日本キリスト教団 大塚平安教会 

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憐みの器として

2017-08-02 11:01:29 | 礼拝説教
 【ローマの信徒への手紙9章19~28節】


ローマの信徒への手紙の9章19節から読んで頂きましたが、この箇所は私達人間のことを器であると表現しています。ローマの信徒への手紙は使徒パウロが記したと言われますが人を器として表現する、少し詩的な感じがしますし、良い表現の仕方だと思います。

 ことわざでも器と用いて人を表すことわざがあります。「人は病の器」という言葉があります。そのままの意味でしょうが、複雑な人の体ですから、色々なところに病気が起こる、そんな意味だと思われます。「器用貧乏」ということわざもありますが、一番知られていることわざは「大器晩成」ではないでしょうか。
 
 6月に私たちの教会で、キリスト教独立学園の校長先生をしておられた安積力也先生をお招きしました。お招き出来て良かったなと思っておりますが、講演会が終わって、一階の集会室で、お茶を飲んでいた時に、長男のSが昨年、学校に提出した作品を安積先生に見せていました。Sが夜も寝ないで頑張った作品でしたから、是非、安積先生に見せたいという思いがあったのだと思います。それを見ながら、安積先生が私に話しかけるのです。「いや~、これを見たかった。」そしてその後、一度だけでなく、何度も話されるのです。「S君は大器晩成だからね」。「S君は大器晩成だからね」これは褒めているのかどうか、親としてはね、もう今でも十分頑張っていると思っているのですが、大器晩成だからと言われると、まだまだこれからだな、と言っているのか、それとも、高校生の時よりも成長したということなのか、どっちなのか。今でも良く分かりません。
 でも、まあきっと褒めて下さっていたのだろうと勝手に解釈して、感謝しておりますが、

 それでは、聖書は私達人間のことを器であると表現しながら、どんな器として説明しているのかというと、一つ目は9章22節のみ言葉です。「神のその怒りを示し、その力をしらせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになって者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、」とありますように、一つ目は、私たちのことを「怒りの器」であったと言うのです。

 ここでパウロは、神さまは焼き物師のような方で、主なる神が、焼き物師が粘土から、大切な作品の一つ一つを造り出すようにして、私たちを神の作品として造り出して下さっていると記していますが、その作品として造られた私たちは、果たしてどんな器であるのか。また、Sの話で恐縮ですけれど、一年前か、二年前に、学校の授業で、何か陶芸のような授業を取ったようで、ある日、自分で焼いた器を四個、五個と持って帰って来たことがありました。どれも、熱心に作ったものだと思いますけれど、気に入っているもの、あまりそうでもないものがあったようです。気に入ったものは今でも菊池家の食卓の中で綺麗に盛り付けされて登場しておりますが、あまり気に入らなかったものは、今は猫の餌の皿として用いております。今思うと、Sとしては、猫の餌の入れ物か、と複雑な思いかもしれないなと思いますが、でも、まあ猫は喜んでいるかもしれません。

 同じ器であっても、その用い方によっては重宝がられ、用い方によってはそうでもなく扱われる。心を込めて作った者からみるならば、やっぱり、どの器も、心を込めて作ったわけですから、どれもあって良かったな、上手く用いられて良かったなと思われたいと思うのではないでしょうか。ましてや、主なる神が私たち一人ひとりを作って下さった、本当に大切な宝として器として、こしらえて下さった、でも、どうも、その神様の思いから離れて人は「怒りの器」として生きていたのだとことではないでしょうか。

「怒りの器」とはどういうことか、一言で言えば、自分を上手に生きていないということかもしれません。テサロニケの信徒への手紙5章16節に「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」とあります。多くの方がこの御言葉に励まされるなと感じられると思いますが、怒りの器とは、どうも生きていて感謝が少ないということではないでしょうか。
 感謝が少ないとどうも感動が少ないということのようです。年を取ると、感動することが少なくなってくるとも言われます。本当はそんなことは無いと思いますけれど、一面においては当たっているかもしれません。私も含めて例えば子どもの頃のヒーロー映画などを見ては感動したようにも思います。私もウルトラマンを見ては、ウルトラマン負けるなと必死に応援しましたし、純粋にウルトラマンのようになりたいと思ったものです。でも、段々年を取ってくると物事を客観的に見ることもできるようになって、あのウルトラマンの中に入っている人は暑くて大変だろうなと思うと感動もなにも無くなったりするかもしれません。あるいは、慣れということもあります。
 
 先週の日曜日は午後から鎌倉恩寵教会で、教会の出身教職の渡辺誉一先生の牧師就任式に出席して参りました。教会の皆さんの大勢で駆けつけましてお祝いの中に一緒にいて下さいました。やっぱり就任式というのは、感動します。牧師もこれからだと言う思いで、心を新たにするわけですし、教会の皆さんも緊張を持って臨まれたことでありましょう。 
 ただ、一年、二年、三年と年月が流れてきますと、慣れて来る、菊池先生の説教も、大体こんなものだと分かって来る、牧師もまた教会に対する新鮮さが無くなってきますと、一面では慣れて来てね、より良くなるということもありますが、でも慣れて来るとどうしても感動が減るのではないかなと思います。
 ですから、やっぱり、この今日のこの礼拝も、いつものような礼拝ということではなく、今日の、この礼拝は後にも先にも今日、この時にしかないのだからと感動を持って礼拝に出席する、そうすると感謝も増え、喜びも増し、力与えられるものですが、どうでしょうか、皆さん、感謝する思い、感動する気持ち、それぞれ私たちの人生の一人ひとり違った器として生き、生かされているその器に感謝、感動が沢山あるなぁと思われている方は本当に幸いだと思います。

