日本キリスト教団 大塚平安教会  

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収めきれない恵

2018-05-13 15:27:59 | 礼拝説教
【エゼキエル書47章1~9節】
【ヨハネによる福音書21章24~25節】

 本日は、母の日でもありますが、キリスト教の暦で申しますと復活節第7主日、次週はペンテコステとなり、聖霊降臨節となります。キリスト教の暦は11月末のアドヴェントから始まりますので、今日の主の日が、一年の前半を終える週、次週からは一年の後半のスタートとなります。これまで前半は神の時、主イエスの誕生から宣教、十字架、復活という出来事が起こった神の時です。そして後半のスタートはペンテコステ礼拝から始まる使徒たちが活躍する教会の時と言われます。

 そのような節目のペンテコステ前の時期に読まれる聖書箇所に福音書の締めくくりの箇所が読まれるケースがあります。先週の子どもの教会の聖書箇所も、ルカによる福音書の最後の箇所が読まれ、私が話を致しましたが、本日は、ヨハネによる福音書の21章24~25節が選ばれました。
 
 私たちは福音書を読むときに、4つのそれぞれの福音書の1章については案外覚えているものです。マタイとルカについては主イエスの系図が記されていたりしますが、基本的には主イエスの誕生、クリスマスに関して記されています。マルコによる福音書は主イエスの誕生ではなく、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書き出されて、バブテスマのヨハネと、主イエスの宣教からいきなり始まります。ヨハネによる福音書は、「初めに言があった」と始まります。
 それぞれに馴染みがある御言葉だと思います。けれど、それでは福音書の最後はどのように締めくくられているのかと思う時に、案外、私たちは覚えていないのではないでしょうか。

 マルコによる福音書は、主イエスが復活されたと聞いた婦人たちが、「主の墓から出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも言わなかった。恐ろしかったからである。」で終わりますし、ルカは主が天に上げられていく、昇天の場面で終わります。
 それではヨハネによる福音書はどうかというと、先ほど読んでいただきましたが、こうありました。「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」とても良い締めくくりの御言葉だと思います。

 主イエスのなさった業の一つ一つを、もし全て記すとしたらその書物を十分に収めきれない程の量になるというのです。それほど、数限りないというほどだというのです。
つまり、どんなに記すとしても、記しきれない神の恵みがあるということでしょう。

 尽きることの無い神の恵みを受けて、私たちはそれぞれに与えられている人生を生きているわけですが、この「収めきれないであろう」という御言葉が意味するものは何か? 一つは「神の恵みに生きるとき、全てのものが生き生きとしてくるということではないでしょうか。
 
 エゼキエル書47章という箇所を読んでいただきました。エゼキエル書は何年もかけて婦人会の「聖書を読む集い」で共に学んだ箇所ですが、理解しながら読んでいくのはなかなか骨の折れる箇所でありました。皆さんと一緒だからこそ読んでいかれたとも思います。
 時代は、紀元前600年前後、大国バビロンとの戦いに敗れて、バビロン捕囚が行われる時代に、預言者エゼキエルが途上し、イスラエルの民に対して、あなたがたは神に背き、神から離れて多くの罪を犯しているのだと訴えました。更に、これから尚一層厳しい状況が与えられるであろうと予言しながら、イスラエルの民に悔い改めを迫り、神の御言葉を取り次ぎ続けます。

 しかし47章に至って、そこで一つの希望が語られます。それはこれまで水が流れていなかった場所に水が流れ、その水が川となり「この川が流れる所では、全てのものが生き返る」というのです。

 主なる神と出会う経験とは、あたかも死んでいた、枯れてしまっていたと思える人生が生き返り、生き返るばかりでなく、生き生きとしてくるというのです。命与えられるというのです。死んだと思ったのに生き返る、それは主イエス・キリストの復活を思わされますが、しかし私たち自身のことでもあります。

