日本キリスト教団 大塚平安教会  

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神の道は完全

2019-07-28 13:25:29 | http://www.ohtsukaheian.jp/
【詩編18編26~31節】

【ローマの信徒への手紙13章8~10節】


 ローマの信徒への手紙13章を読んでいただきました。その10節に「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」とあります。全うするとは、完成させる、完全にするという意味です。

 律法という言葉は、法律という言葉をひっくり返した言葉ですが、中身としては似たところがあるわけですけれど、違いは何かといえば、法律は、私たち人間が、より良い生活、円滑な人間関係を生きるために必要な決まり事として作っていくものですけれど、律法も、目的としては同じ考え方で作られていると思いますが、作られたのは主なる神であり、主なる神が旧約聖書の時代、イスラエルの指導者であったモーセに、直接与えて下さった神様からの決まり事、この事をしっかり守るならば、あなたがたは幸せに生きていけるであろう、そのようにして神様が与えて下さった教えが、律法となります。

 私たちは、誰であっても幸せに生きたいと願います。誰もが幸せに生きるためにはどうしたら良いのかといつも考えているようなものです。

 何よりも健康が肝心だと、健康に気を付け、適度な運動をして、体力が落ちないようにとされておられる方も多いと思います。健康と幸せは深い関わりがあると思います。とはいえ、健康な人が皆幸せかというと、決してそうでもありません。必要条件ですけれど、絶対ではありません。
 
 幸せに生きるためには、やっぱり知恵が必要だと思うこともあります。特に子供たちには勉強を一生懸命にやりなさいと親も学校も口を酸っぱくして話したりします。今どきの学校の先生は平気で、学校だけでは足りないから塾に行きなさいと話します。それなら、朝からずっと塾に通った方が良いのではないかと思ってしまいますが、でも、勉強も良く出来て、知恵もある人が幸いに生きているのかというと、決してそういうわけでもないようです。

 少し前の話になりますが、一流の学校を出て、官僚と呼ばれる人になったけれど、職場で大麻とか麻薬を普通に使っていた人がいました。見つかって逮捕されてしまいました。先日の話では新潟の国会議員の方が、秘書に暴言を吐いたり、殴ったりしていたという話しもありました。勿論、人によるわけですが、知恵や知識が豊かな人は、どうしても人を見下し、自分が何か偉くなったような気がするのでしょうか。そうなると逆に人の知恵や知識は、その人を不幸にしてしまうことさえあるようにも思います。
 
 幸せに必要なものは、何よりもお金と考えることも出来るでしょう。お金があれば、大抵のことは上手くいく。望むことが適います。確かにそういうことは言えるでしょう。今、隣の幼稚園が新しい園舎を建てる目的で園長をはじめとして、色々と動いています。隣の土地を購入して、先週からついに元の本町マーケットの解体が始まりした。予定としては一か月程の期間が、解体がかかるという話しでしたが、この三日ほどで殆ど取り壊されてしまいました。その様子を園長と二人で見ながら、どう見ても一か月はかからない、もうあと一週間もすれば、終わってしまうのではないかと話しました。大分解体費用を要求されていますけれど、少しまけてもらいたいなぁとつぶやいていましたが、幼稚園も思っていたより費用が足りなく困っているところがあります。もう少しあればなぁと実感しております。

 先日は、年金だけでは、老後に2000万円足りなくなるといったニュースもありまして、一時期大分騒動になりました。人生、最後にはやっぱりお金ということもあるかもしれません。でもお金がなんでも解決するわけではありません。例えどんなに大金持ちであっても、人の心はお金では買えません。あの人と結婚したいと思い、願い、大金を積んだとしても、人の心を動かせるわけではありません。更には、人間の欲望はとても深く、あっても、あっても足りないと思うもの、それがお金というものかもしれません。

 どうもお金も必ずしも人を幸せにするものではないと思わされます。

 お金のことで、ついでに申し上げれば8節に「互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってはなりません。」とあります。「借りがあってはならない」という言葉は本来、大分強い言葉で、「義務を果たさなければならない」という言葉の様です。

