日本キリスト教団 大塚平安教会  

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「あなたに従う道」

2019-10-08 09:56:17 | http://www.ohtsukaheian.jp/
【詩編25編1~5節】
【ペトロの手紙一 2章1~5節】

 今日の説教のタイトルを「あなたに従う道」といたしました。読んで頂いた詩編25編4節にこう記されています。「主よ、あなたの道をわたしに示し あなたに従う道を教えて下さい」この25編は「ダビデの詩」と記されてあります。イスラエルに最も繁栄をもたらし、多くの民から最も愛された王であったダビデ、私達の良く知るところであります。
 
 けれど、またダビデ王は一つの大きな罪を犯したことも知られています。
 ダビデが城にいた時の夕方、城の屋上で涼んでいた時に、近くにあった家の庭が目に入りました。一人の女性が水浴びをしている姿が見えて、大層美しかったとあります。ダビデは心が動き、その素性を調べさせた所、ヘト人ウリヤの妻、バト・シェバであると知るのです。
 人の妻であることを知りながら、ダビデは使いを出して、城に召し入れて床を共にしたというのです。その後、バトシ・シェバは子を宿し、慌てたダビデはウリヤの子であるように画策を施しますが、上手くいかず、困ったダビデは、逆にウリヤを戦場の最前線に送り込み、そこで戦死させ、その後自分の妻にした話しが記されています。聖書は国の王でさえ、その罪をも赤裸々に記すものだと思います。
 
 その後、勿論、その出来事は主なる神の知るところとなり、主はダビデのもとに預言者ナタンを送り、ナタンは神の厳しい言葉を告げるのです。「あなたに油を注いでイスラエルの王としたのはわたしである。不足があるなら、何であれ加えたであろう。なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。」ダビデはその言葉に恐れ戦き、自らの罪を悔いるのですが、結局、生まれて来た子どもは生まれて七日目に天に召されてしまいます。

 全ての物を手に入れたと思える王であろうと、これで良しとは満足できず、自らの欲望に支配され、その欲に負けてしまう。人間の欲望は果てしないと思います。

 それ故に、「主よ、あなたの道をわたしに示し あなたに従う道をわたしに教えて下さい。」と願うこの詩の祈りの御言葉は、ダビデにとってのみならず、私達にとっても実に切実な願いではないでしょうか。けれど、それでは一体、「あなたに従う道と」とはどんな道であるのか、どのような歩みが主に喜ばれる歩みなのでしょうか。

 その答えの一つとして、私は、新約聖書ペトロの手紙の2章に記されている御言葉に目が留まりました。2章の1節から読みますとこうあります。「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。」

 ここで、悪意とは何か、偽りとは何か、具体的に説明しなくても良いと思います。けれど、ここに記されている言葉は、一つの共通点がありまして、全て他者に対しての言葉です。他者に対して、自分がどう対しているのか、どう接しているのか、それが問われているのだと思います。
ペトロの手紙、今日は2章を読んで頂きましたが、それに先んずる1章を読みましても、そこに記されている事柄は、主イエス・キリストの復活によって、私達が新しくされたこと、そこに希望があること、更に主の再臨のその時まで、無知であったころの欲望に引きずられることなく、兄弟愛をもって生きて行こうと記されてあります。

 だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口を捨てることだと言うのです。つまりは人の悪口を言わないことだというのです。

 今、巷で大人気となっている、ヨシタケシンスケという絵本作家がおります。今年、小学生12万人が選んだ子供の本、上位10冊の中の4冊がヨシタケシンスケの本であったそうです。幼稚園でも何冊かあるかと思います。先日、幼稚園の職員室に行きましたら、園長の机の上に、ヨシタケシンスケが書いたエッセーがありまして、面白そうだと思って、ペラペラと読んでみたのです。2,3ページ位しか読みませんでしたが、そこに記されてあったのは、「人と人とが合って話をする時、その場にいない人のうわさ話をして盛り上がる、また、その人が別の人と合って話をするとき、その場にいない人のうわさ話をして盛り上がる、いつも、その場にいない人のうわさ話をして盛り上がる、それが大人の社会だ」こんな言葉がありました。なるほどな~、よく分かるなと思いました。

 自分には心当たりがないなぁと思われる人は幸いです。その場にいない人の話をして、盛り上がる。でも、その盛り上がり方は、その人を褒めて、いや~立派な人だとは中々なりません。逆に、あの人変わった人だよね~、たいがい悪口の方向に向かうのです。そうすると話している同志は気持ちが良いものです。

 なんで気持ちが良いのか、その人を評価しているからです。評価するということは、自分はその人を評価するに値する人間だと思っているからです。評価されている人よりも、自分の方が勝っていると意識してか、無意識のうちにか、でも、そう思いながら話をするので気持ちが良いのです。私には分かっているけれど、あの人はまだ分かってないねぇ、そう思うと気持ちが良いではないですか?

