日本キリスト教団 大塚平安教会  

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あなたが御心に留めて下さる

2019-05-19 17:24:15 | 礼拝説教
【詩編8編2~10節】
【ルカによる福音書18章15~18節】


 先日、ある女性の方と話をしておりましたら、血圧が高くて病院に通っているというのです。でも病院の先生が面白い先生で、「あなたね、血圧が高いけれど、どうしたら良いと思う?」と聞かれたというのです。聞かれたので「いや、だから先生、薬を飲んで血圧を下げようとして、ここに来ているのですが」と答えたら、先生が「薬もいいけど、血圧が高いということは、殆どストレスだからね、自分の体に謝って、ごめんね、沢山、体も、心も使いすぎたね。少し休もうね。」と言って、休むことですよ」と言われたというのです。

 どの病院かは聞きませんでしたが、変わっている医者だけど、評判の良い先生だと話しておられました。なるほど、きっと体も心も癒して下さる良い先生だなと思います。皆さんの中にも血圧の高い方おられると思います。大切なところは、薬ではなく、どう休むのかということかもしれません。

 4月の終わりから5月にかけて、私たちの国は、GWでした。国の都合で10連休となりました。休みを喜んだ方、なにも変わらない方、余計忙しかった方、色々とおられたと思います。旅行に、帰省に、という方もおられたと思います。休もうと思って、出かけて余計に疲れたという方もおられたでしょう。

 どうすれば疲れが取れ、休めるのか。寝不足は万病の元だとも思いますが、ゆっくりした時間を過ごせば良いというものでもないと思います。運動不足の方は少し体を動かした方が、逆に体がほぐれて疲れが取れるということもあるでしょう。祈りを捧げている時間が、一番疲れが取れるという方もおられるでしょう。

 今、水曜日に行われる夜の祈祷会ではコリントの信徒への手紙という箇所を読んでいます。御言葉を読み、賛美を共にして祈る。本当に疲れの取れる良い時間を過ごさせて頂いていますが、先週の水曜日は、こういう御言葉を読みました。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」

 見えるものと、見えないものがあるとパウロは記しています。見えるものとは、言ってみれば、この世であり、現代社会であり、日常生活であると考えても良いのではないでしょうか。あるいは、人が作った環境、人工物と言っても良いかもしれません。

 このGWに小さいお子さんがおられる家族とかは、アミューズメントパークとか、レジャーランドと呼ばれる子どもにとっては楽しい所に行かれた方もおられると思いますが、大抵の場合、親はすっかり疲れたりするものです。人が作った目に見えるものは、どうもストレスとか疲れが溜まりやすいのかもしれません。

 だから、見えないものに目を注ぐ、見えないものとは何かというと、人ではなく、神が作られた世界に目を注ぐということではないでしょうか。

 先日、GWが終わって、海外から帰省してきた人を空港で捕まえてインタビューしているテレビを見ました。その中に3人の大学生がいて、アメリカに行って、レンタカーを借りて、アメリカからメキシコへと何日もかけて走破したというのです。そのビデオを見せてくれまして、そこに映っていたのは、決して日本では見ることが出来ない、緑が少ないけれど砂漠とも違う、荒れ野と言っても良いかもしれない、少なくとも決して人が作ったものではない、山、谷、崖の中に、人が作った道があって、そこを走っていく、ですから道に迷うことも無いでしょうけれど、もともとのアメリカの原風景であろうと思われる映像が映っていたり、走っている道の途中にバイソンと呼ばれる大きな野生の牛の群れと遭遇したり、その中を、実に楽しそうにしている3人の姿がありました。  

 アメリカの自然の風景もバイソンも、実際、目に見えるものですけれど、でも、それは、決して人が作ることは出来ない、いわば神の御手によって作られたものであって、目に見えるものの先にある、目に見えない大いなる方、主なる神の圧倒的な業に接するような時に、私たちはそこに誠の安らぎを、平安を感じるのではないのかと思うのです。

 先ほど、詩編の8編を読んで頂きました。4節にこう記されてあります。「あなたの天を、あなたの指の業を わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。」詩編8章は、朝の詩編というよりは、夜の詩編とも呼ばれます。

 始まりではなく、充実した一日過ごし、夜となり神に感謝して、夜空を見上げている。その夜空には満天の星と、月とがしっかりと見えている。その空を見上げて、神様、なんとあなたのお造りになったものは美しいのかと感動する。人は感動して、時には泣いたり、心から喜び、笑ったりした後には、何かスッキリして新しい力が出て来るものですが、そのような時を過ごしているように私は思います。

 そしてさらに、その後にこう続きます。「そのあなたが御心に留めてくださるとは 人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。」月も星も、つまり宇宙もこの地球も自然も全て神の御手によって作られた。

 創造主である方が、この私たちを御心に留めて下さり、私たちを作って下さったというのです。そこに詩編の作者は感動を覚えているのだと思います。

 今日は母の日礼拝でありまして、子どもの教会の礼拝は年に一度のスペシャル・ファミリーを開催しました。多くのご家族の皆さんが集って下さって礼拝を守り、礼拝後は記念に家族写真を撮りました。子どもたちの笑顔は何によって、笑顔になるのか、やっぱり、母親の手の中に抱かれている時、母親の膝の上に乗っている時、母親と手をつないで歩いている時、何よりもの幸せを感じるのではないでしょうか。
 私たちが幾つになったとしても、子どもの頃の母親との幸せな時間、いわば人生の幸せの原風景を決して忘れるものではないと思います。

 誰よりも母親が、恐らく父親では決してかなわない、母親ならではの、自分の全てを母親が御心に留めている、そのことを少しも疑わず、いや、疑うことすら思い浮かばないほど、母親の愛の中に抱かれている。休日にどこかに行こうと、行かないとしても、どちらにしても愛の中に包まれていると思う時間が、人の疲れを取り癒すのであろうと思うのです。