 ヨハネによる福音書に戻りますが、「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である」とあります。この弟子とは福音書を記したヨハネのことです。
 ヨハネは主イエスの12弟子の一人であり、また一番若い弟子でもあり、聖霊降臨ペンテコステの出来事を通して、聖霊が与えられ力を得て伝道活動に乗り出していった一人でありました。しかし、仲間のヤコブは首を切られる、ペトロは逆さ十字架で処刑される。後で仲間になったパウロもローマで処刑されたと聞いたことでしょう。仲間の一人一人が主イエスの御言葉を宣べ伝え、神の福音を携え福音伝道の働きをしながら、しかし殉教の死を遂げていく。そのような迫害の時代にヨハネは生き延びました。長生きをしたと言われます。
 
 仲間のあの人も、この人も捕らえられて死んでいった。自分は命があって良かったなとは思ったとは思いますけれど、けれど長生きであったことを喜ぶだけでなく、ヨハネの人生が死んでいった仲間たちと同じように、いつも喜んで、主にあって生き生きといきていたからこそ、このヨハネによる福音書が記されたのではないでしょうか。

 この福音書を記しながら、この出来事の中に、あの出来事の中にも、主の祝福が豊かにあったのだと感じながら喜びをもって記したからこそ、福音書と呼ばれ、聖書として取り扱われ後の世代の人々にも愛され、読まれ続けられる福音書となりました。

 しかし、尚ヨハネはその福音書の最後に、この恵を更に記すとしたら、その書物は収め切れない程になろうと記したのです。まだまだ祝福はこんなものでは足りない、今以上にもっともっと神様の祝福はあるのだと伝えるのです。

 ヨハネによる福音書に記される最初の奇跡は、2章に記される「カナでの婚礼」の奇跡と呼ばれる出来事です。主イエスが結婚式に招待された、お母さんのマリアも一緒であった。喜びの婚宴が幾日も続いた、その中でぶどう酒が無くなってしまったというのです。それに気が付いたマリアが主イエスのもとに相談に行きますと、主は使いの者に、水がめ六つを用意させて、水がめに水を入れさせた。その水がめを宴会の世話役の所にもっていかせると、水がぶどう酒となっていて、しかも美味しい。世話役がどうして、こんなにおいしいぶどう酒を隠しておいたのかというほどであったというのです。

 皆さん、この奇跡の話はヨハネによる福音書にしかありません。なぜヨハネだけにしかないのか、一つの伝説のようにして伝わっていたと言われますが、この婚礼の花婿は、福音書を記したヨハネであったと言われています。つまり自分の結婚式で起こったことを記したのではないかと言われます。

 そして、この奇跡によって主イエスが示していることは結婚式が夫婦にとってピークではなく、本当の幸せは水がぶどう酒に代わっていくように、夫婦として過ごす日々、年月、その年月がどんどん幸せになっていく、どんどん喜びとなっていく、あなたがたの幸せはこんなものではない、主なる神が伝える祝福、福音は益々増していくであろうというメッセージがここに込められていることを知って欲しいとヨハネが体験した出来事を、何よりも先に記そうとした主イエスの奇跡の物語ではなかったと思うのです。

 皆さん、書ききれない収めきれない祝福を生きることです。私たちの人生もそのようにして生きることです。そしてそのような人生を求めることだと思います。「私は求めているけれど、私のところにはやって来ません」という方がおられます。その人は本当に求めているでしょうか。祝福は求め続けるところに確かにありますが、しかし宝くじのように、たまたま当たるような仕組みではないと思います。

 先週も申しましたが、「求めなさい。そうすれば与えられる」とあります。「探しなさい、そうすれば見つかる」とあります。「門を叩きなさい、そうすれば、開かれる」とあるのです。「神様、どうぞ私を憐れんで、潤して、書ききれない、収めきれない神様の祝福にあずかり、それを人々と分かち合うことができるようにして下さい」と願い、祈り、求めることです。

