日本キリスト教団 大塚平安教会  

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主よ、わたしの魂を助け出してください。

2019-05-13 15:46:05 | 礼拝説教
【詩編6編2~11節】
【マルコによる福音書14章32~42節】

 2019年度4月に入りまして、2度目の礼拝を迎えました。来週の礼拝はイースター礼拝となります。その主の復活を祝う前の一週間は、受難週と呼ばれ、その一週間が今日より始まります。

 木曜日には主イエスご本人による最後の晩餐が行われ、しかし、ユダの裏切り、逮捕、裁判にかけられ、十字架刑によって、金曜日の午後3時ごろに息を引き取られる。その御受難を覚える一週間です。しかしまた、その三日後の日曜日の朝早くに主イエスが復活され婦人たちに、弟子たちにその姿を現され、限りない神の愛と、希望を示して下さった、私たちに生きる望みを示して下さったイースターをも思いつつ過ごす一週間となります。
 
 私たちの教会は、この年は、イースター礼拝の次の週に教会総会が開催されます。今、役員の方々はその準備もあり、少し慌ただしい日々を過ごしておられますが、私も今日の役員会まで資料を作成しなければなりませんでしたので、少し大変でした。が、その資料の中に、2018年度の祈祷会の報告があります。一年間を通じて行われた祈祷会ですが、今は、昼の祈祷会、夜の祈祷会と行っておりますけれど、実は、2018年度、夜の祈祷会の中で、出席者が1名という日が、この一年の中で二度ありました。

 例年、祈祷会に参加されている方々の中でも、特に夜は高齢化もありまして、出席される方々が少しずつ減少しています。そんな思いもありまして、昼に祈祷会を開催することにして、そちらの方が、案外多くの皆さんが参加されるようになっておられますけれど、夜の祈祷会は、恐らく大塚平安教会の様々な働きの中でも、今のとろころ最も苦労している集会となっていると思います。

 3月から4月と年度が代わり、4月の最初の祈祷会、4月3日の夜の祈祷会も、1名となりました。新しい年度、最初の祈祷会の先行きが少し心細いなと思いまして、その日私は決心して、教会員名簿を取り出しまして、その名簿に記されている方、全員を思い起こしながら、名前を読み上げ、一人一人を祈らさせていただきました。祈りが終わるまで一時間半はかかったと思います。

 それで、少し気持ちも落ち着き、心も安定して帰宅したわけですが、それで先週の水曜日です。先週の水曜日は、幼稚園の入園式が行われたのですが、朝からの雨と真冬を思わされる天候となりまして、入園式の準備をされた幼稚園の先生方も、この日を楽しみにしておられた皆さんも、少し残念だったかなと思います。でも式も無事に終わり、午後となって、夜となっても雨も寒さも続いています。これは、もうさすがに今日の祈祷会に来られるのは無理だろう、というより無理して来られない方が良いだろうと思う気温と雨でしたからね。それでも部屋を暖めつつ、準備はしておいたのです。そしたら大雨の中、お二人の方が教会にやって来られました。

 誰が来られたのかはともかく、やはり嬉しかったですね。こんなに嬉しい祈祷会は無いと思うような思いで、一緒に讃美歌を歌い、御言葉を読み、一緒に祈りを献げることが出来ました。一人で祈るのも大切だと思います。けれどまた、二人、三人と共に祈ることの喜びは格別なものがあると本当に思う恵みに満ちた時でした。
 そういう訳で、是非、祈祷会を覚えてお祈り下さればと願います。

  なぜ、祈祷会の話をしたのかというと、この受難週の主の日に、詩編6編の詩が読まれました。詩編の中には、「嘆きの詩」と呼ばれる詩編が数多くあると先週の礼拝でも申し上げましたが、この6編は古来、特に7つの「悔い改めの祈り」と呼ばれる詩編の一つでもあります。
 
 「主よ、怒ってわたしを責めないでください 憤って懲らしめないでください」という御言葉から始まります。この詩の作者の苦しみは、何より一人で祈っている、その苦しみがある、と私は感じました。この人は主なる神に対して、何か良く無いことをした訳ではなく、むしろ、なんらかの重い病気を患っていたと思われる、あるいは精神的に深い苦しみを覚え、魂の病人であったとも言えるでしょう。いわば、目前に自分の「死」が迫っていると感じている中で、詩編が綴られていると考えられます。
 
