日本キリスト教団 大塚平安教会 

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忍耐強く走りぬく

2017-11-29 11:52:29 | 礼拝説教
【ヘブライ人への手紙12章1~3節】
【マルコによる福音書13章5~13節】
「忍耐強く走りぬく」

 ヘブライ人への手紙12章という箇所を読んで頂きました。12章1節に「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」とあります。おびただしい証人の群れとは誰なのか、一つ前のヘブライ書の11章を読めば、明らかに旧約聖書に登場する信仰の先達であるとわかります。
 
 11章の最初に記されている言葉は「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とあります。まだ見てはいないけれど既に確信して生きる。そのような信仰をもって生きた一人ひとり、具体的にはアブラハムや、イサク、ヤコブ、そして先ほど出エジプト記を読んで頂きましたがイスラエルの指導者モーセ、それに続く、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、その名前が続きます。また、それだけでもなく、旧約聖書に名前は載っていないけれど、望んでいる事柄を確信して、信仰の故に拷問にかけられ、鎖につながれ、投獄され、時には石で撃ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩いた人々、そのような人々がいたというのです。
 
 しかも、そのような名前も記されているわけではない人々は、この世では、信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れなかったとさえ記されています。

 おびただしい証人とは、改めて申し上げますが、旧約聖書の指導的立場を担った信仰の先達のみならず、その歴史に名前を残すことはないけれど、信仰の戦いを戦い抜いて生きた一人ひとりがその証人なのだということでしょう。
 私たちの教会は11月の第1主日に召天者記念礼拝を執り行いましたが、今年はこれまでのものを変えて、新しく召天者の名簿を作り直したものをお配りしました。これまでの名簿は洗礼を受けて教会員として信仰生活をされた方を中心に記されていましたが、私は教会の墓地に名前が記されている方々も加えるのが良いだろうと思い役員会に諮りまして、そのようにさせて頂きました。ですから人数が増えまして44名から14名増えまして58名となりました。
 
 14名が書き加えられて、これで良かったと思ってはいますけれど、この58名の方々が私達の教会の信仰の先達の全てであるわけではありません。召天者記念礼拝の際に、久しぶりにT兄が礼拝に出席して下さり、お元気な姿を拝見出来て良かったと思っておりますが、Tさんが礼拝の後に一言話したそぶりを見せました。それは、昭和28年の1月に北村健治先生から洗礼を受けられたIさんという方がおられます。Tさんや、F子姉が洗礼を受けられた翌年の事ですからTさんは良く覚えておられると思います。当時教会の財政的、あるいは人的にも厳しい時代に信仰をもって生きた方でありました。けれど、いつの頃かわかりませんし、どのような事情があったのかも定かではありませんが、礼拝に来られなくなっておられた方でした。教会には教会員原簿という文書類が保管されていますから調べましたら別帳会員、いわゆる教会とは長い間、関わりを持っておられない方の名簿の中に納められていました。そして、今、分かっていることは今年の夏ごろに召されていかれたということです。

 Tさんは、お住まいが近いということもあったかもしれません。そのことをTさんはご存じでした。そして、そういう方もおられたのだから祈って頂きたいという思いだったのではないかと思うのです。Iさんだけでもありません。教会の向かいに、教会と幼稚園で駐車場を借りているOさんのお宅があります。ご主人のOさんはお元気ですが奥様のSさんは、天に召されて2年程になります。この方は昭和24年に大塚平安教会で洗礼を受けておられ、一時は教会の役員を担われていたとも伺っています。その当時、信仰生活を守っておられた一人であることは間違いありません。向いということもあって、大変良く丁寧に接しておられた方でしたが、いつ、どのようにして、どんな事情があって礼拝に来られなくなったのかは分かりません。教会の中にはその理由をご存じの方がおられるかもしれませんが、私があえて知らなくともよいことなのかもしれません。

 けれど恐らく、このIさんや、Sさんのような方々、いつの時には礼拝に来られていたけれど、兄弟姉妹として歩んで来たけれども、いつの時かは定かではないけれど、あたかも別の道を歩むようにして生きて行かれた方々が実際は沢山おられて、そして天に召されていかれた方々がおられるのではないかと思うのです。そして、そのような方々の人生に様々な事情があったとは思いますが、教会から離れるのは人の罪だと言うのならば、その事情を本当に教会が理解し、いつまでも隣人として歩むことが出来なかった教会にも罪があるのではないかと私は思います。
 