 私が牧師になろうと決心した頃、体力も財力も学力もないような自分が、果たして本当に学校に通い切れるだろうか、自分が本当にその気持ちがあるのだろうかと思いながら、決心したことは、受験する前の年の一年、神学校で信徒のための教育講座がありまして、毎週月曜日の夜、一年を通じて授業がありました。この講座はなかなか厳しくて、一年間、一度も休まないか、三年間かけて全部の授業に参加できた人だけが修了書を頂けたのです。

 それで私はとにかく一年で終了証を貰おうと決めて貰えなかったら、入学は止めようと考えたのです。ですから絶対に休まない。そう決めて通って、一度も休まず通い切り修了書を頂けましたので、その年の4月に受験して入れて頂きました。

 神学校に入れて頂いた後でも決心したことは、当時、神学校がオプションのようにして準備していた授業や講座の全部を受けるということでした。オプションとはやっても良いし、やらなくても良いのです。単位認定とは別で、卒業とも直接関係しない、でも一年の夏休みから卒業の年まで、毎年、様々な教会に夏期伝道実習に行かせて頂きました。フィリピンの神学校との交流の、最初の学生として手を上げて行かせて頂きました。病院の患者さんに対する心のケアの為に、直接衣笠病院で行う実習にも手を上げました。

 夏の集中講義にも参加しました。とにかく神学校で用意している学びのほとんど全てをさせて頂きました。

 フィリピンから帰って来てからは、三日も四日も高熱が出て死にそうな目に会いしました。病院では患者さんとの会話記録を夜も寝ないで完成させなければなりませんでした。でも、その一つ一つがやっぱりやって良かったと今でも思います。
 手を上げなければ何もしなくて良いのです。でも求めることですよ。どうぞ、私を収めきれない恵の中に入れて下さいと願い、祈ることです。そしてそのような人生を送り続けるところにこそ大きな祝福があるのではないでしょうか。

 あるとき、主イエスの所に一人の女性がやって来ました。「主よ、ダビデの子よ、どうぞわたしを憐れんでください」と願いました。けれど主は「子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない」と答えたのです。つまり私はまず、身内のものから救いをもたらすためにやってきたのだからと断ったのです。でもその女性は、「それはもっともなことです。でも、子犬でさえ、食卓からこぼれるパンくずは頂くことが出来るのですから、どうぞ私にも」と願ったではありませんか。

 この女性は祝福を貰うまではと必死に食い下がりました。つまり良い言葉ではないと思いますが、自分が「馬鹿」になってまでも、主の祝福を頂こうとしたのです。祝福を得るには、もっと賢く、もっと利口に、もっと優秀にならなければ得られないと思ってはいないでしょうか。
 この世の、利口な生き方をした方が、やっぱり得なのだと思ってはいないでしょうか。世の中の知恵に生きた方がずっと賢いのだと思ってはいないでしょうか。
 
 私たちは否定的なことを言われれば腹が立つのです。あるいは、あの人は分かっていないと思うし、私は分かっていると思うから余計に腹が立ちます。馬鹿になるとは、たとえ否定的なことを言われても、祝福をもって返す。破壊的なことを言われても、恵をもって返すことです。

 そういう馬鹿にこそ、私はなれたらと本当に思います。そう生きることによって収めきれない程の恵のほんの僅かでも自分のものに出来たらと思います。

 そして、更に大切なのは自分のものとして受け取った恵を分かち合うことです。私たちはいつの間にか自分のものは自分のものと大切に取っておいてしまい、時にはしまっておいて、時には隠して、分かちあうことがありません。分かち合うと無くなってしまう、減ってしまうと、思っているからではないでしょうか。ヨハネは「主の恵は収めきれないであろう」と記しました。

 収めきれない程なら、私たちは本当に分かち合えるはずです。そして私も祝福に生き、あなたもそうだと喜びをもって語り合いものです。そのようにして得たものは全て神様あなたから頂いた恵です。と感謝をもって返して行きたいものです。

 お祈りいたしましょう。

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きいてきいて
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