日本キリスト教団 大塚平安教会  

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二つのものを一つに

2018-07-28 16:07:36 | 礼拝説教
【ホセア書11章】
【エフェソの信徒への手紙2章11~22節】

 聖書には旧約聖書と新約聖書があります。この二つの聖書を合わせて、私たちは聖書と呼ぶわけです。旧約だけでもダメで、新約だけでも足りない、二つが一つになるところで、The Book、聖書と呼ばれます。
 
 聖書を例にしてみましたが、私たちは、私たちの社会にも、二つのものがあると考えているところがあるのではないでしょうか。

 先週の礼拝で、アダムとエバの話をしました。蛇がエバのところへやって来て、この木の実を食べると、目が開けて、神様のようになると誘惑しました。
その誘惑にのったエバとアダムは木の実を食べてしまった。すると、目が開けて自分達が裸であると知ったというのです。この木の実の名前は「善悪を知る木の実」でした。彼らが知ったのは、世の中には善と悪の二つがあると知ったのです。そして善は神で、悪は私たち人間だと知った彼らは、その木の実を食べる前は恥ずかしくなんともなかったのが、自分達が力足らずで、取るに足りない者であることを知ったのです。

 けれど、本来、それは食べてはならない木の実でした。なぜなら、主なる神は人間を造られたとき、「きわめて良かった」と大変喜びました。この世界は、色々なことがあるけれど、私たちにはまだまだわからないことばかりですけれど、神の目からみたら「極めて良い」という一つの世界であったはずです。
 けれど、人はどうしても、善があり、悪があると二つの世界で考えてしまう。そのほうが分かり易いように感じるのです。

 そんな考え方こそが罪なのかもしれません。だから神は、つい、そのように感じ、また考えしまう私たちの為に、主イエス・キリストを人の子として送って下さいました。
 この方は、私たちの平和であり、二つのものを一つにされた方として、私たちの世界を生きられました。善と悪、例えば、イスラエルの人々から見れば、イスラエル、ユダヤ人は神から特別に愛された神の民であって、それ以外の人々は異邦人です。ユダヤ人が善であり、異邦人は悪でした。
 けれど、ガラテヤ書3章には「そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」とあるように、全ての人が神の相続人として一つとされたとパウロが告げるように、主イエスの肉によって、すなわち十字架によって、全てのものが完全に和解し、一つとなれると告げているわけです。

 先ほどエフェソの信徒への手紙2章11節から読んで頂きましたが、14節から読みますとこうあります。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。」

 ここに「規則と戒律ずくめの律法」という言葉があります。この律法、ひっくり返せば法律となりますが、法律は人が作ったもの、律法は神が人に与えて下さった教えと考えれば良いと思います。この律法はイスラエルの人々にとっては、特別な教えでした。自分達が神の民として生きている証拠のようなものでした。しかしまた、この律法こそ様々なところで隔ての壁を作っていたと思います。神の民であるユダヤ人の中でも、律法を守れる人は、神に義とされ、守れない人は罪があると考えていたわけです。

 ある時に、主イエスはこう話されました。自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して話されたとあります。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしは他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くにたって、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。誰でも高ぶるものは低くされ、へりくだる者は高められる。」ルカによる福音書(18章)に記されている御言葉です。

 皆さん、どうでしょうか。私たちはこの譬えを読んでみて、自分はファリサイ派の人のようだと思うでしょうか。あるいは徴税人のような者だと思うでしょうか。徴税人はあのザアカイの話もありますが、税金を取り立てるだけでもなく、神の民としてはローマの支配に身を寄せて生活する裏切り者であり、罪人の象徴のような人と思われていました。でも、神様は、この徴税人が祈った祈りを義とされた。ですからやっぱり、自分も、この徴税人のような者ですと思うのではないでしょうか。

 元々、プロテスタント教会の信仰の印は、信仰義認です。行いによって義とされるものではなく、信仰によってこそ主なる神から義とされると教えられ、また、それによって私たちも救いに預かることが出来ると教えられます。ですから私たちも「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈るしかできないのだと思います。

 けれど、どうでしょうか。わたしはこの説教を考えながら、先日の家庭集会の事を思いだしました。Mさんのお宅で行われた家庭集会、とても素敵な良い家庭集会でしたが、礼拝を終えて、共に食事をしながら色々な話をしました。その際に、何かの拍子にどなたかが、知り合いにフィリピンの方がおられて、その方はクリスチャンだと言っているけれど、女性はスカートだけが許可されていて、スラックスやズボンはダメという教えがあると聞いたのですが、どんな教えですかと聞かれたのです。私も初めて聞きましたが、でも、それはエホバの証人とか、そういった宗教ではないでしょうか。と申しましたら、そうではなく、キリスト教だと言っているというのです。
 特段、特別で、深刻な話でもなかったのです。ただ、その後、海老名にはエホバの証人の大きな施設があるという話しや、少し新興宗教と呼ばれるグループの話になって、あれこれと話しました。その時のことを思い出したのです。つまり、私たちは、つまり、私も含めてどこかで、「神様、罪人の私を憐れんで下さい。」と祈りながら、続けて、「神様、私はエホバの証人でもなく、スカートしか履いてはならないといった宗教でもなく、新興宗教を信じているのでもないことに感謝します。私は、教会に来て、礼拝を守り、献金を献げています。」と祈るとしたら、私たちは果たしてファリサイ派なのか、徴税人なのか訳がわからなくなるのではないかと思いました。

