日本キリスト教団 大塚平安教会 

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2021年1月10日(日)ビデオ礼拝 説教題「今日という日」

2021-01-10 10:00:06 | 礼拝説教
2021年1月10日(日) 【降誕節第3主日 イエスの洗礼】

黙 祷

招 詞 ヘブライ人への手紙 4章15~16節

「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、私たちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」

讃美歌21 125番「いかに幸いなことだろう」 菊池典子姉


聖 書 

旧約聖書 詩編90編10~12節
「人生の年月は七十年ほどのものです。健やかな人が八十年を数えても 得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。御怒りの力を誰が知りえましょうか。あなたを畏れ敬うにつれて あなたの憤りをも知ることでしょう。生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。 

新約聖書 コリントの信徒への手紙二 12章9~10節
 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

説教「今日という日」 菊池丈博牧師



以下原稿です。

詩編90編1~12節
コリントの信徒への手紙二 12章1~10節


 新型コロナウィルス感染拡大により、先週の木曜日、政府より「緊急事態宣言」が出されました。大塚平安教会はすぐに役員会を開催しまして、この事態にどう対応しようかと話し合いました。
 集まった役員の中でも意見は大きく割れました。このような事態となっても、礼拝は継続すべきではないかという意見がありました。高齢者が多い中で無理して行わない方が良いという意見もありました。人数制限をしたり、一日に何回かに分けての礼拝をするのはどうかという意見もありました。私も悩みました。けれど、当たり前ですが、誰もがこれこそ正しいという主張は出来ませんでした。
 
 当然のことながら、礼拝は「不要不急」ではありません。不要の反対は「必要」です。不急の反対は「緊急」とか、「至急」という言葉が当てはまるようです。「火急」という言葉もあります。どれも「急ぐ」という意味です。礼拝はかならずしも急ぎではないと思いますけれど、決して不要ではありません。
 
 役員会で話を詰めていく中で、行きついた先に、「礼拝とは一体何か」という問いが出されました。私はこのような問いが出された役員会を少し誇らしくさえ思います。けれど、その問いはとても重く、深いものです。今、このような時にこそ、改めて私たちは礼拝そのものについて考えてみる機会が与えられているのだと思います。
 「礼拝とは何か」と問われて、私がすぐに思い起こすのは、使徒言行録20章7節からの箇所です。聖書をお持ちの方は是非開いて見て下さると良いと思います。
 
 週の初めの日、つまり日曜日に人々はパンを裂くために集まっていました。パンを裂くとは聖餐式を行うためという意味でしょう。つまりここで人々は礼拝を行っていたと思います。パウロがその場面を取り仕切っていたと思われます。パウロは人々に神の福音を宣べ伝えていました。けれど、恐らく思いがけない程に、パウロの話が長くなり、夜中まで続いてしまいました。礼拝は朝ではなく夕方から始まっていたかもしれません。
 そこで一つの事件が起こります。礼拝に参加していたエウティコという青年が、窓に腰かけてパウロの話を聞いていたのですが、眠気を催し、眠りこけて、三階の窓から落ちてしまい、慌てて起こしてみると死んでいたというのです。
 けれどパウロが行って、彼の上にかがみ込み、抱きかかえながら「騒ぐな、まだ生きている」と告げて皆が安心したとあります。礼拝中に眠りこけるなんて、エウティコは愚かだなと思いますか。

 私たちの教会では滅多にありませんが、礼拝中に寝ている方がいたります。ある時に、ある方から相談を受けました。「先生、後ろの方がいつも寝ているのですが、注意してください」それで、少し注目していましたら、分かりました。寝ていたのではなく、鼻の呼吸が荒いという事が分かり思わず笑ったことありました。

 礼拝中に寝て良いのか、寝てはいけないのか、これはまたいつかの機会にさせて頂きますが、この聖書箇所から、大切なことは、説教はやっぱり短い方が良い、といことでもなく、大切なことは窓から落ちたエウティコが死んだのではなく、生きていたという点だと思います。死んだかと思ったけれど気を失っていたのかもしれません。あるいは、本当に死んだけれど、パウロを通して神様の力が働いてエウティコは生き返ったのかもしれません。詳細は分かりません。でも、大切なのはこの点です。

 「礼拝とは一体何か」それは今日の説教題からすれば、今日という日を生きるためです。私たちは緊急事態宣言が出される程に、新型コロナウィルスを恐れています。なぜ、恐れるのか、答えは明らかで、感染して死ぬかもしれないと思うからです。
 私は昨年の夏の終わりに熱を出しました。すぐにコロナウィルスに感染したのではないかと思いました。病院に行きましてPCR検査を受けました。幸い陰性でしたが、検査結果が分かるまでは生きた心地がしませんでした。やっぱり最悪の結果を予想してしまうからです。
 これが、所謂普通の風邪であったなら、なんとも思わなかったことでしょう。あるいはインフルエンザであったなら寝込んでしまったでしょうけれど、それ程心配しなかったかもしれません。なぜなら、まず死ぬことはないと思っているからです。
 
