日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

神の子 主イエス

2020-11-15 14:41:12 | 礼拝説教
【詩編82編1~8節】
【ヨハネによる福音書10章31~42節】

 詩編82編を読みました。この詩編を読んでオヤッと思われた方も多いと思います。「神は神聖な会議の中に立ち 神々の間で裁きを行われる。」ここに神々という言葉が記されています。神様はお一人ではなかったのか、複数の神が記されているとはどういうことなのか、すぐに思わされます。この問いは歴史の中で繰り返し問われてきたようですが、これが正しいという答えはないようです。
 一つの考え方としては、神々とは、神様が造られた天使たちではないか、神様が天の国で会議を開いた。その会議に、この世に遣わされていた天使たちが集められてやって来たというのです。実際のところ、天使かどうかは分かりません。しかし、会議の内容については良く分かります。2節からの御言葉を読みますとこうあります。
 「いつまであなたたちは不正に裁き 神に逆らう者の味方をするのか。弱者や孤児のために裁きを行い 苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。弱い人、貧しい人を救い神に逆らう者の手から助け出せ。」

 主なる神が、会議に集まった者に怒りを露わにしている様子がわかります。神様が開く会議に集められわけですから、当然神様の思いを知っている者たちとなるでしょう。しかも良く知っていたでありましょう。
例えば、創世記には天地創造の物語があります。主なる神は六日かけてこの世界を創造されました。光あれと言われ光が現れ、水と空を分け、海と陸を分け、太陽と月と星と造られ、空には鳥、陸には動物、海には魚、そして、六日目に神は人間を造られました。その天地創造の一つ一つで、神は「良かった」と言われ、特に人を造られた時には「極めて良かった」と言われた。主なる神は天地創造によって良い世界を造ろうとされた、これは明らかなことだと思います。
 ところが、そのような世界を造ろうとされたのに、どうも上手くいかない。アダムとエバのところにヘビがやって来たのが悪かったのか、ノアの時代では「世の中に悪が増した」とありますが、世界を造った神様は洪水という思いきった手を用いられたりもしました。神様もあの手、この手を用いられたのでしょう。そのようにして、しかし「極めて良い」世界を作り出すために色々な働きをされていた。
けれど、その神の働きの為に、この世に遣わされていた神々と呼ばれていた者たちが集められて叱られているのです。

 あなたがたよ、あなた方はなぜ神に逆らう者の味方となるのか。弱者や孤児や苦しむ人、乏しい人たちの助けにならないのか。弱い人、貧しい人を救おうとしないのか。そう問われているのです。問われている者は先ほど、天使ではないかと申しましたが、どうも天使ではありません。では誰かというと7節に一つの答えが記されています。

「しかし、あなたたちも人間として死ぬ。」とあります。神々と言われている者は、どうも人間のようです。しかも、神の思いを良く知る人間です。それは一体誰なのか。

 その一つの思いとして、新約聖書からはヨハネによる福音書10章から読みました。途中から読みましたけれど、「ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。」とあります。
どうして主を石で打ち殺そうとしたのか、この場面は、エルサレムで神殿奉献記念祭という特別の礼拝があった時の話です。主イエスがその記念祭に来ておられた。ユダヤ人の宗教的な指導者が主の周りに集まって来たのでしょう。彼らが主イエスに話しかけました。「いつま、わたしたちに気をもませるのか。もし、メシアなら、はっきりそう言いなさい。」と詰め寄ったというのです。
私たちはあなたに期待している、という思いから話しかけたのでしょう。
 
けれど、主は「私が行う業は、父なる神から来るものであって、私は父と一つである」と言ったものですから、カッとなって石を取り上げ打ち殺そうとしたというのです。
 なぜ、カッとなったかというと、主イエスは、自分は父なる神と一つだと言ったからです。イスラエルの人々は長い間、メシアを待ち望んでいました。自分達の国に、神の救いの現れとして、メシアがやって来こられる。そのような信仰に生きていました。
 
だかこそ、主イエスにあなたこそメシアではないのか、そうならそうだと言っていれ、切実な思いを持って問うたかもしれません。でもなぜそう聞いた人々が石を持ったのか、主イエスは自分がメシアだとは答えませんでした。そうは答えないで、私は父と一つだと答えたのです。自分は神と同等だという意味を持った言葉です。だからつい、怒って石で打ち殺そうとした。

