日本キリスト教団 大塚平安教会 

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幼子のように

2021-11-14 13:43:08 | 礼拝説教
【詩編131編1~13節】
【マタイによる福音書18章1~5節】


 11月のこの頃になりますと、あちらこちらから喪中はがきが届きます。親族の大切な方が亡くなったのでと、必ずしもキリスト教の習慣ではありませんけれど、日本の一つの決まり事のようになっています。
 
 先日、私の母教会で牧師をされている佐々木潤牧師からも喪中はがきが届きました。お父さんが亡くなられたとありました。お父さんは佐々木久慶先生と言いまして、キリスト教主義の学校先生を長くされ、その後牧師として秋田県の教会で奉仕されていました。私が岩手の教会におりました時に、教区の主事をしていたこともありまして、教区事務所にも時々顔を出してくださって大変良い関わりを持って下さっていました。

 私は久慶先生が大好きでした。どうしてかというと、久慶先生は特別なタラントがありました。お会いして一分もしないうちに、一瞬のうちに、長く付き合っていた友のように、古い友人と話しているかのような会話が進むのです。
 
 その雰囲気は、これまで経験したこともない、信じられないと思う程、暖かく、穏やかで、しかも笑いの絶えない時間であったことを思い出します。幾らか大袈裟かもしれませんが、天の国の側まで来ているような、そのような雰囲気を一体どうすれば自分もそうなれるのか、羨ましくも思い、しかし、心から尊敬する思いがずっとありました。今日の説教題を「幼子のように」と致しましたが、久慶先生はほんとうに幼子のような先生であった、改めて思わされました。

 説教において、しばしば信仰者は「幼子のように生きること」が告げられ、求められます。聖書の御言葉もそのように告げているように思います。

 そう言われる時の幼子の意味は「純真・無垢」というイメージで言われると思いますし、私達の信仰に求められるものも、そのような信仰でしょう。私が久慶先生を思う時、なんと純真で無垢な先生であるかと感じた訳ですし、そう思うと逆に自分がどれほど純真でも、無垢でもないかとも思わされます。

 つい先日、我が家の夕食の時でした。何気ない会話の中で長男がふいにこんな話をしました。「神様が「本音の国」を作ったら、その国の人たちは何も話さない人たちになったんだって。」何かのゲームなのか小説なのか、あるいは自分で考えたのかもしれません。神様が人の姿を見られて、ウソばかりついている姿を見られて、がっかりして、本音だけで話す国を作られた、そしたら誰も会話しなくなったというのです。
 
 私はそれを聞きまして、「私も絶対話さないだろう」と言いましたら、家族中が大笑いとなりました。皆さんも本音の国に招待されるとしたらどうでしょうか。楽しく笑顔で本音を話せるでしょうか。そのようにして、私たちは日頃の生活において、幼子ではなく、大人としての付き合いをします。時には心の中とまったく逆の思いの言葉を話す時もあるでしょう。教会だけは違う、教会だけは本音で生きられるから楽だ、とも言えないのではないでしょうか。
 
 ある尊敬する牧師は、教会の中でさえも、日の当たる場所にいる人と、日陰にいる人がいることを忘れてはならないと教えておられます。その意味は深く、多くを思わされますが、でも、突き詰めてしまうとすれば、それ程に私達は罪人として罪に生きているということです。

 そして、私は、本当のところは、大人も子供もきっと同じだろうと思うのです。先ほど、詩編131編を読んでいただきました。僅か3節からなる短い詩編です。1節に「主よ、わたしの心は驕っていません。わたしの目は高くを見ていません。大きすぎることを わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません」とあります。
 この御言葉は謙遜に生きようとする詩編の作者の思いが記されていると感じます。続く2節「わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように 母の胸にいる幼子のようにします。」美しい詩編です。自分の魂は、母の胸に抱かれる幼子のように穏やかで、優しい呼吸をして、平安である様子を見て取ることができると思います。驕り高ぶる必要もなく、自然に謙遜にさせられるほどに幸いな時間だと言えるでしょう。
 