 けれど、最近は感謝もなければ、感動もないと思っているおられる方がいるとするならば、もしかしたら「怒りの器」となっているかもしれません。怒りの器とは、人を見て叱るとか、あの人が気に入らないとか、怒ってばっかりいるというよりも、何よりも、自分を生きていないということです。そして、その究極は、何かという、神様との関係にこそあるのだと思います。神様との関係が上手くいっていない、切れているとどうなるのかというと、何よりも人との関係が気になって仕方がないのです。
 
 あの人の、あの一言で傷つきました。教会なのに、ああいう言い方はないよね~。人の言葉で傷つき、また、自分がそのように傷つけている側でもあることには気が付かないことも本当にしばしばです。人と人との関係で、人は傷つき、また傷つけてしまうのです。
 
 だから、何が大切なのかと言うと、神様としっかりと繋がることです。主なる神は、私たちを、この私を、あなたは本当に、私が大切だと思う、必要だと思う、あなたの為なら、自分の命さえ惜しくないと言って下さる方がおられる、人は私のことをなんだ、かんだと言うかもしれません。人としてなってないよね~、とか、それでもクリスチャンですか、とか、それでもあなた牧師ですか、とか、本当に人は色々といって来るのです。その時に、神様に繋がっているか、繋がっていないかで、怒りの器となるのか、憐みの器となるのかが決まって来るのではないでしょうか。

 聖書はこう語りました。「神はその怒りをしまし、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それは、憐みの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。神はわたしたちを憐みの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召しだして下さいました。」

 主なる神は、私たちを「怒りの器」としてではなく、「憐みの器」として召しだして下さいました。私たちの新しい教会が建てられて丸2年になりました。この2年の間、以前と違っているかなと思うのは、皆さんもお気づきだと思いますが、やっぱり新来会者が少しずつですけれど、増えて来ているように思います。勿論、一回だけの方、二回だけの方もおられますけれど、少しずつ増えて来ているように思うのです。でも、それはどういうことかというと実に色々な方が来られるということです。
 色々な方が見えられますけれど、私の経験上、これまでわずか20年の牧師生活ですが、これまで、新しく来られた方で、「先生、私は聖書を読んで、神様を知って、本当に救われました。ですから、つきましては、献金を持参してやって参りました。これが月定献金で、これが感謝献金です。」というような方はまず、ありません。

 むしろ、本当に色々な方が来られる。ある時には皆さんには特に話しませんでしたが、先月まで刑務所に入っていましたという方が来られた事もありました。何したのと聞くのも怖かったので聞きませんでしたが、その方が後から電話を下さって、本当に来て良かったと話して下さった時には私も大いに励まされました。やっぱり教会はどんな方でもおいで下さいと言うのが良いのだろうと私は思います。その方が何をしているのか、どう生きているのかが大事なことではなくて、来られる方はそれぞれですからね。だから、大事なことは、私たちがどう生きているのか、どんな歩みを歩んでいるのかがとても大切なのだろうと思うのです。

 勿論、私たちのそれぞれです。学生もいれば、就職して働きだした方もおられますし、独身の方、結婚された方、お子さんがおられる方、お孫さんがおられる方、家族で生活をされている方、おひとりで生活されている方、でも、その状態、その形はそれぞれでいいのです。形はそれぞれで良いのですが、大切なことはその与えられている場所で、与えられている環境でその場所で、そして最終的には、神様としっかりと繋がって、神様と交わり、神様のみ言葉を読み、神様を感じ、神様に祈り、神様に語り掛けながら、強い絆で神様との関係を繋がっていると、学生であろうと、仕事をしていようと、独身であろうと、家族がいるとしても、あるいは病気であっとしても、その状態が問題ではなく、形ではないのです。

 詩編23編に「たとえ死の陰の谷を歩むとしても、わたしは災いを恐れない。あなたが私と共にいて下さる」とありますように、私たちが、この自分に与えられた命に感謝して、感動して、良かったなぁ。私はこの教会で良かったなぁ、この仲間で良かったなぁ、この家族で良かったなぁ、この妻で、この夫で、この子どもで良かったなぁと思って生きておられるなら、一回、二回来られるのは、建物の影響が大きいでしょう。でも、三回、四回と来られるのなら、建物ではないと思います。神様との関係をどんなにか素敵に生きている方ばかりの教会だと感じるのだと思います。

 主なる神の憐みが無かったら、私たちはどこまでも「怒りの器」であったかもしれません。でも、主が私たちを特に愛して、特に手を差し伸べて下さって、憐みの器としてくださいました。あなたはあなたで良い、あなたはあなたのままで良い、そう言われれば、そう言われるほどに、心からそう言われているんだなぁと思うと、そこでよりハッキリ見えてくるのは、自分の器の小ささですよ。あるいは、神様と切れている、その状態を罪と言いますけれど、そのことが良く分かってくるのではないでしょうか。だから、パウロは、主イエスと出会って信仰を得て、段々、自分はなんだか神様に近づいているように感じるとは言いませんでした。

 むしろテモテの手紙の中でこう告白しています。「私は、その罪人の中で最たるものです。しかし、わたしが憐みを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。」

 パウロは自分が如何に罪人であったか、けれど、その私に憐みをかけて下さった神がおられる、忍耐して忍耐して、愛して下さった方がおられると告げているのです。私たちもまた、主なる神によって、神の忍耐によって、しっかりと「憐みの器」とされています。そのように生きなさいと示して下さっていることに感謝して、この一週間も共々に、歩んでまいりましょう。

お祈りします。

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