日本キリスト教団 大塚平安教会  

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神の作品

2018-07-04 09:37:01 | 礼拝説教
【創世記2章1~9節】
【エフェソの信徒への手紙2章7~10節】


 金曜日に教会で一つの集まりがありまして、家内との関わりの中で、福地さんと言う方が講演会を開催されました。「子どもの命を守りたい」というタイトルで、現代の環境問題についてのお話をして下さいました。30名近くの皆さんが集まったと聞いています。私も後半少しだけでしたが、お話を伺いました。
 そこに一人の若いお母さんが来ておりまして、来年幼稚園に入る年齢のお子さんを連れて来ておられました。そのお母さんは深く帽子をかぶっていたのですが、どうしてかというと、今、ガンとの闘いの中にある方でした。病気について深い内容はよくわかりませんけれど、手術をされて、治療のために、今実家に戻って来ていて、それでドレーパー記念幼稚園が月曜日に行っている就園前の親子に園庭を開放している「たまごぐみ」に通いながら、金曜日の講演会にも出席されたのだと思われます。

 家内の話ですと、実家はこちらでも、ご自宅は相模原なので幼稚園に入園するのは難しいかもと言っていたそうですが、この幼稚園はとても良いと言って下さっていたと聞きました。
 ドレーパー記念幼稚園はキリスト教の教えを土台とした幼稚園として、また、その教育目標には「信仰と希望と愛」を置いております。

 幼稚園のホームページにはこうありました。

「私たちを創造された方を知る「信仰」、どんな時も、諦めず、希望を持って歩める「自信」、隣人に暖かな眼差しを向けることが出来る豊かな「愛」を育てたいと願い、ドレーパー記念幼稚園は歩んで参りました。これからも力強く歩みつづけて参ります。子ども達の人生の確かな土台作りを、ドレーパー記念幼稚園で御一緒出来たらと心から願っています。」

 キリスト教を土台とするという考え方の中に、「自由保育」という考え方があります。子どもたち自身がやりたいと思うことが沢山やれる。子どもにとっては大きな喜びであろうと思うのです。

 ですから幼稚園まではとっても楽しい。けれど問題は園を卒業して小学校に入ると特に公立の小学校などは、そこはキリスト教主義の考え方ではありませんし、考え方としては一人の教師に30人、35人の子ども達となって、みんな自由でいいんだよとは教えられない。現代の学校の先生は中々、優秀な先生方ばかりだと言われますから、先生方の努力もあり、また、子ども達も友達が出来たり、新しいチャレンジが始まったりしながら順調な成長を遂げていくのだと思いますが、しかし、ここで言う順調な成長とは、みんなと同じように動き、みんなと同じように考え、みんなと同じように話すような子ども達であればあるほどに、順調な成長と言われるのではないでしょうか。

 なにもここで私は教育の問題について話すつもりではありませんけれど、例えるならば学校教育とは、勿論色々な面がありますが、子どもの製品化を目指しているのではないかと言ったら言い過ぎでしょうか。製品の特長は、どれも皆同じという考え方です。一つの製品にばらつきが見られたら、それらは不良品と呼ばれ、製品に対する信頼を失います。ですから大切なことは皆が同じであることです。皆が同じように行動する、同じように理解する、それが良いとされる。それは例えるなら、教育という形の隠れた未来の兵隊を作っているとも言えると思います。

 少し難しい言葉でヒドゥン・カリキュラムという言葉ありまして、「隠された学習」とでも訳するのでしょうか。

 例えば先日、大分話題になりました日大のアメフト部の学生があからさまな、誰にでもわかる反則をした。なぜ反則をしたのか、そうするように促されていたと学生は言っていますし、監督、コーチはそんなことはないと話していましたが、たとえ明確には言わないとしても、もうそうする以外には道が無いように思い込ませてしまう。監督、コーチには逆らえないと思い込んでしまう。つまり、立派な兵隊になっていくということです。けれど、あの出来事は、私たちはそのようにして画一化されていけばいくほど、製品化されればされるほど、自分自身を失い、物化されていくことの恐ろしさを明確に示していると思います。

