日本キリスト教団 大塚平安教会  

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あなたはどなたですか

2018-02-01 10:34:44 | 礼拝説教
【エレミヤ書1章4~10節】
【使徒言行録9章1~20節】
【マルコによる福音書1章14~20節】

 先週の礼拝後、各部集会が行われましたが、青年会は「求道者 伝道テキスト」という冊子を一緒に読みました。鈴木崇巨先生という神奈川の田浦教会や、東京の頌栄教会で牧師されていた先生が記した、タイトル通り、求道者向けの薄くて読みやすい一冊です。
 キリスト教とは何か?を出来るだけわかりやすいようにと考えて作られているなと思いました。全部で30課に構成されていまして、第1課は、「聖書の神の名前」でありました。聖書、特に旧約聖書に記されている神の名前は「主」という名前です。という説明から始まります。そこを青年会で読んでみたわけです。

 テキストには例えば旧約聖書出エジプト記の3章の箇所が示されています。エジプトの地で奴隷となっていたイスラエル人が、神様に助けを求めた叫び声が神に届き、その思いを聞き入れた神が、ミディアンと呼ばれる異邦人の地にいたモーセに話しかけます。モーセよ、あなたは行って、イスラエルの民をエジプトから救い出し、私があなた方に与えた乳と蜜の流れる土地、カナンの土地へと向うように、と告げるのです。

 その言葉に驚いたモーセは、「主よ、あなたはどなたですか?」と尋ねると、「私はある、というものである。」と告げると共に、「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とも語ります。エジプトの王のもとに行って、「我々ヘブライ人の神、主がわたしたちに出現されました。」と告げなさいというのです。

 モーセは突然の出来事で、しかも、あまりに大きな役割故に、しり込みし、そんなことは出来ないと渋るのですが、主に強く求められ、ついにイスラエルの民を導き、エジプト脱出に成功し、40年の年月をかけて、カナンの土地へ戻っていく、その道のりを主が、昼は雲の柱、夜は火の柱でもって導いて下さった、この物語が出エジプト記という箇所に記されているわけです。

 本日は、先ほどエレミヤ書1章4節からも読んで頂きました。この箇所は主なる神がエレミヤに対して、エレミヤよと語りかける場面です。あなたは神に立てられた預言者として、今このイスラエルの究極的な場面において、語るべき御言葉を語り、人々を神に立ち返らせるようにと告げるのです。「主の言葉がわたしに臨んだ。『わたしはあなたを母の胎に造る前から あなたを知っていた。』という御言葉からはじまります。

 当時、イスラエルは、敵であり、またあまりにも大きな国となっていたバビロンとの戦いの中で、国が亡びるかもしれない、という厳しい状況に置かれていました。その厳しい状況で、イスラエルに神の御言葉を語り続けなさい、時には人々が聞きたくない言葉、厳しいと思われる御言葉も語らなければならない、ですから当初エレミヤも「わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者に過ぎませんから。」と渋るのですが、主の励ましによって、預言者としての役割を受け入れ、聖書にその名を書き記される偉大な預言者としての働きを全う致します。

 このようにして、一貫して、旧約聖書においては、神はイスラエルの民の「主」であり続けるわけです。それから、新約聖書の時代となるわけですが、先ほど紹介したテキストの1課は「主」でしたが、2課は「イエス・キリスト」となっておりました。主である神が、人となられて、人々に具体的に、また神の思いは何であるのか、を明らかにされるために、イエス・キリストが誕生された。
 
 鈴木崇巨先生は、2課で、「主なる神」と「イエス・キリスト」との関係を、あくまでも、不完全であるがと前置きしながら、その関係をまるで餅のようなものであると説明しました。今週末には私たちも餅つき大会を予定しておりますが、つきたての餅が一つあったとする。その餅を二つにすると二つ別々になります。温かいうちなら、その一片を元のかたまりに戻してもまた、一つになります。そのようにして、どちららも、餅であることには変わりなく、主とイエス・キリストも同じ神、だから私たちは主イエス・キリストと呼ぶのですと、説明してありました。

 この説明が的を射ているのかどうか、三位一体の神について、その教理を確立したと言われるアウグスティヌスが聞いたら、どう答えるか、聞けるものなら聞いてみたい思いがいたしますけれど、地上での福音宣教のお働き、そして、捕らえられ、十字架にかけられる。全ては終わった、と弟子たちや、多くの主イエスを慕う人々が力を落としますけれど、
 