人々が望むメシアの姿は神様ではなく、人間です。人としての救い主です。いわば、この世の英雄、ヒーローです。そのような人が現れると信じていたのに、主イエスにその思いを告げたのに、私は父と一つだと言われた、私は神だと言われたようなものです。なんと神を冒涜した言葉だと思ったのでしょう。 
そんな輩は石で殺さなければならないと思ったのでしょう。
 
 けれど、裏を返せば、それほどまでに私たちは神を知っている、神について、神の思いを分かっている、という事ではないでしょうか。だから、主イエスは詩編82編の先ほどの御言葉を用いたのだと思うのです。「神の言葉を受けた人たちが「神々」と言われている」と話しかけました。律法によって、神の言葉を受けたあなたがたよ、神々と言われる程のあなたがたよ、しかし、詩編82編を知る者は、これだけで、主イエスが自分達に何を言いたいのかをも理解したでしょう。

 神の思いを知っているなら、なぜ、神の思いを行わず、いつまであなたがたは不正に裁いて、神に逆らう者の味方をするのか。弱者や孤児の為に裁きを行い、苦しい人、乏しい人の正しさを認めることこそ、神の思いではないのか、あなたがたはそれを行っているのか、と問われていることを悟ったのだと思います。だから、余計に怒りが増したのではないでしょうか。
彼らは捕らえようとしましたが、主は難を逃れて離れていくことが出来ました。
 
 皆さん、神を良く知る者が神々と呼ばれるのです。その神々とさえ呼ばれた詩編に記された旧約聖書に登場する指導者たちは、神の思いを知っているはずなのに、主なる神から離れ、神に対し、また神の民に対しても罪を重ね、不正に裁き、弱い者を迫害しました。
その為に、主なる神は、時には王を立て、時には祭司を用いて、また、何より神の御言葉を告げる預言者によって神の民を「良い世界」に導こうとしました。それが旧約聖書に記されている内容です。けれど、そのような神の思いはついに顧みられることはありませんでした。だから、神はどうしたのか、主なる神は、自分の独り子である、主イエス・キリストをこの世に誕生させてくださいました。この御子イエスなら人々は敬ってくれるだろう、そのような御計画の中で、御子イエスは誕生されたのだと思います。

 しかし、主イエスの地上での神の御言葉を告げる生涯は、この世の神々、つまり、新約聖書にしるされる指導者たちは、主イエスが民衆から愛される姿を見るにつれ、妬みを持ってつぶそうと謀り、作戦は成功し、主は捕らえられ、裁判にかけられ、十字架刑に架けられることになります。人々はそれで全てが終わったと思ったでしょう。けれど、神の御計画は終わりませんでした。三日後に主イエスは復活され、弟子達の前に、人々の前に現れてくださり、復活の主イエスを体験した人々によって、神の御計画は成就していくことになります。

 皆さん、私たちは主イエス・キリストを通して神の福音を受け取り、主イエスを神の子と信じ、このように教会に集い礼拝を献げています。
 今日与えられている聖書から言えば、私たちもまた神々と呼ばれる、神の思いを良く知る者の1人ではないでしょうか。教会はこの世に対して、神の思いを知る者としての責任を持つのだと思います。しかし、それは人を裁くための責任ではありません。 
人の思いが正しいかどうか、正しく無いのかどうかを判断する責任でもありません。
 誤解を恐れずに言うとすれば、政治的指導者が人を正しく導いているかどうか判断する責任でもなく、人々の苦しみ悩みから救い出す働きをするための責任でもないと思います。
 
 勿論、この世にある教会が、そのように働くことは大切ですし、この世から求められていることでもあり、目に見える教会の働きであろうと思います。

 でも、恐らく、そのようにして、私たちこそ、神の思いを知っている者の1人であると信じて働く時、教会は教会を正しいものとしてしまう、自らを正しいとしてしまう、そういう危険があると思います。
正しいのは主なる神であり、主イエス・キリストです。私たちはその方にこそ従って生きていきたいものだと思います。私たちを徹底的に赦してくださり、神の御前に立てる者として下さった方の、御声に聞き従い、謙遜のうちに生きていきたいものだと思います。 お祈りましょう。
 

コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 祝福で満たされるために | トップ | わたしの名によって集まると... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

礼拝説教」カテゴリの最新記事