 そして、自分達が生き生きと生きられなくなり、自分が自分であってはならないと言われれば言われるほどに、学校に行けなくなったり、引きこもったり、精神的に辛くなっていく、そういう子供や、若者が増えているのが現代ではないでしょうか。

 けれど、そんな学校でも生き生き、伸び伸びと生きる子どもたちも勿論沢山いるわけです。どんな子供たちがそうかというと、基本的に、勉強が良くできる、運動が良くできる、人間関係も上手であったり、部活でも活躍していたり、そういう子供たちには高い評価が与えられます。子ども達も自信があるでしょうし、少しも悪いことではありません。けれど、あえて言うとすれば、その自信が、人と人との比較の中で、比べられる中で付けられた自信だとしたら、他人より上回っている状態のときは自信を持つのですが、いつのまにか下回っていることを知ったら急に自信を失い、力を失い、気力を失っていくとしたら、どこに問題があるのかと言えば、そういう子どもたちは製品ではないかもしれませんが、商品として生きている、と言えるかもしれません。

 商品の特徴は、様々な製品の中にあっても特別に価値があるということです。

 今年一番のお勧めの商品はこちらです。と店のポスターやテレビのコマーシャルでやっているように、これこそ価値がある、他よりも優れている、そういう商品化されていく人間の問題は、その時はよくても、それは次の商品が販売されるまでの間だということです。

 私たちは、良い学校、良い大学、良い会社、良い結婚、良い家庭、良い老後を思いますし、願います。誰でも願います。先日、前任の鈴木伸治先生が記していた文章を読んでいましたら、今のお住まいのご自宅の土地を購入する経緯や、立て直して新築の家にすることにした経緯などが記された文書がありました。仕事を辞めた牧師がまず困るのは住まいのことで、それが困らないことになったのは本当に幸いです、とありました。

 そんな文章を読みながら、自分はどうなるかなと不安になったわけですが、何も紹介するほどでもないかもしれない、何気ない文章かもしれませんけれど、私たちはいつの間にかやっぱり、あの人に価値があるのか、無いのかで見ているのだと思うのです。そして次に、自分にはそういう価値があるのか、無いのかと見るのです。子供の頃はまだ良いとして、働き盛りの頃はバリバリと働くので良いとして、けれど、だんだんと年を取り、定年を迎えたり、仕事を辞めるときがやって来たりして、そして、あ~もう自分には価値が無くなってしまったと思ってしまう。

 また人からもそう見られているとしたら、なんと寂しいことではないでしょうか。だから私たちは製品人生になってもいけませんけれど、そんなふうな商品人生になってもならないと思います。

 今日の説教題は「神の作品」です。エフェソの信徒への手紙の2章10節にこうあります。「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。」「わたしたちは神に造られた」とあります。
 
 神に造られた者とは、製品でもない、商品でもない、この世界に一つしかない、誰とも代えられない。あたかも芸術家が一つの作品を作り出していくように、大切な作品、しかも神の作品だと聖書は記すのです。

 だから、あ~自分は、製品でもないし、商品でもない、この世にただ一人の神の作品として生きて行けばいいんだと思うわけですが、けれど、同時にこれまで培ってきた、製品としての自分、商品としての自分と別れるというのも簡単ではありません。

 ある実験があって、コップの中にノミを5匹入れるのだそうです。でも、ノミですからね、ノミの跳躍力は自分の体の150倍だそうです。体調2ミリとすれば30㎝は飛ぶことになります。コップなどはすぐに飛び越えてしまいます。けれど、そのコップに紙とかラップで蓋をしてしまうと、何回飛んでも飛び越えられない。飛んでも飛び越えられないとわかると、それ以降はもう飛ぼうとしなくなるというのです。蓋を取っても飛ばないのだそうです。自分で自分の限界を決めてしまう。ですから、もはやコップからは出られなくなってしまう。ノミが例えで申し訳ありませんが、自分の人生はこんなものだと思う、あるいは自分はこういう人間だと自分で決めつけている方がとても多いと思います。そういう方は、一つの定まった思考回路になっていて、いつも同じところでグルグル回ってしまう、これが自分の人生と諦めてしまっている人案外多いのではないでしょうか。
 
