日本キリスト教団 大塚平安教会  

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一つにまとめられる

2018-05-27 16:46:12 | 礼拝説教
エゼキエル書37章15~17節
エフェソの信徒への手紙1章8~14節

 先週の礼拝は私たちが願っておりました幼稚園の初代の幼稚園園長を担われ、前の前の牧師としても奉仕された乙幡和雄先生においで頂き、ペンテコステ礼拝を共々に守ることが出来ました。乙幡先生が大塚平安教会で礼拝説教をされる、一体何年振りであったかと思いますが、そういうことで普段礼拝に見えない方も大勢来られまして感謝な時間でありました。

 乙幡先生が説教の初めに、礼拝説教を引き受けたけれど、ペンテコステ、聖霊のことがよく分からないのです、と話されました。86歳になろうとする先生が言われると聞いている私たちも、そういうものかと思うものですが、もし私がまねして私もよく分かりませんと言ったら、きっと、もっと勉強しろ!(笑)と言われるだろうなと思って聞いていました。

 けれどもっと勉強するというわけでもないですが、ペンテコステ礼拝では多くの場合、使徒言行録の2章1節からの聖霊降臨の場面が読まれます。私も先週9時からの子どもの教会の礼拝で、同じ箇所で話をさせて頂きましたが、いわば毎年のように聖霊降臨の箇所を読むわけですが、今年改めて新たに知らされた思いがしたのは、「炎のような舌」という言葉です。

 今日の礼拝は聖霊降臨第2主日であると共に、三位一体主日と言います。父なる神、子なる神イエス・キリスト、そして聖霊なる神の三つにして一つなる神が揃ったことを意識して守る礼拝です。父なる神とは旧約聖書に記されていますように、天地創造の神であり、主イエスが「父よ」と祈りなさいと教えられたところの神。また、主イエス・キリストは福音書に記されていますように、神が人となられて、母マリアの胎を通して、人として誕生された。それがクリスマスとなるわけですが、神でありながら、人となられ、人として地上の生涯を歩まれた方、十字架と復活の出来事を通して、私たちに神の愛を示して下さった方。

 けれど、それでは聖霊はどうか、乙幡先生は、聖霊に関してはその考え方に関して、大分幅があるのではないかと話しておられましたが、私も基本的にはそう思いますが、でも、使徒言行録の2章には「炎のような舌」がとある。私はこれまでこの言葉を何か象徴的な言葉として読んでいたように思います。けれどそうでなく、弟子たちの一人ひとりが集まって祈っていたところに、炎のような沢山の舌が、祈っていた弟子たちの数だけの舌が降ってきた、これが聖霊降臨の出来事なのだと改めて思わされたわけでした。

 聖霊降臨の出来事は、舌と関係がある、つまり、言葉と深い関係があるのだと改めて思わされたのです。それ故に、弟子たちはそれぞれ、遠くから五旬祭のために集まっていた人々のそれぞれの国の言葉を話しだし、そこで人々は自分達の国の言葉で福音を聞くことになったのだと思うのです。

 そして、そこで何が起こったのか?言葉によって福音を聞いて、そして、心と心が繋がって、弟子の一人のペトロが人々を前にして力強く説教をした後三千人ほどの人々が仲間に加わったとあります。そのような力、人と人とが互いの心を理解し分かり合える力がある、それが少なくとも聖霊なる神の一つの業であろうと思うのです。

 今日はエフェソの信徒への手紙の1章を読んでいただきましたが、10節にこうあります。「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるあらゆるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。」とありますように、ここにも確かに聖霊の力によって、あらゆるものが主イエスのもとに一つになることが出来るというのです。

 私たちが抱えるところの様々な問題、それぞれにおありだと思いますけれども、その問題の原因のほとんどは「一つにならない」「一つになれない」という所にあるのではないでしょうか。

 先週の火曜日は、幼稚園が新しい年度になりまして、初めての「聖書に親しむ会」を行いました。もう何年もこの聖書の会に出ておられる方もおられますし、今回が初めてですという方もおられましたし、毎回色々な方の話を伺うことも出来、豊かな時間を過ごしておりますが、あるお母さんがこんな話をされた。