 当時、病気になるとは、ヨブ記の中にも見られるように、神に対して何等かの罪を犯した結果であると考えられていました。ですから自分は神に対して罪を犯し、神の怒りに触れ、罰せられていると受け止めたのでしょう。「主よ、怒ってわたしを責めないでください 憤って懲らしめないでください。」で、はじまり、今日の説教のタイトルでもある5節の御言葉、「主よ、立ち帰り、わたしの魂を助け出してください」と神の救いと癒しを求め続けます。

 しかも、5節をよく読みますと、主よ、立ち帰って下さい、助け出して下さい、救って下さい、と繰り返し、繰り返し、主に願い、求めています。あたかも、今ここに主なる神はおられない、その存在を認めることが出来ない、なんら神の希望を見いだすことが出来ない状況に追い込まれているように思われます。

 このような詩編、聖書を読みますと、神はおられるのか、おられないのか、この単純とも思われる、しかし、実に切実な問題に、人間はいつも向き合っているのだとも思います。
 
 昼の祈祷会では、今、創世記を読んでいます。もうすぐ100歳となるアブラハムと90歳となるサラの間にイサクが誕生する場面を読んでいます。アブラハムとサラとの間に子どもが与えられると神が約束したのはアブラハムが75歳、サラが65歳という年でした。それから既に25年の年月が過ぎて尚、その約束は果たされていないのです。この時、アブラハム、また、サラの二人の心に神の約束はどう映っていたでしょうか。

 イサクが誕生する前に、神の使いがやって来て、もうすぐあなた方の間に子どもが授かるであろうと告げるのですが、その言葉に、ひれ伏して聞きながらも、思わずアブラハムも笑い、サラも笑うのです。まさかそんなことがあるはずもない。既に、子どもが生まれるような体でもない、そのような力はとうの昔に失っている。だから思わずそんなバカなことはないと笑ったのです。

 けれど、その笑いを見とがめた主の使いは、こう告げます。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年を取った自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」と告げて帰っていくのです。

 ここに「主に不可能なことがあろうか」と告げられた言葉があります。

 聖書は、この御言葉をあなたがたはどこまで信じているのかと、問い続けているのだと私は思います。先ほど、祈祷会の話を申し上げましたが、お二人やって来られた中の一人は、4月にS教会を辞されて、ご両親の体を思いつつ、こちらに帰ってこられたM先生でありました。7時30分からの祈祷会ですが、7時前位にはやって来られた。「先生、良くこの雨の中をやって来て下さいました」と申しましたら、週報を見て、祈祷会一人とあったのを見たというのです。そして、御自分が奉仕しておられた教会でも、そういうことが幾度もあって、一人で祈っていましたからと話して下さいました。M先生は、ですからきっとなんとしても一緒に祈りたいと思われたのだと思います。

 今、何も祈祷会だけの話ではありません。全国各地の教会が、祈祷会のみならず、教会の礼拝出席者の数が減少している状況にあると言われます。必ずしもそれは地方教会に限ったことでもなく、神奈川教区においても例外ではありません。

 毎年、それぞれの教会が割り当てられる負担金が計算されますが、私たちの教会は前年比でいえば、108%、金額で言えば、年間5万円以上の負担金が増えました。なぜ、増えたのか、礼拝に人が集って下さり、前年度よりも伸びている報告書が出されているからです。しかも、実際は、会堂建設の借金を返していかなければなりませんから、一般会計の考え方を出来るだけ簡略化して、決して脱税のような形ではなく、一生懸命に節税するようにして報告書を出しているのですけれど、それでも前年比からすれば増えるのです。これは大変有難いことです。何よりもこの教会が神様の祝福を豊かにいただいていることの証しでもあります。
 
 祈祷会の人数の減少は、それによっていつのまにか教会の鼻が高くならないようにと、神様から与えられた宿題であって、もっと頑張れという励ましでもあると思います。いずれにしても、諸教会全体としては人も財政も苦しい状況が続いていることは間違いありません。
 