 こんなことを申し上げるとまるで、誰かを責めるようにならないことを願っていますが。私自身が今ここで申し上げたいのは、この教会の今、現在の牧師として、この教会から何かの折に、離れていかれるような方が一人も出ないような気配りが出来ているのか、そのような働きが十分なのかと、どうしても自問してしまということなのです。本当に何もかも不十分で、まだまだ出来ていないのではないかと常々思わされてなりません。私自身、偉大な指導者になれそうにありませんし、これからも優れた牧師と言われるような生き方で生きていけそうもない、そのことは私自身が一番わきまえているつもりです。でも、それが悪いと思って言っているわけでもないのです。 

 私が願うのは、だからこそ、皆さんと一緒に生きていきたい、互いに励まし合いながら、互いに人の足りない所を補いあいながら、助け合いながら、誰一人も欠けることなく、皆の教会として、神の民の大塚平安教会として一緒に歩んで参りたいと心から願うのです。

 そしてもっと言うならば、そのような礼拝から遠ざかっていた方々の一人も、主なる神が見放したわけではないということです。人間的にはあたかも縁のようなものが切れているように感じるけれど、主なる神は誰かを見放したとか、この人は排除に値するとか、そのような思いを持ってみておられるわけではないということではないですか。そのことを思いますと、やっぱり私たちはどんな一人も心を込めて祈っていくことが求められているのだと私は思います。

 教会の信仰を守り導くのは、決して偉大だと呼ばれる指導者だけではありません。時には殆ど名前も知られないような、礼拝の隅におられて、多くを語らない、そんな方々も含めて、全て一人ひとりの方の信仰によって神と繋がる教会の信仰が形成されていくのだと私は思いますし、その方がずっと良い教会へと導かれて行くのではないかとさえ思います。

 今日読んでおりますヘブライ人への手紙は、もともとヘブライ人とはイスラエル人のことですからタイトルからして、どこの教会に宛てたものであるのかはよく分かりません。けれど、恐らくですが、言われていることはローマにあった教会の一つに宛てられているものと考えられています。しかも、その教会は、実に苦しい状況に追い込まれていたと思われます。教会の皆が非常に疲れを覚えている状況です。

 一つにこの手紙が記された時代が、大きな迫害であったと言われる皇帝ネロの時代と深い重なりがあると考えられていること。
 二つにそれゆえに、信仰者が、キリストを信じる者が負わなければならない苦難が非常に大きかったと考えられること。更に三つ目に当時の信仰者が願っていた、主イエス・キリストの再臨が自分達の思っていたよりもずっと遅いと感じていたことなどが考えられています。

 すなわち、この教会の人々は、信仰に疲れを覚え、苦しみにあえぐ思いをしていた。けれど逆に、更に力を振り絞って信仰を生き抜こうと願っていたのだとも思います。その為にこの手紙の著者は、この手紙のほぼ全体を貫いて、一人ひとりの信仰が支えられるように、信仰を見失うことが無いようにと必死の思いで御言葉を選びながら丁寧に記していることが良く分かります。

 そして、12章に入り、こういうわけで、私たちもまた、このようにおびただしい証人、偉大な指導者も、名前も記さることのなかった一人ひとりも含めた信仰の先達の信仰に囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。と記されているのです。

 忍耐強く走り抜く、この言葉について、多くの文章の中に記されることは、50mや、100m走といった短距離走ではなく、マラソンのような長距離走が連想されるということです。すなわち私たちの人生と言っても良いかもしれません。

 ですから走り抜くのはとても無理と思われる方なら歩いても良いのです。歩くのも大変だと言う方がおられるなら、その場で祈って下さればよいのです。そのようにして人生を走り抜く、すなわち与えられた人生を信仰によって前に推し進めるということでしょう。

