日本キリスト教団 大塚平安教会  

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人の知識をはるかに超える世界

2018-09-26 10:16:24 | 礼拝説教

【エフェソの信徒の手紙3章14~21節】

 2018年度の大塚平安教会は 教会の主題聖句をエフェソ書5章1節にある「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣うものとなりなさい」この御言葉をもって、この年度を過ごしております。そのような関わりの中で、本年度の礼拝は、エフェソの信徒への手紙を中心として読まれていますが、本日はもともと3章19節~21節の箇所からと考えておりましたけれど、読んでみてどうも収まりが良くないと思いまして、昨日までは17節から読んで頂こうと思っておりました。けれど、それでもやっぱりどうかと思い直して結局14節からを読んで頂くことにいたしました。

 そうなると、実際は2週前と殆ど同じ聖書箇所をもう一度読んで頂いたことになるわけですが、それでも、その方が良いと思いました。この14節から21節の箇所は、パウロの祈りが記されています。ですからやはり途中で区切ることはしないほうが良いように思います。

 エフェソの信徒への手紙は、前にも申しましたがパウロが捕らえられた状態で、恐らくローマの牢獄の中で記されたもの、獄中書簡とも呼ばれています。パウロ自身、生涯の中で三回に亘って、特に異邦人の町で伝道活動を行いました。その働きは命がけの伝道活動であって、しかし、必ずしもどれも成功だったとは言えないと思います。
 聖書の中には、パウロが捕らえられて牢に入れられたという箇所も出てまいりますし、三度、あるいは四度は牢に入られたであろうと考えられていますが、パウロ自身「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く」と記していますから、聖書に記されている以上に、私たちが想像する以上に捕らえられて、牢に入れられたことが幾度もあったと思います。

 けれど、そういう状況であっても、パウロはこんな状態だから無理だとか、諦めるとかではなく、こんな状態だからこそ、自分が出来ることがある、それは自分と関わりを持つ教会に宛てて手紙を記し、そして、なんといっても祈り続けたということだと思います。

 本日、読んで頂いた箇所も、パウロはエフェソの教会の人々に対して、あなたがたの「内なる人を強めて下さいますように」「心の内にキリストを住まわせてくださいますように」「愛に根差し、愛に立つものとしてくださるように」と祈り続け、そして今日のメインとなる19節の御言葉ですが、「人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさの全てにあずかり、それによって満たされるように。」と祈るのです。

 祈りを献げる、私たちは信仰者として折に触れ祈りを献げます。幼稚園の子ども達も、お昼の前には声を合わせて祈りを献げてからお弁当を食べるわけですが、私たちの普段の祈りは言葉に出すこともあり、心の内で祈ることもあるのではないでしょうか。

 最近気が付いたことですが、言葉に出さず、心の中で祈りますと、どうもお願いばかりの祈りになってしまうように思います。

 子どもの学校の成績が上がりますように。妻の機嫌が良い日でありますように。夫の給料が上がりますように。なんかどれも良い例ではありませんが(笑)願いばかりが先行してしまうなぁと思う。ですから言葉に出して、神様に感謝して祈ることが大切なのだとも思います。

 そして、祈るときに大切な鍵となることは、祈ることによって「愛の人」となるということではないでしょうか。愛の人になる、これこそ祈りの使命であると言っても良いと思います。

 祈りによって、「怒りの人」や「悲しみの人」になるのではなく、勿論、怒りも悲しみも人生にありますけれど、しかし、それらも含めて、祈りを通して「愛の人」となっていく、そしてその愛が、自分を通して、妻に、夫に、子どもに、家族に、友人にと伝わっていく、そのような自分に成長させてくださいと祈る、それが祈りの鍵ではないでしょうか。

 ですからパウロも祈りました。「人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神のみちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」

「人の知識をはるかに超えるこの愛」私たちが思っている以上に、思いもつかない程の愛を知るようになりますようにと祈る。そのような愛が一体どこに現れるのか、勿論、主イエスに現れるわけです。

 ヨハネによる福音書15章13節で主イエスはこう言われました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」

 私が小学校5年生に時に、大きな病気をした。病気というか盲腸ではないかという判断で手術をした。ところが、手術の後、傷口がふさがらないのです。傷口は、糸でしっかりと閉じられているのに、その傷口から血がどんどん出てくるのです。今の時代であれば、手術の失敗とか、医療事故とか、そんなことにもなったかもしれませんが、いずれしても毎日、出血が続き、ついに輸血するということになりまして、父親と母親の血が調べられて、検査の結果、どちらも0型でしたから、どちらでも大丈夫だったと思いますけれど、父親の方がより適合するだろうということで、父親の腕から大きな注射器で、血を抜いて、私にそのまま輸血するのです。恐らく今の時代はそんなことはしないと思います。けれど父親だけでなく、血液センターから、また、近所の方々からも血を分けて頂いて、なんとか一命を取り止めることが出来た。

 私は、時々父親に対して辛口な言葉で表現しますけれど、でも、あの時のことを思い出すと、本当に感謝する思いになります。血は命ですよ。その命を分け与えてもらって、自分は生きたと思うと「これ以上に大きな愛はない」この言葉が身に染みるように感じられます。