 今年の2月に行われた幼稚園の講演会で聞いた話が良かったというのです。それはよかったですね~。どんな話だったのですかと聞きましたら、私が話したというのです。え~私の話ですか、何を言いましたか、と話したほうも忘れているようなものですが、マイナスのストロークとプラスのストロークというのがあって、どんな時でもプラスのストロークですよという話しでした、というのです。
 
 その話を実践して夫との関係、子どもとの関係が良くなって嬉しいのです、と話して下さいました。
 
 マイナスのストローク、プラスのストローク、ストロークとは水泳で、泳ぐときに、右の腕、左の腕と交互に水をかくこととか、ラケットでボールを打ち合うことをストロークと言いますが、日本語では一振りとか、つまり言って戻ってくることを意味するのだと思いますが、ここでいうストロークは、言葉かけのことです。どんな言葉をかけるのか、人の心にどんな栄養を与えますかということです。マイナスの栄養ですか、プラスの栄養ですかということです。つまり、同じ出来事があったとして、人にどう表現すれば、それが栄養として届くのかということなのです。
 
 例えば、子どもが悪さしたとする。その子どもを叱るとして、叩いたりしたら時には虐待ともなりますから、やってはいけないのですが、だから言葉が大切なわけで、「そんなことをするなんて、もうあんたは私の子どもじゃないよ」と言うのと、「どんなことをしても、あんたは私の子どもだよ」と言うのと、どちらの言葉を聞くと、子どもはより悪かったと思うでしょうか。という話しをしたりしたわけです。「もうあんたは私の子じゃないよ」というのがマイナスのストローク、「どんなことをしても、あんたは私の子だよ」と言うのがプラスのストロークではないでしょうか。と話をさせて頂きました。

 そのお母さんは、そんな話を聞いて自分が夫に対して、子どもに対して、これまでどんなにかマイナスと思える言葉かけをしてきたかと反省したというのです。そうか、言葉で変わるんだ、と心にストンと落ちたと話しておられましたが、ですから2月から家族に対してプラスの言葉かけを一生懸命やったというのです。2月、3月、4月、5月ですからね、大分意識して、すると家庭がやっぱり柔らかくなったというか、穏やかになったというか、気持ちよくなってきましたと言われたわけです。なによりも自分の気持ちがいつも気持ち良いと話しておられました。

 それで先日夫に聞いてみたそうです。「私、変わったでしょう?」そしたら夫は「全然変わらない」と答えたそうですが、でも、それも嬉しそうに話して下さいました。
 
 皆さんここが大切なところです。三か月、半年、一年と自分は良い言葉、良い表現、一生懸命に意識しながら人にプラスのストロークをする。するとね、それがいつの間にか意識しなくなっても良い言葉、良い表現になっていくものですが、そうされていく相手は、そんなに急に変わるものではないのです。そんなにこちらの思う通りに人は生きてくれませんからね。だから「私変わったでしょう?」「全然」と答えるのです。その時ですよ。あ~こんなに一生懸命頑張ったのに、これでも変わらないなんてと相手を責め始めたらここ数ヶ月の努力は無くなってしまうようなものです。

 でもね、「全然変わらない」と話した夫の言葉を聞いて、この方は笑顔でそれを受け止めたというわけですよ。ここが偉いなぁと思うのです。人の愛情とは、やっぱりこれだけしたのから、それなりの見返りが無ければと思うし、こんな酷いことをされたのだから、自分もその仕返しにと思うし、だから、どこかで「目には目を、歯には歯を」になってしまうのです。また、それが愛情だと思っているところもあるでしょう。でも、聖書はなんと言っていますか。旧約聖書のイザヤ書2章22節にはこうあります。「人間に頼るのをやめよ 鼻で息しているだけの者に。」鼻で息している者、それは人間です。人間を頼ると、多くの場合腹が立つし、あの人は分かっていないと思うのです。

 だから人に頼らないで、あらゆる者を一つにまとめてくださる方、主イエス・キリストにこそ頼るべきなのです。そうでなければ本当の解決を見出すのは難しいのではないでしょうか。

