日本キリスト教団 大塚平安教会  

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聖霊を受けなさい。

2018-04-08 18:52:19 | 礼拝説教
【コリントの信徒への手紙二 4章7~18節】
【ヨハネによる福音書20章19~23節】

 ある著名な先生の本を読んでおりましたら、信仰について記してありまして、信仰には二つの形があるとありました。 (「中断される人生」近藤勝彦著 教文館)

 一つの形は「~であること」を信じるという形、例えばコリントの信徒への手紙一15章にこうあります。「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたこと」~であることを信じる。「出来事の信仰」と表現してありました。これが一つ目。
 二つ目は出来事ではなく、人を信じる、つまり「よみがえられた方」を信じる、信仰の形があるとありました。
 
 この二つ、出来事を知って信じる信仰、そして、その出来事によってよみがえられた方を信じる信仰、どちらかが、大切ということではなく、その二つともが大切なのだとありました。

 今日はヨハネによる福音書の20章から読みましたが、「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」とあります。ここに記されている弟子たちの姿は「出来事の信仰」というよりは、出来事に翻弄されている姿であろうと思います。
 自分たちの師匠であったイエス様が、何が悪かったのか、何が悪くなかったのかもよくわからなかったと思います。けれど、はっきりわかっているのは、主が捕らえられたこと、裁判にかけられたこと、十字架刑となったこと、そして死んだということです。
 弟子たちは主イエスを失い、もはや夢も、希望も無いと嘆いていただけでもなく、それどころか、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた、とあります。つまりは隠れていたということです。イエス様が何の罪なのか実際のところは分からない、けれど、イエス様が捕えられたならば、弟子である自分たちも捕まってしまうかもしれないと思うと食事も喉を通らない、体も震え、心も震え、せめて今は誰にも見つからないように、じっとしていたのでしょう。
 せめて自分達の身の安全だけでも確保しなければ。もう完全に後ろ向きの姿勢です。朝に主イエスの墓に向かっていき、そこで復活の主イエスを告げ知らせを聞いた女性たちと正反対のような、そんな印象も受けます。
 
 そのように、一連の出来事に恐れを感じ、震えていた弟子達のもとに、復活された主イエスが現れてくださいました。「あなたがたに平和があるように。」この言葉はヘブライ語ではシャロームです。平和の挨拶です。シャローム、平和があるようにと主は弟子たちに声をかけます。弟子達は主を見て喜んだとありますが、驚きや戸惑い、困惑、恐れと言った様々な思いが一瞬の内に、心を駆け巡ったでありましょう。

 そこで、再び21節で主がシャロームと言われました。もう大丈夫だ、安心して、平安を持ってこの部屋から出て行きなさい。そんな思いを込めて話しかけられました。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
 遣わすとは一人ひとり主イエスの復活を宣べ伝える者として遣わすということです。しかし、ただ遣わすわけでもありません。
 「あなたがたを遣わす」と言ってから、彼らに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい。」聖霊を受けるということは大切なことです。聖霊を受けることによって、出来事の信仰から、復活された方を信じる信仰へと人は導かれていくのだと私は思います。
 
 先週の一週間、私は入学式が続きました。月曜日にはS兄が入学された日本聖書神学校に、水曜日にはT兄が入学された農村伝道神学校に行ってきました。本当は火曜日が家内の弟が入学した東京神学大学の入学式でした。そこはどうしようかと迷ったのですが、行きませんでした。でも、後で思いました。全員が同じ神学校に入ってもらえたら(笑)一回で済んだのに。(笑)
 まあ、それでも、それぞれとても和やかな、笑顔の溢れる入学式であったと思います。式の後、祝会が開かれまして、入学された方々が一言ずつ今の思いを話しておられまして、これまでの仕事に区切りをつけて入られた方もおられましたし、神学校に入るために何年か働いて、学費を貯めて入りましたと話された方もおられました。とにかく皆さんが笑顔で良かったと思いました。

 でも不思議なことに私は、どこかで、なんで神学校に入ろうと思うのかな、よりによって神学校に入ろうって思うんだな。そんなことを思っておりました。そして、そう思いながら自分はどうだったのかとも考えていました。
 
 私自身のことを申し上げれば、今思いましても、もうこの道以外の道はないという思いだったと思います。
 それでもきっと周りから見れば、なんでそう思うかな、と思ってみられていただろうと思います。入試のペーパーの試験が終わりまして、その日のうちにでしたか面接がありまして、私が一人座って、先生方が取り囲んで話をされる、なぜ、神学校に入ろうと考えたのですか、必ず質問される問いかけです。実際のところ、何をどう話したのかはよく覚えておりません。

