日本キリスト教団 大塚平安教会 

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祈り

2017-05-24 13:17:34 | 礼拝説教
【マタイによる福音書6章1~15節】


 今日は司式者にマタイによる福音書の6章、主イエスが私たちに「祈り」を教えて下さった箇所を読んで頂きました。どのようにして教えて下さったのか、まず何よりも主の祈りを教えられました。私たちの礼拝でも、祈祷会でも、多くの集会で祈る「主の祈り」、先週の火曜日は幼稚園の年長さんだけで会堂礼拝を行いましたが、会堂礼拝は一年を通じて「主の祈り」の一つ一つの祈りを話していきます。

 毎週の幼稚園の礼拝や、また今日も朝早くから子どもの教会が行われていますが、子どもたちが礼拝に集まり、そしてお話を聞いて、正直申し上げて、幼い子どもたちは、先生方が話す話の内容はまず殆ど覚えていません。大きくなってあの時のあの話がきっかけとなってという話はまず聞いたことありません。中学生位の年代ともなれば違ってくるとも思われますが、でも、何が大事かというと、どの礼拝も、どんな小さな場面でも、先生方が熱心であって、一生懸命であったということは良く覚えているものですし、大きくなり、何かのきっかけとなって思い起こす最初は、讃美歌と、私は主の祈りだと思います。主の祈りを子どもの頃に暗唱しますと、一生の宝となる。だから、どんな時でも私たちは心を込めて「主の祈り」を祈って参りたいものだと思います。

 この主の祈りに先立って、主イエスは祈りの心構えについて教えて下さいました。7節の箇所ですが、「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」とあります。ここで、くどくどと述べてはならないとありますが、英語の聖書で見てみましたら、「無駄な、繰り返しをするな」とあります。

 先日、あるお母さんが相談がと、教会にやって来てこられました。お子さんのことで話を伺いしましたが、話している最中にこう言われたのです。

 私が子どものころは親が何も言わなかったというのです。「勉強しなさい」とか「あ~しなさい」とか「こ~しなさい」と言ってくれなかったというのです。もう少し言ってくれたら私はもっとやったのに、なんで言ってくれなかったのかな。ですから、今子どもに結構言っているというわけですよ。

 この逆の話は良く聞きますね、子どもの頃から、勉強しなさい、片づけなさい、早く起きなさい、肘ついてご飯食べちゃいけないと、あれもこれも何度も何度も言われて育ったから自分はあんな親にはなるまいと決めて、子どもにはあまり言わないようにしていますという話は良く聞くのです。ですからね、言われて育った人は、言うまいと思うし、言われないで育った人は、もっと積極的に言おうと思うようだと、そんな事を感じました。
 この事が何を意味しているのかというと、ある調査で、外国人と日本人の親子関係を調べたのだそうです。そしたら、日本人の2割の家族は親子でよく話をするけれど、8割の家族はあまり話をしない、外国人の8割の家族は親子で話をするけれど、2割は話をしないという結果となったそうです。
外国と言ってもかなりざっくりしていますが、でも、日本人の家庭は全体的には、親子であまり会話をしないということが、体験としてもおわかりになるのかもしれません。

 なぜ、あまり話をしないのか。多くの日本人家庭は、つまり、私たちは親子関係を上下関係のように考えているところがあって、だから親が子に話をするときには、「あ~しなさい」、「こ~しなさい」と話すのはとても得意だけど、同じ目線に立って「お前はどう思うのか」と話したり、会話したり、つまり、親子で会話を楽しむ時間をどれだけ取っているか、考えてみれば良いと思うのです。案外少ないのではないでしょうか。ですから、先ほどのお母さんではないですが、言われても、言われなくても親との会話が楽しかったという思いはあまりなく、くどくどと言われたと思うから言わない、言われなかったのが嫌だったから言う、というふうにね、どちらにしても極端に触れると言いますか、どちらにしても聖書的な同じ目線での会話にならないということではないでしょうか。そこに楽しさや会話による豊かさが無いのです。