 しかし、キリスト教の力、神の力は、むしろ、そこから、人には及ばない場所から、つまり主イエスの死からの復活という出来事によって、そして、ペンテコステ、聖霊降臨の出来事によって、弟子たちは本当にこの方こそ、主であると命がけの福音説教を開始するのです。その様子が新約聖書、四つの福音書に続く、使徒言行録という箇所に記されます。

 まさに命がけの福音宣教、キリスト者最初の殉教者とも言われるステファノという人は、使徒言行録の6章から登場します、ステファノは「知恵と霊とによって語る」ので、反対派の誰もが歯が立たず、そこで、人々をそそのかして、ステファノが「モーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた」と偽証させます。それで、ステファノが捕らえられ、裁判にかけられますが、その顔はさながら天使の顔のように見えたと記されています。
 
 そのステファノが主イエスに対する信仰を明らかにすればするほど、人々は熱り立ち、ついに石打の刑が確定します。人々は、自分達の着ている物をサウロという若者に預けてステファノを引きずり出して石を投げはじめ、その投げている間、ステファノは主に呼びかけて「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と呼びかけ、それからひざまずいて「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫び、眠りにつきました。つまり、召されて行かれました。さながら、その様子は主イエスの十字架の姿に重なるかのようにも思うのは私だけではないでありましょう。

 このステファノの殉教を境にして、エルサレムの教会に大迫害が起こったとあります。男女を問わず、主イエスを神と信じる人々を捕えては、牢に入れ、捕らえては牢に入れ、その中心的な役割を担ったのが、あのステファノ殉教の場面にも登場する、サウロ、後のパウロでありました。
 
 パウロは、この働きこそ、主なる神の思いと信じ「主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、見つけたら捕えて、縛り上げエルサレムに連行しようと、鼻息荒く、ダマスコという町に向っていた時のことでありました。
 突然、天からの光が彼の回りを照らし、パウロは地に倒れます。そして、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という声を聞くのです。パウロは思わず「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがありました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」
 
 パウロは、その後、三日間目が見えず、食べも、飲みもせず、その後主の弟子であったアナニアがやって来て、パウロに手を置いて祈ると、目からうろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになり、洗礼を受け、食事をして元気を取り戻し、そして、ついにこの場面において、キリスト者を迫害するものから、主イエスの福音を宣べ伝えるものへと回心したわけでありました。

 皆さん、今日の説教のタイトルは「あなたはどなたですか」と致しました。旧約のモーセも、エレミヤも、そしてパウロも、主なる神と出会う経験をいたします。特にパウロの回心の出来事は、キリスト教のその後の進展においては、決定的であったと言えるでありましょう。「主よ、あなたはどなたですか」「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」この神との出会いが、パウロの人生そのものを変えていくこととなり、そのパウロがエルサレムにと留まることをせず、世界にむけて、異邦人に対して、主イエス・キリストの福音を宣べ伝える働きが、どんなにか世界の歴史を動かしことであろうか、何よりも、今、この場で主イエスを信じる私たちも、また、パウロを通して主イエスと出会った一人ひとりであると言えるのではないでしょうか。

 孫引きになりますが、1994年にノーベル文学書を受章した作家の大江健三郎さんがこういう事を言っているそうです。「なにものか人間を越えた存在が、われわれ人間を通じてジャスト・ミートする瞬間がある。自分の人生の良いものも、悪い者も、そのジャスト・ミートの時に、そこで統合され意味を持ってくる。そしてプラス面が生かされるだけでなく、マイナス面もまたそれなりの意味を持って統合される、そういう時がある」と語っているそうです。私はこの文章が記されている書物を持っておりません。すぐにでも読みたいと思っているのですが、中々その本と出合いません。けれど、とても良い表現だと思うのです。

 聖書の中で、主なる神と出会う人は、必ずそこで人生が変えられていきます。
 アブラハムから始まって、モーセも、エレミヤも、マリアもヨセフも、ペトロも、ヨハネも、そしてパウロもそうなのです。それぞれが神と出会って、それぞれの与えられた役割を担うのですが、けれど聖書に記される神との出会いには共通する一つの事があるのです。それは何か、私たちの努力によって神と出会ったわけではないということです。