 義務という言葉を聞くと、ここで改めて思いますのは、律法です。9節でも、パウロは律法の中でも特に知られている十戒の言葉を引用しながら説明しています。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、その他どんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。

 主なる神が、イスラエルの人々に「愛に生きるように」として与えて下さった律法を中心として、イスラエルが形成させ、その歴史を生き、神の民としての歩みを生きて来ました。

 けれど、いつの間にか、その律法が本来は愛に満ちた律法であったはずなのに、律法学者や、祭司、長老といった時代、時代の指導者によって利用され、愛が義務となり、裁きの教えになっていった。それによって人と人との間に愛が見えなくなって来ていた。

 だから、そのために、主なる神は、決心されて御自分の独り子である主イエス・キリストを、この私たちの世界に誕生させてくださいました。それがクリスマスの出来事になります。
 
 主イエスは、成長し、世に出て、神の愛を訴えました。愛すること、赦すこと、慈しむこと、「神を愛し、隣人を自分のように愛すること」律法の中で、最も大切な教えはこれでえあると教えて下さいました。ここでパウロも同じことを伝えようとしているのだと思います。「人を愛する者は、律法を全うしているのです。」先ほど、全うするとは完成させる。完全にする意味ですと申しましたが、愛が神の教えを完成させる。勿論、その愛は、人と人との間の愛とも違います。

 このローマ書13章の箇所について加藤常昭先生が説教をされている文章を読みました。加藤先生はこう告げておられました。

 「私たちは絶えず悪を受ける。絶えず傷つけられる。絶えず害を受けます。愛が無いところではそういうことが起こります。お互いにどこかで傷つけ合う。もしかすると私たちは、自分ではこれが愛だと思っていることで、相手をどやしつけているかもしれません。相手に重荷をかぶせているだけかもしれません。愛しているつもりで、傷つけているだけであるかもしれません。私がこんなにあなたを愛しているのに、とか、私がこんなにあなたに尽くしているのに、というような言い方で、お互いがお互いを傷つけるだけであったり、責め立てているだけであったりするかもしれません。裁き合って倒そうとするだけのこともあります。」

 人と人とが思う愛について、厳しく見るとしたらこの通りなのだろうと私も思わされました。そこに愛の完成が成り立たない。愛が完全になっていかないのです。

 ですから、加藤先生は「主イエスを抜きにして、この世を生きて行くことは、本当にできないことだとさえ思うことがあります。」と告げておられます。

 先ほど、詩編18編を読んでいただきました。18編は詩編の中でもかなり長い詩編です。詩編119編、78編に次ぐ程の長さと言われます。ですから全部の箇所ではなく、26節~31節だけを読んでいただきました。その31節に「神の道は完全 主の仰せは火で練り清められている。 すべて御もとに身を寄せる人に 主は盾となってくださる。」と記されています。今日の説教題を「神の道は完全」といたしました。道とは、私たちの人生を意味するのでしょう。神が与えて下さる私たちの人生は完全である。しかし、なぜ完全なのか、それは主なる神が、主イエス・キリストが私たちを導いて下さるからです。

 私が手もに持って愛読しているフランス語の聖書は、「神は完全な導き手である」と訳すことが出来るように記されてありました。美しい文章だと思いました。私はこの御言葉を読んで、ストンと心の中に落ちる思いを感じました。

 私事でありますけれど、ご存知の方も多いのですが、私はここ10年以上もクラシックギターを習っています。もともと音楽性の乏しい私には、半分以上、練習というよりは、苦行を行っているような思いで(笑)、自分でも良く辞めないで続いていると、自分を褒めたい思いさえしているのですが、いつか教会や伝道の役に立てればと願って始めたことでしたが、それがいつになるのかもわかりません。