 私たちは一つになりないと心に願っていながら、なかなか一つになれない、なんで一つになれないのかな、あの人が変わらないから、この人も頑固だから、あの人が変われば自分も変われるのにと思っているのかもしれません。

 昨今のテレビや報道をみておりましても政治も、スポーツも、なんだかマイナスのストロークの典型的なやり取りばかりが目に付くように思います。上手く一つになりたいけれど、なれないような話が沢山あるように感じます。あの人が悪い、この人が悪い、いやあの人が変わらないから、この人が変わらないから、そんな話ばっかりが目につくなと思うのは、私だけではないでしょう。
 
 先ほどエゼキエル書37章という箇所を読んでいただきましたが、前回の礼拝でも話しましたがエゼキエルという預言者は、イスラエルの国が一番苦しい時期、敵国バビロンとの戦いで、もうすっかり町も土地も人も全てを失い、もう夢も希望も無いといった状態でエゼキエルは人々に主なる神の言葉を告げる役割を担いました。ですから、どうしても厳しい言葉が続くようになります。戒めの言葉が続くようになるのです。
 
 けれど今日読まれました37章は、その中にあっても一つの希望の言葉が記されている箇所でもあります。主なる神がエゼキエルに話しかけます。「『エゼキエルよ、一本の木を取って、ユダおよびそれと結ばれたイスラエルの子らのために』と書き記しなさい。それから別の木をとって『エフライムの木であるヨセフおよびそれと結ばれたイスラエルの全家のために』その二本の木を近づけて、一本の木としなさい。それらはあなたの手の中で一つとなる。」とあります。
 
 当時、イスラエルは、二つの国に分かれていました。元々小さい国なのに、その国が争って国が二つに分かれて、北イスラエルと南ユダという国となり、しかも、北イスラエルはエゼキエルの頃は既に、滅んでいまして、わずかに南ユダという国が存続していましたが、大国の前には簡単に滅ぼされてしまうようなものなのです。
 けれど、主なる神は、北イスラエルの民も、南ユダの民も、元々、私の民ではないか。だから様々な出来事が起こり、たとえイスラエルが滅ぼされるとしても、私はあなたがたを見捨てることはないと宣言されているのです。二つのものを一つにすると告げておられるのです。「ひとりの王が彼らすべての王となる」と示して下さっています。

 一人の王とは、主イエス・キリストです。この方こそが天にあるものも地にあるものも一つにまとめてくださる方、どのようにしてまとめて下さるのか。言葉によってです。エフェソ書1章13節には「真理の言葉」とあります。「救いをもたらす福音」とあります。この言葉を私たちは聞き続けることです。聖霊に満たされて、炎のような舌が語る、真理の言葉、福音を聞いて、信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。とあります。

 すべての者をまとめ、一つにされる力は、聖霊なる神の力です。私たちは、毎週の礼拝において、説教、讃美歌の後に共々に使徒信条を唱えます。使徒信条とは、既にいつの頃からかもよく分からない程の昔から、教会で唱えられてきた信仰告白です。その中に「我は聖霊を信ず」とあります。その後に記されている言葉は、聖霊が司るところの役割が記されて、こう続くのです。「聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがへり、永遠の命を信ず」私たちの教会の交わり、相互の罪の赦しは、聖霊の力によるものだと信じますと、私たちは毎週、唱えているのです。

 教会がなぜ、神の国を表しているのか、聖徒の交わり、罪の赦しですよ。時々、私のようなものが教会に来ても良いのでしょうか。と尋ねられることがあります。勿論、あなたのような者こそが来られる所ですよ。だって、あなた以上の方が大勢おられますからとは申しませんが(笑)私などは多くの罪を負っている者の筆頭だと思います。でも、私のような者がこの役割を担わさせて頂いていますと、感謝することばかりです。

 そんな私たちが更に、更に一つとなるために、主にあってまとめられ、この世にまとめられてしまうのではなく、誰もが神の国の住民として主に感謝しながら、この一週間も過ごしてまいりましょう。

 お祈りいたします。
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きいて!きいて!
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