 先週も申し上げましたが、年の暮れにお寺のお坊さんと、教会の牧師と、神父と、神社の神主がテレビに出ていまして、それぞれの宗教について、考え方について分かりやすく話してくれた番組を見ておりましたが、とにかくお寺のお坊さんが何人も出ているのです。なぜかというと、一口に仏教と言いましても、全く違うというのです。ものすごく厳しい修行が強いられる宗派もあれば、人が修業することに意味を見出さないという宗派もあるというのです。修業する宗派のお坊さんは、例えば、たき火のようにして火を焚いて、その上をはだしで走り抜けるとか、火の上に、大きな鍋をおいて、その上に胡坐をかいて、御経を唱えるとか、更に上を行く荒行というものがあって、朝の2時に起きて、夜の11時まで、冬でも一日何回も水をかぶったり、全く食事を取らなかったりという信じられない修行続けるというのもありました。

 そういった修業をして、自ら仏に近づくのだというのです。私は心からお坊さんにならなくて良かった(笑)と思いましたが、だから楽だから良いというのもおかしいかもしれませんが、でも、やっぱり修業ではありませんよ。人が頑張って、頑張って、死ぬような修業を重ねて、それをやり遂げた人は仏に近づき、だからその人の教えが素晴らしく、その人の言葉は仏の言葉、まるで聖人のように扱われる、とても分かりやすいのです。

 だから、キリスト教は分かりにくいと言われるかもしれません。なぜなら人の頑張りではありませんよ。と教えるからです。人が頑張って真理に辿り着くのではなくて、真理が、すなわち、主なる神が私たちを造り、私たちに命を与え、神が私たちに語りかけるのです。 

 私たちが寝ているとしても、どんな状況に置かれているとしても、私たちが意識しようと、意識しなくても、あるいはそのことを理解出来ても、出来ないとしても、主は私たちに命を与え、私たちの人生を祝福して下さる。こちら側になんら条件が求められるわけではないのです。

 主なる神が、私たちに語りかけて下さるのです。しかも、「主よあなたはどなたですか」
「わたしは主イエスである。」という言葉は、その御言葉は私たちの人生の24時間、いつでも、どんな時でも語りかけて下さっているのです。主なる神は、あらゆる方法を通して私たちに、「わたしは主イエスである」と語り掛けて下さっているのです。
 
 靴屋のマルチンという話がありますね。マルチンが息子を失い、奥さんにも先立たれて、独りぼっちとなり、自分の不幸を嘆くのですが、それでも聖書を読みながら、祈ります。神様、本当に神様がおられるなら、私の所に来て下さい。と願うのです。すると、どこからともなく声が聞こえてくる。「マルチンよ、明日私は、あなたの所へ行くよ」
 あ~この声は神様の声かもしれないと感じたマルチンは、次の日、早くに起きて、神様を迎えるために、やかんのお湯を沸かして、部屋を掃除して、いつ来られても大丈夫のように準備するのです。
 けれどその日一日で、やって来たのは、外で雪かきをしていたお爺さん、寒かろうと中へ入れてお茶を差し上げた。それから幼い赤ちゃんを抱いた女性が立っていたので、可哀そうになって食事を与え、コートをかけてあげた。夕方にはリンゴ泥棒の少年が逃げて来たので、その代金を追いかけてきたおばさんに支払ったりしていたら、一日が終わってしまったというのです。
 マルチンはがっかりして寝る準備をしていたら、また声が聞こえて来ました。「今日は、本当にありがとう、わたしを良くもてなしてくれた」と言うではありませんか。雪かきしていたおじいさんも、寒さに震えていた親子も、リンゴを盗んだ少年も皆、あれは私だったんだよと言われるという話です。

 皆さん、神様はいつも、私たちに語りかけておられます。けれど、それが中々私たちには分からない事があるのです。それでもなお、私たちに語りかけて下さいます。そして、時が与えられて、あ~そうだったのか、あの事も、この事も、全てを越えて、神様、あなたがいつも共にいて下さったんですねと突然のように分かることもあるのです。ジャスト・ミートする瞬間が与えられる時があるのだと思います。

 勿論、それが何時なのか私たちにわかりません。でも、あらゆる方法を通して、神様は私たちに語りかけて下さっておられる。だから、私たちはどんな時も、どんな状況にあっても、そのことが絶望ではなく、希望へと続く出来事であると信じることができますし、この事が起こったのは、神様がどんなチャンスを私に備えて下さっているのかと、思いつつ、どんな感動を私に用意して下さっているのかと信じながら、しっかりと対応していくことが出来るのです。

お祈りしましょう。
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