日本キリスト教団 大塚平安教会 

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イエスを信じるためには

2022-10-02 12:27:30 | 礼拝説教
【ヨハネによる福音書5章41~47節】

 ヨハネによる福音書5章の最後の箇所を読んでいただきました。場面は主イエスを取り囲んで、ユダヤ人、ファリサイ派の人々が問い詰めている場面です。何を問い詰めているかというと、労働してはならない安息日に、あなたは労働した、なぜ安息日違反をしたのか、と問い詰めているわけです。
 
 安息日違反をするとどうなるのか、旧約聖書民数記15章には、一人の男が安息日に薪を拾い集めているところを見られて、見つけられた人はモーセとアロンの所に連れて来られるのです。この時モーセとアロンはどう対応すれば良いのか戸惑ったのですが、主なる神は「その男は必ず死刑に処せられる。石で打ち殺さなければならない」と伝え、石打の刑となったという話があります。
 この話は昔の話しだからと言うわけではありません。イエス様の時代も安息日の決まり事を破るとしたら命にかかわるといった事態も起こり得たでしょう。
 
 現代のイスラエルにおいても安息日は厳格に守られているようです。流石に命に関わるような場合は命を救うことが最優先となっているようですが、命に関わらない医療行為は制限付きで認められるとか、安息日は病人に薬を出すことも出来ないようです。それは医療行為であり、労働だからと言われます。非常に厳格です。
 今年の3月、イスラエルのベネット首相が、ロシアがウクライナを攻撃し始めてから数週間経った時に、ジェット機を飛ばしてプーチン氏に会いに行ったという出来事がありました。ロシアとウクライナの仲介の為の行動であったそうですけれど、何よりも人々が驚いた理由は、その日が安息日だったというのです。この行動は命を救うための行動であるという認識があったのだろうと言われているそうです。現代でも非常に厳格に守られていることが分かります。

 改めて元々主イエスがどのような安息日違反をされたのか振り返りますと、場面はエルサレムから少し離れたベトザタの池と呼ばれる場所があり、池の周りには多くの病人が集まっていました。池の水が動いた時に、最初に水の中に入った人は癒されるとい言われていたからです。そのようにして本当に癒されたかどうかは定かではありません。
 けれど、言い伝えでも、望みを置くしかない、辛い病を抱える人々が集まっていたのでしょう。そこに38年の間、病を抱え自由に動くことも出来ない男がいて、主イエスはその人に目を留められて「起き上がりなさい。床を担いで歩きない」と言われたわけでありました。
 すると、男は床を担いで歩き出しました。この時、38年間歩けないでいたわけですから、どれほどの喜びであったかと思います。
 
 床を担いで歩いている人を見た、ユダヤ人、ファリサイ派の人々が男に話しました。「今日は安息日だ、だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」男は、そうしろと言った人がいるからと言い訳をして、そう言った人は誰だという展開から、主イエスの周りをユダヤ人たちが取り囲むことになるのですが、ここで良く見てみると、主イエスはベトザタの池で、男に言葉を発しただけです。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」男はこの言葉を信じて起き上がろうとしました。すると起き上がれたのです。喜びに満ちて、これまで寝ていた床を担いで歩き出したのです。
 主イエスは、言葉で語り掛けただけですから、少なくとも違反となる医療行為をしていません。違反したのは男であって、けれど歩くことは問題ありません。
 
 問題は床なのです。床を担いだのです。床を担がなければ違反にはなりません。でも、担いで、そして歩いたのです。物を移動している労働と見なされて、注意を受けたわけでありました。
 主イエスが安息日違反をしたとすれば、「床を担いで歩きなさい」と言った言葉だけになります。そう言ったのが良くないとユダヤ人たちが主イエスのところへやって来て、「なぜ、そう言ったのか」と詰め寄ったのでしょう。

 主は「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」と話されました。また、この言葉が火に油のように、ユダヤ人の人々の心をいら立たせたわけですが、主イエスは彼らに対して話し続け、御自分がなぜ主なる神を「わたしの父」と呼ぶことが出来るのか、なぜそのような権威があるのか、御自分について誰が証ししておられるのかを割合に長く話をされた場面へと続くことになります。

 その最後の箇所が先ほど読まれたわけですが、ここで主は何を話されているのかというと、42節「あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。」とあります。主イエスを取り囲んだ彼らは、ユダヤ人です。ですから自分達は生まれながらに神様に愛されている民族であるという自負心はあったでしょう。更に、恐らく主イエスを取り込んでいるのはファリサイと呼ばれる人々です。