 この詩編を愛唱詩編にしているという方も多いと聞きます。主に信頼して安心している様子が見事に記されていると感じます。

 詩編に記される「幼子」という言葉、私達が用いる新共同訳聖書ではなく、口語訳聖書には「乳離れしたみどり子」と記されています。英語の聖書でも、そこに「乳離れした子」という表現で記されていました。
 「乳離れした子」とは何歳位なのか、色々と議論も出来そうな話題ですが、昔の話ですから恐らく2歳~3歳、あるいは4歳位かもしれません。
 
 この世に生まれて来た赤ちゃんは、一歳ぐらいまでは殆ど何も出来ません。何も出来ませんけれど、この時期は時に母親がずっとそばに寄り添い、まさに幼子のために献身的に世話をいたします。専門的にはこのような時に、一身に世話を受けて、愛された子どもは、この世は信頼するに値するという価値観を得ると言われます。そうかもしれません。世話してもらい成長し、寝返りを打ち、お座りをして、ハイハイの後は、つかまり立ちして、歩き出す。それから少しずつ言葉を話し出すようになる。
 そのような幼子の成長を見ながら、両親、家族は一つ一つの成長の姿に喜び、その喜びを感じて、自分も喜びながら育つのです。
 
 そしてその次に来る、生まれて初めての試練、それが乳離れだと言われます。

 これまで言葉で話すことなく、しかし全ての事柄が可能となり、自分では何もしなくとも、全てのことがなされてきたのに、初めて自分の思いが叶わない事態となるわけで、幼子にとっては大きな試練の時となります。
 この時期あたりから、幼子の心は不安が大きくなり、夜泣きをしたり、わがままが強くなったり、あるいは言葉で表現できませんから、心の不満を態度で示したりするそんな具合になっていくのかもしれません。

 そんな子どもに、何が大切なのか。言うまでも無く母親という存在です。乳離れしたばかりの子が、不安と不満を知るようになった子が、すべての不安を吸収し、心からの安心を得ることができる、それが母親の膝の上であり、母親腕に抱かれる時なのです。魂は平安を得て、沈黙し、全てをゆだね、心を取り戻し、安らかに眠ることができる。

 主イエスは「はっきり言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることは出来ない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」と教えられました。
 先ほど、子どもは純真・無垢のイメージだと申しましたが、必ずしも純真・無垢な姿だけではありません。子どもは子どもなりに、わがままですし、時として面倒くさいところもあります。もし、本音の国に子どもがいるとしたら、どれほど聞きたくない言葉を聞くだろうかとさえ思います。人は大人であろうと、子どもであろうと、同じように神の前に罪があるのです。

 けれど、子どものようにならなければ、それは、あたかも母親の胸に抱かれ、全てをゆだね、すべてが受け入れられている中で平安を見いだす子どものように、私達もまた、主なる神の御前に平安に生き、祝福を受け入れようとすることではないでしょうか。
 
 特に、私達がその平安に生きる場所として、毎週の週の始めの日である日曜日に礼拝が整えられています。この礼拝こそ、私達が主の腕に抱かれ、神の愛に包まれ、御翼の陰で休むことができる、人生の平安をこの礼拝でこそ味わいたいと思います。
 
 これから聖餐式が行われます。昨年の三月以来、コロナ禍の中で聖餐式を行うことが出来ませんでした。昨日、夕方から聖餐式の祭具を持ち出して、私一人で一生懸命に綺麗にしてみました。多くの方がやりますよって声をかけてくださいましたが、一人でやりたいと思いました。それは主の体としてのパンと主が流された血としての杯を、この一年半の間、自分はほったらかしだったんだなと思いとあまりにも悲しくなったからでありました。心を込めて神様に懺悔しながら綺麗にさせていただきました。

 コロナ禍の中で、聖餐式を執り行えなかった分、今、私たちは主イエスの、御自分の命として、血としての杯と、体としてのパンを弟子達の前に整えた時から、神の見えない恵みを見える恵みとして今に至るまで2000年に亘り途絶えることなく行われてきたことを思います。

 私達一人一人が神の御前に幼子のようになる、それは杯をいただきながら、パンをいただきながら、その一つ一つに主イエスの愛を感じとる心を持つことでもあります。これは、私の血、これは私の体と伝える方が、自分と共におられる確信を得る聖餐式としたいと心から願います。 

お祈りします。

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