 祈る時には、くどくどと述べてはならない、くどくどと祈るのは異邦人のすることだ、私たちは異邦人ですからね、だから特にくどくどと祈ってしまうところがあるかもしれません。勿論、どうしてもこのことだけはという願いや思いがあるでしょう。このことは外したくないという思いもあるでしょう。でも、主イエスは「願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と言われました。まるで、神様、忘れていませんか、このこと忘れていませんか、もしかしたら度忘れですか、念のためにもう一回祈っておきますよ、と言った風ではなく、大丈夫、安心して、神様との楽しい会話のようにして祈ることではないでしょうか。

 そして、二つ目、主イエスは「言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。」と話されました。週報を見ればお分かりのように、先週の祈祷会は二人での祈祷会でした。ですから、祈祷会が存続の危機かもしれません。だから危ないなと思われる方は義理でも出席して頂きたいと思いますが、といえ時間帯も夜ですからね、無理はしないでと思いますけれど、私の経験からしても、祈祷会の敷居は思っているよりずっと高いと思います。集まった方々が一人ひとりお祈りを献げるという形でずっと行っていますから、気軽にお出で下さいと言われて、気軽に行ったら、祈らされて緊張して、大変だったという話も何度か聞いたことがあります。ですから祈らなくても良いですよと、積極的に言うのもおかしいかもしれませんが、でも大切なことは、祈りは「繰り返しでもなければ」、「言葉数でもない」ということです。

 私 が神学生だったころ、ある夏に北海道の教会に、夏季伝道研修に行ったのです。そこで、教会の一週間を過ごしましたが、楽しい経験でしたが、ひとつのことを鮮明に覚えています。祈祷会の時に小さい教会でも、祈祷会は熱心でした。礼拝は20人位だったと思いますが、祈祷会は7人、8人と集まって来るのです。でも、その祈祷会が長いのです。あるご婦人が一人で20分近く祈っておられた。後で牧師が話して下さいました。あの方は、自分の子どもの頃から始まって、教会の歴史を含めて、最初から今に至るまでの歴史を祈りに重ねて祈られるというのです。その教会の皆さんが優しい方ばかりでしたから、きっと見守っておられたと思うのですが、でも、やっぱり「言葉数ではない」ということでしょう。

「言葉数ではない」とはどういうことか、一言でいえば「より少なく祈る」ということです。最近私が毎日のように読んでいる本がありまして「より少なく生きる」というタイトルの本です。著者はジョシュア・ベッカーさんというアメリカの方で、さがみ野のツタヤに行った際にどうしても気になって買ってしまいました。聖書の話なども織り込みながら話が記されていますし、読めば読むほどに気持ちが合うなぁと思いながら、読み進めていきましたらこの方は教会の牧師でした。余計に夢中になって読みました。中身はそんなに難しくないのです。

 人生に本当に必要な物はそんなに多くは無いし、むしろ先進国と呼ばれる国に住んでいるほとんどの人は必要以上の物を持ちすぎて、逆に不自由に生きているというのです。なるほど、そうだなと本当に思いました。ですから手放すことのようです。
 その本には「ものを手放すことで得られるメリット」という項目がありまして、物を手放すと、「時間とエネルギーが増える」「お金が増える」「人のためになることができる」「自由が増える」「ストレスが減る」「環境にやさしい」「質の良いものを持てる」「子どものいい手本になれる」「人に面倒をかけない」「人と比べなくなる」「満足できる」といった具合だそうです。読みながら、本当に納得してしまいました。