 そのように信仰をもって、自分の人生を前に推し進めるために必要なこと、それが2節の御言葉として記されています。「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめる」ことです。この言葉はとても大切だと思います。信仰をもって、自分の人生をマラソンのようにたとえながら、ゴールを目指してこの道と信じて走っていた者が、気が付けば、いつのまにかどうも走るコースがずれていたということもあるかもしれません。この人の後をついていけば間違いないと思いながら、闇雲について行ったらとんでもない所がゴールであったということがあるかもしれません。ですから、私たちは誰でもなく主イエス・キリストを見つめ続けることです。
 
 今の時代は、確かにこの手紙が記された時代のような迫害は少なくとも、私たちの回りは無いかもしれません。でも、この世にはあたかもこの世のルールのようなものがあって、例えば、今日は、子ども祝福式で、ファミリー礼拝の後には、小学生を中心とした数名の皆さんの祝福を行いましたが、その子供たちが教会と疎遠になるのは、中学になってからです。一つには中学になると日曜日にも部活が始まります。一つには勉強も難しくなります。一つには友達と交際や付き合いが広くなります。とても教会に行くような時間は無くなる、そのことを親も子供も悪気無く私に話して下さいます。

 子どもの教会を担って下さっている方もそのような現実と出会い、色々と苦労されておられます。実際に、私の中学の娘も滅多に礼拝に顔を出さない、朝には礼拝だよと声をかけても、今日は塾だとか今日は模試だと言われるとそれ以上は強く言えなくなってしまうのです。
 
 でも、皆さん言い訳のように申しますが、世の中はやっぱり、学力というか、知恵も必要ですよ。必要だと思いますよ。知恵、知識がどんなに魅力的に思えることかと思います。それだけでもなく、部活とは一般的にはスポーツです。人生はマラソンだと申し上げましたが、私も正月のなりますと楽しみにして見ていますけれど、箱根駅伝のランナーなどは、本当に人々から英雄のようにしてみられています。もし、そんな子ども達が自分達の教会にいたとして、日曜日は礼拝だから、駅伝の練習に出るなと親は言えるのでしょうか。私はわかりません。

 世の中は、知恵や知識や、体力や、そして経済力、社会的な地位、それらはあたかも、人の人生の成功の象徴のようにして、私たちの生活に迫って来ているのではないでしょうか。

 でも、皆さんではなぜ私たちには「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめることが」大切なのでしょうか。そのような罠にはまらない事だからです。どのような罠か、それはこの世の知恵も、知識も、体力も、財力も、地位も名誉もこの世のものだからです。

 この世のものとは、勝つか負けるかです。時としてこの世の人は言うかもしれません。教会に集まる人は弱い人だ、この世の負け組のような人だと言うかもしれません。でもね、そういう人もまた勝ち続けることは出来ません。人生そのものこそ勝つか負けるかでもなく、私たちに与えられているのは主にある信仰の確信です。見えない事実の確認です。

 私達の生涯、勝つか負けるかで生きたとするならば、人生、働いて、働いて勝ち続けたとして定年となった。やっと終わったと思うだけで、あとは何をすればよいのか分からないということがあるかもしれない。でも、現代は人生100年の時代です。第二の人生を生きようと新しい職場、働きを得て励まれるということもあるでしょう。
  けれど、その途中に病に倒れ、仕事から離れ闘病生活となった時に、もう自分の人生は終わりだと思うのでしょうか。病気は負けですか?その病気があるから何も出来ない、全ては終わりなのですか?あとは死ぬまでただ生きるだけの人生を生きるのだと思われますか。

 それとも、死を迎えるその時まで、自分は信仰の創始者であり、また完成者である主イエスを見つめながら歩んでこられた、そのような満足を得て、私たちは地上の生涯を生きていけるはずです。そのようにして、主イエス・キリストが喜びを捨て、恥をもいとわず、十字架の死を耐え忍ばれた、それは、諦めでそうされたのではないと私たちは知っています。諦めどころか、その時でさえ、死のその先をしっかりと望みつつ、神の勝利を信じ続けて、それゆえに私たちを赦し、そして、死に勝利されて復活されたのです。

 そのような信仰を伝えるのは、私たちの役割です。礼拝の後、子ども祝福式を行いますが、この子ども達が、私たちの人生を見て、知って、自分もあんなふうに生きていきたいと思ってくれるように、私たちはいつまでも、どこまでも主を仰ぎ見ながら、主を見つめながら進んで参りましょう。
お祈りいたします。

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