 そのような状況が長く続きますと、人の心に芽生えてくるのは、神は本当におられるのか、あるいはおられるとしても、「神に不可能があるのではないか」と思う心ではないでしょうか。アブラハムでさえ25年経って、やっと神の約束が実現したわけですけれど、その25年の間、決してアブラハムは神に守られて、平安と大安心の中で過ごしていたわけではありません。なんとかして神の約束を自分達の手で実現させたいとあの手、この手を用いたことが聖書に記されていますが、実際はその一つも上手くいきませんでした。でも、そうなると余計に人は、「神の不可能」を感じるのではないでしょうか。

 詩編の作者も今、病気との戦い、魂の病の中で、「神の不可能」を感じざるを得ない、そのような状況に置かれていたと思われます。実に切実な祈りが献げられるのです。

「わたしは嘆き疲れました。夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです。苦悩にわたしの目は衰えて行き わたしを苦しめる者のゆえに老いてしまいました。」と殆ど絶望を思わされる祈りが続いています。
 
 そして、この詩編の6編はそれ故に、古来、主イエスキリストの受難の祈り、あのゲッセマネの祈りと深くつながるのだと考えられて参りました。また、それ故にこの受難節、受難週のこの時期に伝統的にも、詩編6編は朗読されて来たようであります。

 先ほど、ゲッセマネで祈る主イエスの姿が記される、マルコによる福音書の14章を読んで頂きました。祈りを献げる中で主イエスは「ひどく恐れてもだえ始めた」とあります。主イエスは、この祈りの後に、御自分が捕らえられ、十字架に架けられることを既にご存知であったことでしょう。しかし、そのことを知りつつ、御自分のまさに「死」と向き合わなければならない時がやってきているのです。それは主イエスにとっても、どれほど大きな苦悩であり、父なる神の御前にあって、恐れを感じ、もだえるほどの思いを覚えられたのだと思います。もはや、自分ではなんともならない、しかし、受け止めなければならない、その苦悩は人の思いを遥かに超えて主に迫って来ていたのだと思います。

 35節には「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り」とあります。続く36節には「アッバ、父よ、あなたはなんでもおできになります。この杯をわたしからとりのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことがおこなわれますように。」と祈るのです。
 
 今なら、まだ主イエスは、御自分にこれから起こるだろう出来事から避けることが出来たでありましょう。ゲッセマネから走り出して、追っ手から逃げ出して、ガリラヤに帰って、ナザレに戻って静かにしていたら自分の命は助かるのではないか。「父よ、あなたは何でもおできになる」と主は祈っています。まさに「神に不可能はない」ことを誰よりもご存知であったでしょう。

 神の子として、しかし、この地上を「人の子」として誕生された主イエスの「人の心」がここで明らかに、主イエスの苦悩として表されていると言えるでありましょう。
 
 主イエスは、そのような思いの中で、詩編の作者と同じように、「主よ、わたしの魂を助け出してください」と切に願ったに違いありません。

 けれど、主はこうも祈りました。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」主イエスは、逃げませんでした。なぜ逃げなかったのか、主イエスが、御自分の罪を許してもらうためではありません。御自分の命によって、弟子たちの、そしてここに集う私たちの、いや、ここに集ってはいない多くの人々の、数限りない罪の全てを許すために、逃げ出すことはしませんでした。

 ここに御自分がこの地上に誕生された意味の全てを見いだし、私たち人類の罪を罪のままにせず、限りない救いの道を開かれようとする父なる神の思いに従い、捕らえられ、そして十字架に架けられました。主は最後の最後まで苦しまれました。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」、これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味であるとあります。

 主の十字架刑がどれほど辛く、苦しく、また残酷であったかを思わされる御言葉です。

 主イエスは息を引き取られました。
 
 けれど、神は、そこから主イエスの魂を助け出し、三日の後の日曜日の朝早くに、復活という栄光なる出来事によって、神の勝利を示して下さいました。
 
 それは、私たちの完全な罪の赦しと、神の死からの勝利を現します。どんなに厳しい状況におかれるとしても、尚、その先に神の光と導きがあって「主に、不可能なことがある」とつい思う私たち一人一人の心に、聖書は「主に、不可能なことがあろうか、いや、無い。」と力強く語り掛けているのです。

 これからの一週間も、この方の導きと、イースターに向けた神の御計画を信じながら、私たちは力強く歩んで参りましょう。

 お祈りいたします。
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