 月に一度、私たちは聖餐式を行いますが、その時にパンを裂き、杯を配餐します。あの杯は主イエスが私たちの罪の為に流された十字架の血であることを思います。神が私たちを友として下さり、その友の為に、私たちが流すべき血を、私たちではなく、主が全部引き受けられて、十字架にかけられていかれた。
 私は聖餐式の最に、コリントの信徒への手紙の11章からの御言葉を読みます。パンと杯、主イエスの体としてのパン、流された血としての杯、そして、最後に「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」と御言葉を読みます。

 この出来事は説明ではありません。説明ではなく神の実体だと思います。哲学とか人の知恵は教えであり、また、説明であることがあります。話を聞くとなるほどと思わされるところもあります。でも、キリスト教は説明ではありません。神の愛の実体が主イエスを通して私たちに伝えられた、ここにキリスト教たる所以があると私は思います。

 先週の幼稚園の礼拝は、ヤコブの手紙という箇所が読まれました。1章22節に「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」と記されている。この御言葉のお話をしました。
 
 御言葉を行う人となる。御言葉とは聖書の言葉ですよ。イエス様が話して下さった素敵な言葉ですよ。だから、なにより御言葉を行うには、御言葉を聞かないとわかりません。だから礼拝が大切ですよ。と話しました。

 人が赤ちゃんとして生まれてくる、生まれてから、言葉が出るまで大体八千時間、聞き続ける必要だと言われます。その位聞き続けて、やっとパパとかママとか言葉になってくると言われます。それからどんどん言葉を覚えていくわけですけれど、けれど覚える言葉は、何よりも聞いた言葉です。時々、母親が忙しかったりして、おばあちゃんに育てられた、おばあちゃん子という言葉があります。おばあちゃん子の特徴のようなものがあって、優しい子に育つとか言われますけれど、例えば「暴れん坊将軍」とか「水戸黄門」といった時代劇が好きというのもあります。

 岩手にいた頃に、あの子はおばあちゃん子だねと言われていた子どもがいました。どうしてそう言われたのかというと、年寄りしか使わないような訛りとか言葉を普通に使うわけです。ですからすぐにわかる。例えば「だめだよ」という言葉を「ワガネ、ワガネ」(笑)(ダメだという意味)というのですから、すぐ分かるのです。

 でもそれは幼稚園とか学校に行くようになると自然と治ってくるものです。でも、子どもは聞いた言葉を覚えるのです。自分の子どもに、嫌な言葉を直接言う親はいないと思いますが、でも、例えば、いつも夫婦仲が悪いとか、人の悪口を言うとか、批判ばかりしている、そういう言葉を聞いて育った子どもは、やっぱり悪口をいったり、人を批判したりするような傾向になるでしょう。

 だから、大切なのは、愛のある、実体のある御言葉、あなたがどんなに大切か、必要か、愛されているのかを話しかけ、語り続けることだと思います。

 でも、それは、計算してということもない、伝わるのは「人の知識をはるかに超えるこの愛」ですからね、そのような愛によって育った一人一人が、御言葉を行う人になるのではないでしょうか。
 
 ルカによる福音書の10章に「善いサマリア人」の例えがあります。主イエスが一人の青年に答えた場面です。「イエスはお答えになった。『ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人と見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、そのひとを見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のロバに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。』律法の専門家は言った。「その人を助けた人です」、そこでイエスは言った。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
 
 皆さん、サマリア人とは、元々同じイスラエル人ではありますけれど、その歴史的な変遷の中で、ユダヤ人から差別を受けていた人々です。そのサマリア人が助けたというのですから、主イエスの一流の例えかたです。最も助けないだろうと思われる人が、人を助けるのです。あなたも行ってそのようにしなさい。この言葉は、何を示しているのかというと、あの人は嫌いだとか、あるいはあたかも敵対していると思える人に対して、あなたはそこにおいてこそ、愛を示すのだということでしょう。人の思いの中ではとても、無理。でも「人の知識をはるかに超えるこの愛」ですからね。

 それでも御言葉を聞き、御言葉を行う人になろうとする。きっとそのようにして、自分では無理かな、自分では無理だな、とても出来ないなと思うその思いを、しっかりと御言葉によって支えられて、力付けられて、生きていく。

 パウロは投獄されただけでもなく、鞭打たれたことは比較できない程多く、石を投げられ、難船し、盗賊に襲われ、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、しばしば眠らず、飢え渇き、しばしば食べず、寒さに凍え、でも、それでもパウロを支えていたものは自分の知識や知恵ではなく、主イエス・キリストがどんなに自分を愛し、自分を愛おしんで下さったか。そのことが実体として伝わっていたのだと思います。
 
 実際、このパウロこそ、イエス・キリストを信じる人々を憎く思い、怒りにまかせて、捕らえては牢獄に、捕らえては牢獄にと、最もキリスト教と敵対する一人であって、指導者でありました。
 
 そのような自分を、神が捕らえて下さり、自分の思いをはるかに超えた愛によって慈しんで下さった。この奇跡のような出来事を体験し、実体のある愛の中で、生涯を福音伝道に献げて生きていました。
神の愛は、いつも私たちの思いを越えて、時に奇跡と思える出来事を起こし、祝福と慈しみで満たして下さいます。

 私たちは「神に愛されている子供です。」そのような愛に包まれて、感謝しながら、私たちの人生も愛の内に、受けとるばかりでなく、愛を与える人として生きていきたいものだと思います。
 お祈りいたしましょう。

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