいえ、名前はヨハネとしなければなりません」と告げた訳でした。この言葉は、少なくとも父親のザカリアはエリサベトだけには、あの神殿での出来事を伝えていたことがわかります。耳が聞こえず、口が利かないとしても、なんとしてもあの天の使いが語ったことを、そして生まれてくる子供の名前はヨハネであるということを、エリサベトに伝えていたのだと思います。だからエリサベトは頑張ったと思います。
驚いたのは親類の方で、なぜなのか、何の脈絡もなく、ヨハネという名前とは、「あなたが親類にはそういう名前がついた者は一人もいない」と言って、ザカリアに手振り、身振りで「この子になんと名を付けたいか」と尋ねました。
ザカリアは、字を書く板を出させて「この子の名前はヨハネ」と記しました。

 その文字を見て人々は驚きましたが、もっと驚いたのはその瞬間に10か月の間、聞くことも、話すことも出来ないでいたザカリアの口がほどけて、そして、何よりも先に神を賛美し始めたことでありました。人々が恐れを感じるほどの賛美です。喜びです。ザカリアの大きな喜びがここに迸ったと言ってもいいでしょう。

 ザカリアは祭司でした。祭司として生きて来ました。言うなれば誰よりも神に近いところで働いている人として、自他共に認めていたのではないでしょうか。けれど、そのようなザカリアが神の使いの言葉を信じることが出来なかったのです。あなたの所に子どもが生まれると言われたとき、何を言われるのか、私の経験においては、既に私たちには子供が出来るような年齢ではないことは分かっている。人には無理なことが分かっている。そうして、自分には自分の祭司としての経験からしても、神の力のあり方も分かっている、とどこかで思っていたのではないでしょうか。

 しかし、それにも関わらず、自分は口が利けなくなり、一言も話せなくなる中において、神の使いの言葉の一つ一つがが実現していくさまを見て来ました。エリサベトのお腹が少しずつ大きくなってくるその様子を見ながら、確かに妻は子どもを宿していると確信したでしょう。エリサベトが六ヶ月の時に、不思議なことにあの親類のマリアがやって来て、神の子を宿したと言う。その時、エリサベトの胎の子が、喜んで踊ったという、神の業と神の力が、いつの間にか自分を思いや常識と習慣や前例を越えて実現していく有様を本当に、心で感じながら、ザカリアは、人々が驚いたような驚きを、自分も感じていたでしょうし、戸惑いや、何をどう考えて良いのかわからないという思いを抱えていたと思います。

 しかし、そのような思いが10か月かけて、驚きや、戸惑いから、大きな喜びへと変えられていくのです。

 まことに神は私はと共におられた。私は神と共に歩んでいると思っていたけれど、そうではなく神が私と共におられたのだと確信し、そして、ザカリアはここでこれまでの祭司として自分の信仰と思っていた心から、全く新しくされて、ここでまさにザカリアの回心が起こり、大きな喜びの中で、誰が何をどう言おうとも、「この子の名はヨハネ」と記さずにはおられなかったと思うのです。この子はヨハネ、それは神が名付けられた名であって、人の思いを越えた名、この子はヨハネ。この世の思いの全てを越えて、この子はヨハネ。

 そして、それは「あなたは、あなたであれ」というメッセージであると私は思います。

 「あなたは、あなたであってはならない」この言葉はどんなに人の心を傷づけることでしょうか。世の中に起こる、いじめやパワハラと呼ばれる類の出来事の殆どがこのメッセージであると言っても良いと私は思います。

 既に見てきましたように、生まれたての赤ちゃんに対してでさえ、この世の考えでは、こうでなければならないと考えるのです。生まれて八日目に割礼を受けなければならない。その日は名前を付ける日として定められた日である。ザカリア家にはザカリア家のしきたりがあり、ザカリア家の考え方がある。言葉で言わないとしても、しかし、既にその心が、その人を支配するのです。

 神とはこういう方である。祭司はこう生きるべきである。牧師はこう生きるべきである。信仰とはこういうものである。教会とはこういうものである。そのように決めつけてしまう思いが人の心を支配する時、私たちは神の御言葉や、神の愛から、遠く離れてしまう危険さえあると思う。それを罪と呼ぶこともできるでしょう。

 体操の先生であったのに、鉄棒から落ちて、動けなくなり、長い苦闘の末、キリストへの信仰へと導かれた星野富弘さんが、こんな詩を作っています。

 「あなたは、私が考えていたような方ではなかった。
  あなたは私が想っていたほうからは来なかった。
  願っていたようにはしてくれなった。
  しかし、あなたは私が望んだ何倍ものことをしてくださった。」

 この詩のタイトルは「当て外れ」です。自分が思っていることと違うのです。

 けれど、「私が望んだ何倍ものことを」して下さる方、それが主なる神、ザカリアは心からそう思えたのではないでしょうか。「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を 主はその民を訪れて解放し、」と心を込めて賛美します。

 主はその民を訪れて、解放して下さる。様々なしがらみから、様々な戸惑いと、悩み、苦しみ、妬み、悔しさから、「あなたはあなたであれ」と解放して下さいます。この方が誕生される喜びを思いつつ、この週も私たちは主に感謝しながら 歩んで参りましょう。 お祈りします。

お祈りします。

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