 私は罪人ですと祈る。自分は罪人であることを自覚する。そのことは教会において、礼拝において、繰り返し、繰り返し話され、教え、教えられます。けれど、同時に私はあの人のような謙遜の足りない人ではない、あの人のような言葉を他人に語り掛けることはしない、あの人のようにしゃしゃり出るようなことはしない、なぜ、あんなことを平気で出来るのか、わたしは違うと思っているとしたら、私たちは果たして、どちらなのでしょうか。

 ファリサイ派と徴税人の違いがどこにあるのかというと、それほど難しくはありません。ファリサイ派は、他人と自分を比べて自分を正しい人としているのに対して、徴税には誰とも比べていないということです。徴税人はただ神様にのみ訴えかけ、祈りをささげています。他者に関心を向けるほどの余裕が無かったのかもしれませんし、その必要もなかったかもしれません。ただ、主なる神の憐れみに頼るしかなかったとも言えるでしょう。
 
 もう一度、ファリサイ派の人の祈りに注目してみますとこう祈っています。「神様私は、他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではなく」とあります。「週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」とあります。この祈りの基準は律法にあります。あの主なる神がシナイ山において、モーセに教え、石の板に刻み込んだ十戒をはじめとする律法、ファリサイ派の人は、この律法を守っていますと祈ったということでしょう。
 
 このことが何を意味しているのかでしょうか。
 私たちには、旧約聖書の時代に生きた人々のように、律法があるわけではありません。けれど、私は、自分が自分なりの律法に生きていて、あるいは自分なりの律法を心の中にもって、つまりやっぱり自分なりの善と悪という考え方に生きていると、どうしてもファリサイ派の人の祈りのようになってしまうのではないかと思うのです。

 私たち一人一人が自分の律法を持って、人を見て、人を計り、人を評価しているのではないか、そして、それが自分では、まるで当たり前の事ですから殆ど自覚していない、そこに人の罪の深さがあるのではないかと思うのです。

 律法の特徴は、「何々しなければならない」、「何々してはならない」、「何々でなければならない」と言った、規則と戒律です。
 
 例えば、自分は完璧でなければならない、という人がいたとします。そういう人は、零点か百点のどちらかしかないと考えるわけです。頑張れば百点を取ることもできるでしょう。けれど人生はテストではありませんから、全てを完璧に生きることは出来ません。そうなると、自分はダメだなと思うのです。自分は情けなないと思うのです。自分で自分を責めるわけです。
 
 例えば、長男、長女の人は、いつでもお兄ちゃんであり、お姉ちゃんです。時に、父親代わり、母親代わりとなったり、弟、妹の手本にならなければと思う。人の世話をしなければと思ったりするのではないでしょうか。
 
 例えば、学歴でプライドや劣等感を持っている人がいます。この間、ある方と初めて話をして一分も経ったか、経たないかで、いきなり「先生は、どこの大学を出られたのですか」と聞かれて、ビックリしたことがありました。どんな思いで聞いて来られたのかよく分かりませんが、どこの大学を出ようとも、あるいは出ないとしても高卒であろうと、中卒であろうと自分は自分であればそれで良いとは中々思わないし、思えないのかもしれません。良い学校、でなければならない。良い会社でなければならい。そう思っている方、多いのではないでしょうか。

 例えば、幼稚園のお母さん方と話していますと、自分は立派な母親でなければならない、と思っている方が多いとも思います。ダメなところも自分、足りないところも自分、中々そう思えないし、そう思えないから、いつも自分に対しても、子どもに対しても腹が立つのですと言っても中々わかって貰えない時があります。

 そのようにして、私たちの心の中には、実に様々な自分の律法があって、そしてそれによって、時には他人を裁き、自分を裁いて、どうも生きていくのが大変だと思う。どうして、自分の人生は上手くいかないのかなと思ったりするのではないでしょうか。
 だから、どうするのかエフェソの信徒への手紙2章14節からもう一度読みますが、「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。」
 主イエス・キリスト、この方こそ私たちの平和です。なぜなら、二つのものがあって、善と悪が世の中にあって、善に生きなければならない。そうでなければならないと思う私たちに、二つではなく、一つの世界がある。ローマの信徒の手紙の8章に、万事が益となるように共に働くのだとありますように、人の目には善であったり、悪であったり、プラスと思ったり、マイナスと思ったりする一つ一つが、神の御手の中で、一つにされていく、そういう世界観を私たちは生きていけるのだと思います。

 世の中には、世の中と神の世ではなく、人の世という意味です。そのような世の中には、沢山の目に見えない律法があります。そのような律法が手枷、足枷となって、私たちの人生が翻弄されないように祈りながら、主にあって、一つとなって私たちは生きて参りましょう。
 お祈りします。
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きいて!きいて!
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