 でも、この飛べなくなったノミがまた飛べるようにする方法があるそうです。どうするのか、そのコップの中に、新しいノミを一匹入れるのだそうです。そうすると、そのノミは軽々とコップを越えて飛んでいってしまう。それを見て、他のノミもまたやってみようと思うらしい。
 
 皆さん、このことが何を意味するのか、私たちは神の作品です。主なる神がいつも私たちと共にいて下さる。創世記の2章を読みましたが、私たちの命は神の息によって生きる者となったと記されています。
 
 昔の科学者は人間の体が全部で17の主成分で出来ていると考えました。中心的な成分は四つ、水素、酸素、炭素、窒素、この4つだけで殆ど99%になります。他にもカルシウム、鉄、塩素、硫黄、ナトリウム、リンと少しずつ必要な成分があって、しかもその全部が土の中に含まれる成分なのだそうです。ですから私たちはやっぱり土の塵で出来ているのです。けれど、昔の科学者ですから、この17の成分を足してみたら、どうしても100%にならなかったそうです。0.00何パーセントか足りない。ですから当時の科学者は、その残りは神の息ではないかと考えたというのです。勿論、現代科学では、そのわずかな成分は何かまで完全わかっていて100%になることでしょう。
 
 けれど、だから神の息は、私たちに入っていないと誰が言えるのでしょうか。私たちは主なる神の作品です。神の息は聖霊でもあって、その聖霊が弟子たちの上に降った時に教会は誕生し、教会の力として主イエス・キリストは私たちの作り主であると福音を宣べ伝えて参りました。この方がおられるからこそ、私たちは生きていける、この方の愛によって生きていける、主イエス・キリストを、主なる神を私たち人間は見ることは出来ません。けれど、だからこそ、主なる神を信じる、私たちを見てごらん、試練のままに留まらず、試練を突き抜けていく力を持っている私たちを見てごらんと、神の作品とはこういうことだと示し続けながら生きていきたいと願うのです。

 アメリカに、ノーラン・ブッシュネルという人がいます。この人の偉業は、テレビゲームを最初に開発した人、「テレビゲームの父」だと言われているそうです。ニューズウィークという雑誌がありますが、その中で世界を変えた50人の中にさえ入ると言われているそうです。その当時、テレビは見る物だとしか考えていなかった時代に、本当にテレビは見るだけのものだろうかと、心を柔軟にして、柔らかくして、見るだけなく、自分が操作できるテレビゲームを開発して、テレビゲームだけでなく、コンピューター社会の先駆けを作り上げた人でもあります。この人の会社にあのアップル社を作った、若い頃のスティーブ・ジョブズがいたことはよく知られている話だそうです。
 
 ブッシュネルはこう話しています。「熱意を失うことなく、失敗に失敗を重ねることです。失敗を恐れずにいろいろな計画に打ち込むことです。わたしは一度ならず的をはずし、3回、4回と失敗を重ねました。しかし、人々が覚えているのは私の成功だけです。」私たちも、もうだめかな、無理かなと思う。いつでもそう思うのです。いつも遠くまで飛べるノミの状態でい続けることは難しいかもしれません。

 だからこそなお、主なる神は私たちに告げておられる。あなたは私の「神の作品だ」あなたは神の作品だ、あなたは神の作品だと訴えかけて下さいます。だから大丈夫と繰り返し、繰り返し自分の心に訴えかけて、頭で理解して、頭で理解したことを体で理解して、体が分かったことを、魂で分かって、魂で分かったことを、自分の人生で受け止めて行きたいものだと思うのです。
 
                                                                                                      お祈りします。
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