 10年以上前になりなりますが、私は足を骨折して、1か月程入院しました。けれど、病室にいた方の多くは、整形外科の患者さんでしたが、必ずしも暗いわけではありませんでした。なぜなら病気というよりは怪我だからです。このことによって死ぬことはない、少しずつでも回復していくと思っているからです。
 人が何より恐れるのは、その出来事の向こう側に「死」を見るからです。それが現実に迫っていると感じると時の恐れは、特別な恐れなのです。新型コロナウィスルを恐れるのは、感染のその先に死を見るからです。毎日これだけの感染者が出ても、まず死ぬことはないのだとしたら、緊急事態とはならないと思います。
 私たちの恐れは、出来事の、その先に死が待ち構えている、そういう出来事なのです。それは例えば、病気で言えば、癌を告知されるとか、そういった類の恐れなのだと思います。そのような恐れに対して人はどのようにして対応し生きて来たのか。勿論、医学の進歩はそのような恐れを克服するためであったとも言えるでしょう。けれど、尚、完全に克服出来た、という所からは、遠く及びません。それが現実だと思います。

 ならば、やっぱり宗教に頼るしかないのか、一か月以上前でしたか、コロナ対策に窮した担当大臣が「神のみぞ知る」という言葉を使っていました。その通りだと思いますが、違和感を感じた方も多かったでしょう。大臣は人の手には限界があると伝えたかったのだと思いますけれど、時に人は限界を感じると盲目的になることがあります。盲目的に宗教に頼る人は残念ながら現代でも多くみられる現象です。キリスト教世界に限るわけでもなく、幸い日本では殆ど聞きませんけれど、神様を信じていればマスクは入らないとか、自分達だけはコロナに感染することはない、などと言いだすグループがいるとすれば、非常に危険な状況に陥ることでしょう。誰からも信頼を失うことになるでしょう。けれど、どうも多くの日本人は宗教とはそういうものだと思っているところがあります。だからあまり近づかないほうが良いと思っているのでしょう。
 
 でも、本当の宗教とは、信じると奇跡が起こるとか、幸運がやって来るということもあるでしょうが、それが本質的なところではありません。むしろ、神を信じる者はどのように考え、どのように生きようとするのかが、問われてくるのだと思います。

 そして、それが「礼拝とは何か」という問いと重なるのだと私は思います。礼拝とは、人が、死を向こう側に見るとしても、尚、元気に生きていこう、尚、希望を持って生きていこう、神の愛に包まれて生きていこう、そういう励ましが与えられる所なのだと思います。

 礼拝において、神の御言葉が宣べ伝えられる、神との確かな交わりを感じる、会衆と心と心が通じ合うのです。普段は、表に出すこともない誰にも告げられない不安や悩みや、苦悩が、礼拝において解放される、礼拝に集う人々と共に分かち合える。
 自分の思い、恐れ、不安、嘆きを主なる神は分かっていて下る、だから大丈夫と、顔を前に向くことが出来る、そのような所、そのような時が、礼拝の持つ力、エネルギーだと私は思います。言うなれば、死んだと思っていた自分が、礼拝に出ることによって、生き返ったと言える。エウティコのようにもはや、誰もが死んだと思っていたのに、尚、神様の目から見たら、あなたは生きていけるよと、そういう励ましを受けることが出来る場所、時、それが、礼拝が持つ力なのです。

 読みました詩編90編は、人の命がいかにうつろいやすく、儚いものであるか、恐れを感じながら神に訴えている詩編です。しかし、同時にそのような人の命を思いつつ、けれど、主よ、あなたは、私が生まれる前から私を知っており、私が生まれる前からあなたは神であり、だから命も死もあなたのもの、せめて生涯の日を正しく数えるように教えて下さい、そのような知恵を与えてくださいと願いながら、神に祈っている、そんな詩編です。生涯の日を数えることがもし出来たとすれば、その日までの間は、病気になろうと、怪我をしようと、大丈夫平安かもしれません。けれどもしそのようなことが起こりえるとすれば、死までの日を毎日指折り数えて生きるしかありません。むしろ、分からないことほうが祝福ではないでしょうか。

 けれど、だから大切な事がある、昨日でもなく、明日でもなく、今日という確かな日を生きていこう、そのようにしてあなたも、あなたも生きていきましょう。一緒に生きていきましょうと互いに確かめ合うことです。私たちは一人ではありません。神を信じ、互いに支えながら、互いに励まし合いながら、一緒に生きていきましょう。会堂で行える礼拝を思いつつ、だから希望を持って、病にならず今日を生きて参りましょう。 

 お祈りします。



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