 けれど、そこに聖書が求める兄弟愛がありますか?信仰者が求められる生き方がありますか?だから、「あなたに従う道」それは、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口を捨てること、が求められているのだと思います。

 主イエスも「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と教えられました。でも私達は中々自分を捨てられるものではありません。私達は自分の欲望もあるし、自分の願いもあるし、それらを捨てることはとても出来そうにないと思う。

 先週の礼拝では、独り子イサクを献げた、アブラハムの話をいたしましたが、とても自分はそれほどまでに自分を捨てて、神に従ったアブラハムのようには生きられないと思いますし、先ほどのダビデの話も、ダビデはバカなことをしたと思いますけれど、でも、ダビデの姿は私達の姿でもあるのです。

 イヤイヤ、私はまさかダビデのような不倫とか、人の妻を、人の夫を奪うようなそんなとんでもない事は致しません。勿論、その通りでしょう。
 しかし、ダビデは神に対して大きな罪を犯しました。私達はどうでしょうか。

 先月、9月23日の土曜日は、大塚平安教会で湘北地区大会を行いました。講師にバイブル&アートミニストリー代表の町田俊之先生をお招きして、キリスト教絵画の世界を教えていただいただけでもなく、自分達が直接クレヨンを使って、自分の心が一体どうなっているのか、絵を描くことによって分かるという、そういう作業をしまして、参加された方は誰もが良かったと思って下さったと思います。

 町田先生が話される中で、人の罪について教えて下さいました。罪とはギリシャ語で、ハマルティアと言いますと教えて下さった。それで、この覚え方があって、「罪にハマルティア」と覚えたら忘れませんと教えて下さった。(笑)私は岩手県出身ですから、方言でいえば、「罪にハマルってあ」(笑)。皆さんちゃんと覚えて帰られたと思います。

 「罪」とは的を外すという意味があります。とも教えて下さった。バト・シェバを愛したダビデは「神に従う道」から外れ、大きく的を外してしまったと言えるでありましょう。

 私達の人生においても、的を外すことがある。それはどういう時かというと、主なる神から離れて、偶像に影響されている時です。偶像というと、直ぐに仏像とか、岩に掘られた神様とか、仏様とか連想してしまいますけれど、それだけではなく、むしろ神様以外のもの、私達が生きている社会とか、家庭環境とか、あるいは学校から教えられる教育とか、それによって人は大きく影響を受けながら、生きているのが私達だとは思いますが、それによって人を愛することを知り、人に良い影響を与え、また与えられ、皆が平和を求め、健やかに生きていますと言えるのなら良いのですが、現実はそうではないと思います。


 大きなことを言えば、私達の社会環境や政治、教育によって、私達はいつの間にか、私達の回りには敵国のような国があり、味方のような国があると感じていますし、民主主義社会の方が正しく、そうでない国は正しくないといったようにも感じています。そんなに大きなことを話さなくとも、例えば家庭の事で言えば、その家の家柄とか家風とか、その家、その家の習慣、風習とうものがあって、いつの間にかそんな考え方に影響を受けているところもありますすし、その人自身の生まれ持った性格もあるでしょう。

 それらの様々な影響のもとで、私達は生きていて、そして自分の心の中で、こういう自分でなければならない、こんな自分であるべきという思いが誰の心にもあるわけです。その為に人は努力しますし、人として良い人生を生きたいと誰もが願うのだと思います。

 けれど、願った通りには中々生きられない、こうあるべきと思っているようには生きられない。こうあるべきなのに、どうしてそうならないのか、それは社会のせいだ、家族のせいだ、親のせいだ、妻のせいだ、夫のせいだ、あの人がそう言ったから、あの人が原因だとなってはいないでしょうか。もしそうなっているとしたならば、それが、あなたが捕らえられているところの偶像です。

 その偶像から強く影響を受けて、知らず知らずのうちに、その影響を与えている人、与えている考え方、与えている力、に従う道を歩んでいるのです。
 
 あるいは、影響を与えている者が自分自身であると言うことも出来ます。自分はこうありたい、このようでなければならない、でもそうなっていない自分に、自分で腹を立てている。自分はもっと出来るはず、自分はもっと立派なはず、自分はもっと、こうであるはずなのに、そうなっていない自分を自分が許せないとしたら、自分が自分を偶像化しているのではないですか?

 だから、人からの影響でも、自分自身からの影響でも、それが自分に強く影響し続け、自分の人生がとても生きにくい、生きづらいとするならば、それらのものはみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めることだ、と聖書は記します。

 誰が、何を、どう言おうとも、「主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み わたしの神よ、あなたに依り頼みます。」と詩編の作者は記しました。「主よ、あなたの道をわたしに示し あなたに従う道を教えてください」と願いました。
 他の何ものにも向かわず、様々な偶像から影響を受けるとしても、決して的を外さず、この方の愛の中にこそ向かって生きる、そう決心して、私達は洗礼を受けました。そして、このように信仰生活、礼拝生活を歩み続けています。

 この道を歩み続けることが出来るように、他の誰からでもなく、主イエス・キリストの福音によって、主イエス・キリストが示して下さった神の恵みをしっかりと受け止めて、私達は、何ものからでもなく、主イエス・キリストに従って歩み続けて参りましょう。お祈りいたします。


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