 苦行の中の最も苦しいのが、毎年8月の中旬に行われる発表会です。例年、この時期にありまして、これまで教会の皆さんの一人としてお招きしたこともありませんが、今年も行われる予定です。ある日曜日の午後にふっと僕がいないなぁと思ったその日が多分、発表会の日です。(笑)

 なんとか例年、乗り越えて参りましたが、今年はどうも忙しい思いをしておりまして、弾くはずの曲の練習が殆ど出来ないで状態です。しかも、先生と一緒に二人で引く曲の練習が殆ど出来ない。これで本番は難しすぎると思っておりまして、今年は止めてしまおうと半ば思っているのですが、それでも、先週、横浜に教えて下さる先生を見つけて、思い切って電話をかけて、少し練習に付き合っていただいて、教えていただきたいとお願いしました。そしたらどうも、自分のところは開店休業のような状態だからいつでもどうぞと言われましたので、早速先週の木曜日の夕方に行ってきました。

 海外で10年ギターを習って帰って来られた先生で、楽譜を見せただけで、すぐやって下さいましたが、その腕前は本当に凄く上手で、こんな先生がプロのギタリストと言われるのだろうと感じました。楽譜を見ただけで、この楽譜を書いた人がどんな思いでこの楽譜を書いたのか、どう演奏すべきかが、全てこの楽譜に書いてあるというのです。私は数ヶ月見続けていましたが、どこに何が書いてあるのかさえわかりませんでした。

 楽譜を読むとはこういうことなのかと改めて驚きながら、練習したわけですけれど、でも、はっきりわかったことは、先生と私の腕の差があまりにも大きすぎて、練習にならないのです。記号の一つ一つの意味を興味深く教えて下さり、それはよく分かっても、手がついて行きません。なんとか教わった通りに弾いてみると「上手いって」言って下さるのですが、その言い方がねぇ、ウソであることもすぐ分かるのです。(笑) 

 ですから良い学びにはなりましたが、練習する時間は殆どなく帰って来ました。

 そこで改めて思ったのは何かというと、いつも付き合って教えて下さる先生が、どれほどの忍耐を持って付き合って下さっているのかということです。言いたいことは山のようにあり、ここも、あそこも、この点も殆ど出来ていないけれど、前回より一生懸命でしたよと言われる言葉が、本物の言葉として聞こえるのです。

 良き先生とは、その人その人の状況に合わせて、その人その人の成長に合わせて、その人その人の心に合わせて、そしてその人を迷わすことなく、導いて下さる方なのだと思います。「神の道は完全 主の仰せは火で練り清められている。」とあります。「火で練り清められる」とは、「まじりけが無い」という意味です。主の御言葉は混じりけが無いのです。だから力があるのです。加藤先生が話されたように、私たちが、これこそ愛だと思って語る言葉の中にでさえ、自分の為にとか、自分の利益のためにという思いがあるとするなら、聞く人にはその「混じりけ」のある部分だけが良く聞こえくるのではないでしょうか。


 私たちはともすれば、子どもに対して、夫に対して、妻に対して、隣人に対して「良き導き手」のつもりで、その人のためにと思いながら言葉を用います。
それでも尚、私たちは完全ではありませんから、どうも、言わなくて良いことを言い、言って欲しくないことを話し、言って欲しい言葉は言わないような、そんな「混じりけ」だらけの生活を過ごしているのではないでしょうか。

 けれど、そのような私たちに対して、だからダメだよとは決して言わないで、じっと忍耐する中で、私たちを愛して、愛して、私たちの人生の道標となり、完全な導き手として、練り清められた御言葉を持って、私たちを守り、支え、愛して下さる方がおられる。
 この方にこそ導かれて私たちはこれまで歩んでまいりました。次週の礼拝は、私たちの教会の創立70周年記念礼拝となります。その歩みをずっと主なる神は、良き導き手として伴って下さいました。その方を見失わず、祝福を沢山受けながら、今週も共々に主の導きの中で歩んで参りましょう。

お祈りいたします。

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