 でも更に納得しているのは物を手放す勇気とはその物に込められているプライドを捨てることだと言うのです。例えば本を沢山持っている人は、その本にプライドがあるからだと言うのです。なるほどそうだなと思いました。ですからね、私も、今少しずつ、牧師室の本も本当にいる本とそうでもない本と分けたりし始めました。片付けというのは、整理整頓すると言うよりは、減らすということだともありまして、そのことも本当にそうだなと思うのです。
祈るときも、私たちは時として、言葉数が多いのかもしれません。あのこと、この事ではなくむしろ大切な一つに集中するようにして祈る。

 主イエスがティルスとシドンの地方にいかれた時に、カナンの女性が近づいて、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています。」と願いました。主は「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない。」と突き放すように話されましたけれど、「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」と言ったその言葉に主イエスが感動して、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるようにと言われました。この女性の姿は祈りそのものではないですか。自分が今、本当に必要で大切なことは何か、集中する祈りが私たちに必要なのだと思うのです。

 祈る時には「くどくどと祈らない」そして「言葉数ではない」三つめは、「彼らのまねをしない」ということです。
時々、質問されます。「先生、祈る時はどう祈ればよいのでしょうか。」私が若い頃に教わったのは、祈りの最初に「在天の主なる父よ」と祈り始めて、「この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります」と祈りなさい、と教わりました。ですから、そのようにとお話します。特に祈祷会や、集会などでもこのような手順を踏みますと、まわりの方も共にアーメンと唱和できますからね、非常に分かりやすいわけです。ですから、祈り、に限ることではありませんが、多くの物事、その最初は「まねる」ことから始まるのだと思います。勉強する、仕事をする、楽器を何か演奏してみる、やっぱり手本があり、師匠がいて、その手本や師匠にまねる。祈りもね、ですからいい祈りを祈られるなぁと思う方の祈り、自分もあんなふうに祈りたいなぁと思うと、やっぱり言葉遣いとか、祈り方とか自然と似て来るのだと思います。

 でもね、私たちは、どんなに立派な師匠がいて、あの人のようになりたい、あんなふうに生きたいと思っても、全く同じように出来るわけではありませんし、自分はその人と同じ人生を生きていけるわけでもないと気づいて、気づいた時に、まねることを超えて、自分ならではの人生を生きる、そのことが求められているのではないでしょうか。

 自分ならではというのはどういうことか。聖書では主イエスはこう言われています。「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。」なぜ、異邦人がくどくどとまた、言葉数が多い祈りをするのか、そうすれば、神様が自分達を認めて下さるに違いないと思うからでしょう。

 こんな長い祈りを祈れば、神様、お前は立派だと認めて下さるだろう。豊かな言葉数で祈るならば、神様だけでなく、周囲の皆も大した人だと言ってくれるだろう。そんな思いで祈る祈りが異邦人の祈りだと言っているわけです。だけど、あなた方は、そんな思いをまねするのではないということです。
なぜなら、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じである。」とあります。

 
 私の思いは、既に祈る前から神様がご存じである。つまり、私の存在は神様から与えられた命であって、お母さんの胎に宿る前から神様の愛があって、何と言われようとも、私の命は、その価値は誰とも変えられない、一切変えられないのだと信じられるということでしょう。だから祈る方法でもなく、祈る言葉でもなく、ましてや長さでもなく、大切なことは祈る心。その信仰を支えるのは自分ではなく、神様あなたですと素直に認め、そのように祈れるということでしょう。
 だから、そうか、こんな自分だけど、神様はこの自分を招いて下さり、そのままで良いから、私の所へ来なさいと言って下さっているのだなと、受け入れることです。
 こんな自分ではだめだと思い、あの人のようになりたいと頑張らなくていいのだということではないでしょうか。なるほどなぁ、自分は自分でいいのだな。その思いをこそ、しっかりと受け止めて感謝して、祈りましょう。
私たち一人一人は、誰とも変えられない、それぞれに独特の個性を持った一人ひとりです。その私たちが自分ならではの祈りを献げながら、でも、それが更に一つになって、神様を賛美しながら、自分ならではの豊かな人生を歩んで参りたいと思います。

お祈りいたします。

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