 けれど、そのような母の愛に勝る神の愛がある。その愛を聖書は記しています。主イエスは「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」と弟子たちに教えました。
子供たちとは、私たちのことですよ。私たち一人一人が神の子供です。どんなに愛する、素敵な母親だとしても、いや、素敵であればあるほどにそのような母もまた、自分は神の子であり、神に愛されている一人だと言うことを良く理解している人ではないでしょうか。

 私たちは神の愛に包まれている神の子供、神の作品です。皆さん、神は「神に僅かに劣るものとして人を造り」と記されてありますが、人間の体は細胞で出来ています。その細胞の数は、諸説あるようですが60兆だと言われます。60兆の細胞が人間を作っている。その一つ一つの細胞の中心に核と呼ばれる染色体があって、その染色体の中に私たちの遺伝子を司っているDNAがあるそうです。私は難しいことは話しきれませんが、簡単に言えば、DNAとは人間が作られて行くために必要な設計図であって、その中には、遺伝子に関しては凡そ32億の情報があるそうです。書籍でいえば3万冊分だとありました。DNAの32億がどのようにつながっているのか、その繋がりに関しては、現代の科学ですべて解明されているそうです。

 現代の科学ではそこまでは分かっているのだそうです。でも、そこまでは分かっても、繋がりは全て解明できても、なぜそうなっているのか、つまり、先ほど設計図と申しましたが、その設計図を誰が書いたのか、どのようにして書かれたのか、それは、誰もわからないのだそうです。根本的な、究極的なところに至ると誰も分からない。だから、科学者でさえ、その設計図は神が書いたと言ってしまうと、色々都合も悪いのでしょう。具体的には日本の筑波大学の科学者として知られている村上和雄という先生が、「サムシング・グレート」という名前を使って説明しました。つまり、人の力を越えたところにある大いなる力、偉大な働きだと説明したそうです。

 詩編の作者は月を見て、星を見て、その夜空を見て感動して、あなたが配置なさったものと告げ、「そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。」

 私たちは何ものか。答えははっきりしています。この世の天地万物、宇宙と呼ばれる人の思いを遥かに超えてる大きな世界を作られ、また、60兆もの細胞のその核にある染色体、さらにDNA、どれほど小さな世界であるのか良くわからないほどの小さなものを綺麗に配置されて人を創造される神が、愛する御子イエス・キリストをこの世に送って下さったほどに、御心に留めて下さっている神の子であり、神の作品だということです。

 作品とは他にはない、たった一つのものという意味です。今日の週報の表紙は、カーネーションの絵が印刷されているのを気がつかれたでしょう。それは、先週私がパソコンで作ってみたものです。思いの他大変でした。けれど、誰のものでもない自分のものだと思うと、多少下手であろうとも愛を感じます。苦労すれば、苦労した分の愛情が注ぎ込まれるのです。この世に生きる私たち一人一人の姿、形、その生きざま、人生はそれぞれに違います。でも、大切なことは、それぞれに神様に与えられている使命、役割があると思います。カーネーションの絵も暇だから作ったわけではありません。なんとか週報のこの箇所に、他のどこにも無い、この教会ならではのものを考えました。こんな絵でさえも、与えられた使命があるように、この世に命が与えられ、今を生きている私たち一人一人に生きる意味があり、役割があり、使命があるのです。

 月や星を神様が適当に大体こんなものだと思いながら作られたのではなく、きっと、全てのものが良いようにとその位置を決め、その役割が与えられているように、なぜ、私は、こんな家に生まれたのかな、どうして、わたしは経済的に恵まれていないのかな、なんでこんなにひ弱な体なのかな、なんで、わたしは度胸が無いかな、でもね、一人一人が神の作品ですよ。

 神様は、誰とも違うあなたを、わたしを、御心に留めて命を与え、人生を与え、家族を与え、母を与えて下さいました。

 なぜ、私たちは毎週、日曜日に教会に、礼拝にやって来るのか、それは、神の子だからですよ。この世に住んでいますと、皆と同じが良い、皆と違うとかっこ悪いと思うのです。この世の価値観で物事を考えることが良い、みんなと違うとなにか寂しいと思わされてしまう。そういう世界です。

 でも、そうじゃない。私たちは、誰とも違う自分自身であって、そして、それがどんなに良かったか、どんなに嬉しいか、それがどんなにか自分の喜びであるかを知る時、人生の様々な疲れやストレスをも吹っ飛ばして生きていける、そんな力が与えられるそれがこの場所であって、それを主なる神もまた、どんなに誇らしげに思うでしょうか。

 何度か話していますけれども、私たちの教会と深い関係のある知的障害者支援施設である綾瀬ホーム、さがみのホームで私は礼拝をさせていただいています。毎週話をする。話している意味や、内容を分かって聞いている人は、恐らくそんなに多くは無いと思われます。でも、分かっている人もおられますから、一生懸命にさせていただいています。でも、話がうまくまとまらなかったり、抽象的な話や、説明だったりだと、明らかに飽きて来ているのが分かります。我慢しませんからね。
 でも、そんな時は、話を代えて、神様はそのままのあなた、そのあなたを愛しておられて、必要だよと言っておられ、大切な一人一人だよ、と話し始めると、凄く集中して下さるのです。どんなにか、その言葉を待っているかよく分かります。そして、どんなにか、その言葉を聞きたくて、聞きたくて礼拝に集まって下さっているかもよく分かります。

 皆さん、私は私で良かった。このままのこの私を神様が御心に留めて下さっている、そして、だから他の人ではない自分ならでの人生を共々に、喜びをもって歩んで参りましょう。



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