 ルカによる福音書18章9節からの箇所で、主イエスは「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえを話されました。その時にファリサイ派の祈りはこうでした。
 「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」
ファリサイ派の祈りは、自分が神様に対して、いかに真剣に祈り、いかに律法を守り、いかに清貧な生活を続け、十分の一献金も捧げられる。そのような自分であることに感謝する祈りですから、一見見事な祈りだと思われますけれど、主イエスはファリサイ派の後ろで、祈った徴税人の祈りの方が、神様から義とされたと教えられました。徴税人の祈りは「神様、罪人のわたしを憐れんでください」という祈りでした。

 何がどう違うのか、主イエスは御自分を取り囲んだ人々に言いました。「あなたたちの内には神のへの愛がない。」神への愛が無いとは「あなたがたには信仰がない」と告げているようなものですよ。あなたがたに欠けているものがあると主は伝えているのです。何が欠けているのか。

 信仰を持つ者にとって大切な事、それは「私は罪人の一人です」という思いではないでしょうか。私たちは信仰を持ってこの教会に集っています。主なる神を信じてこの場に集まり礼拝を献げています。神の愛を知っている者としての歩みを生きていると言っても良いでしょう。
 それならあなたの信仰とはどういうものかと問われるとしたらどうでしょうか。中々明確に答えることが出来ないかもしれません。でも、私はこう思います。信仰者とは「神の愛を受けるに値しない者が、受けていると知っている」人である。私たちは神の愛を受けるに値しない者です。神様を相手にして私たちは何を誇りますか。私は奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではありません。と誇りますか。
週に二度断食していますと誇りますか、全収入の十分の一を献金していますと誇りますか。誰も誇れませんよ。

 今日は10月最初の礼拝ですが、10月の末は宗教改革記念日となります。宗教改革の中心的な人物はドイツのルターという人です。ルターは当時の教会の教えに疑問を持ち、悩み、悩んだ末に「ただ信仰のみ」という信仰へと導かれました。
自分に何が出来るとか、何が出来ないとかではなく、圧倒的な神の恵み、この受けるに値しない自分でさえも神の愛が与えられている、だから「ただ信仰のみ」だと唱え、多くの人々の心が揺さぶられ、教会が大きく変化する契機となりました。

 私たちは神の前にあって罪人の一人でしかありません。でも、今主イエスを取り囲んでいるユダヤ人、ファリサイ派の人々よ、「あなたがたに神への愛がないことを私は知っている」と主イエスは話しました。「わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。」と告げました。

 なぜ受け入れないのか。自分達こそ神様について良く知っていると思っていたからです。自分達は生まれながらのユダヤ人であり、神の民としての割礼を受け、神の律法を学び、律法を教え人々を導いている、律法を守り、不正を犯さず、徴税人のようでもなく、断食している。自分達こそが神様に近い場所にいると思い、誇りとしていたのではないでしょうか。そして、その自分達の目に叶わない者こそが罪人であり、罰するに値すると思っていたことでしょう。

 彼らの価値観からすれば、イエスという男は、罰するに値するとなるのです。それはあたかも自分達が神のようになっているかのような姿でしょう。

 ロシアのプーチン氏は、先日、暴力によって略奪した土地、地域を住民投票によってロシアの領土とすると宣言しました。私はロシア語がわかりませんが、テロップに流れていたのは、「領土とすることを認める」と話したようです。「認める」とは、最終的には認めるのか、認めないのかの判断は自分にあるということでしょう。恐ろしい人だと思います。時代が移り変わるとしても、どの時代にあっても、自らを神のように振舞う人間が現れる時、この世に大きな罪と悲しみをもたらすのではないでしょうか。

 「罪とは神と人との間に立ちはだかる断熱材のようなもの」と教えて下さった方がいました。断熱材は外と内との間にあって、私たちが快適に過ごせるようにと考えらえた素材でしょう。でも、神様と私たちの間に立ちはだかるものがあってはなりません。私たちの誇りや、プライドが立ちはだかってはなりません。私たちが神のようになってはなりません。私たちと神様との間に立ちはだかる様々な物、一言でいえば罪を取り除くために、主イエスはこの地上に誕生されました。そして十字架の死によって私たちの罪を赦し、神の民としてくださいました。そのようにして値無しの私たちを価値ありとしてくださいました。この方を見失わないように私たちはこの10月も一緒に生きてまいりましょう。

 今日は、これから転入会式を執り行います。一人の姉妹が私たちの信仰の群れに加わってくださる。大きな喜びです。大塚平安教会が主の御旨に叶う教会として益々祝福されますように願い、また主の前に謙遜に、また感謝して過ごしていきましょう。 
 お祈りします。

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