 けれど、覚えているのは、私が一生懸命に話している言葉を、当時の教授をされておられた今橋朗先生が懸命にとりなしてくださったということです。きっと入試の成績が良かったわけでもなく、それほど見込みがあるとも思えなかっただろうと思われるのに、今橋先生がなぜか懸命に支えて下さった。その後も実際はずっとお世話になった先生でありましたが、とにかく合格させていただき、今があるわけです。

 当時、私は教会に通うようになって、3年か4年目程でした。ですから、聖書について何かわかっていたわけでもありません。今でも似たようなものです。でも、今思い返しますと、面接を覚えていないと申しましたが、その時、一つのことは言ったと思うのです。それは「神の招きを感じました」といった言葉であったと思います。神様が自分をこの道へと招いておられると信じて入学したいと思いました、そう言ったように思うのです。

 そして、先週、神学校の入学式に出席させて頂いて、改めて思いますのは、神学校が、神学生になりたいと思っている方に求めている言葉があって、それが、きっと「神に招かれました」という一言ではないかと思うのです。

 神の招きとは、具体的には「聖霊を受ける」ということです。聖書を読みながら、あるいは説教を聞きながら、私たちは「出来事の信仰」を積み重ねることは出来ます。聖書には、「キリストが私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、三日目に復活されたこと」が記されています。そのようにして、私たちは聖書から神の愛を知ることは出来るでしょう。でも、それだけでも足りないのです。もっと具体的な、主なる神の招きが必要なのだと思います。

24節以降の箇所では、弟子の一人であるトマスが登場します。トマスは、弟子たちのもとに復活の主が現れて下さった時、そこにはおりませんでした。ですから弟子たちが喜んで、主は復活されたと話をしても、トマスはどうしても信じられないのです。どんなに「出来事」を聞くとしても、それだけでは納得できないのです。だから、主はトマスのところにも現れて下さいました。そして、トマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と話された時、トマスはただ一言ですよ。「わたしの主、わたしの神よ。」 

 でも、この一言で十分だと私は思います。トマスもまた、出来事の信仰だけでなく、招いてくださる方との出会いを経験したからです。すなわち、聖霊を受ける経験をしたと言ってもよいでしょう。聖霊を受ける、それは神の招きです。そして、さらに言うならば、神の招きとは何も牧師になるだけのものでもありません。聖霊を受けるとは、あの道この道ということではなく一つの道が定められるということです。

 今日は、これから幼稚園の教職員の皆様に対して任職式を行いますが、このような任職式を礼拝で行うのは、キリスト教主義の幼稚園だからです。キリスト教主義の幼稚園は、他の幼稚園とどこが違うのか、子ども達に対する眼差しが特別に違いますと言ったとしたら、他の幼稚園が怒り出すでしょう。幼稚園の設備を自慢しようとしたら、他の幼稚園はもっと自慢することでしょう。延長保育や、夏期保育といったサービス面を強調しようとしても、もっと優れたサービスを行っている園は沢山あるでしょう。
 どこが、他の園と違うのか?私はこの幼稚園の教職員となっていただくための、先生方の心に必要な思いは、やはり「神の招き」であると思います。先生方は世の中に沢山の幼稚園がある中で、ドレーパー記念幼稚園と関わりを持つことになられた。それはもしかしたら、給与面とか、待遇面で考えられたのかもしれません。けれど、それらの一切を含めて、なお、神が招いておられる。

 復活された主イエスが、皆さんを招いておられるということを是非、覚えておいていただきたいと思うのです。

 神に招かれるとどうなるのか、招きと共に派遣があります。復活の主は弟子たちに「私はあなたがたを遣わす」と言って、彼らに息をふきかけて言われました。「聖霊を受けなさい。」今日のこの聖書箇所は、神の招きと派遣の出来事が記されています。
 聖霊を受けて、聖霊に満たされるとどうなるのか、多くのことに振り回されなくなります。

 私たちは、それぞれに悩みを抱えています。家族のこと、妻のこと、夫のこと、子どもの事、病気のこと、勉強のこと、人間関係のこと、そして、お金のこと、数えればいくらでも出てくる、つまり、振り回されるのです。振り回されるとは、不自由に生きているということです。
 でも、聖霊に満たされると、そういった不自由から解放されて自由に生きることが出来ると聖書は記しているのです。

 コリントの信徒への手紙4章7節から読みましたが、8節にはこうありました「わたしたちは四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打倒されても滅ぼされない。」その1ページ前の3章17節の御言葉にはこうあります。「ここでいう主とは、霊のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。」主の霊がおられるところには、不自由ではなく、自由があるのです。どういう自由でしょうか。
 
 振り回されるとは不自由、不自由とは、囚われるということなのです。あの人のあの言葉で傷ついた、夜も寝られない、胃も痛くなってきたと、人は囚われていって、随分と不自由な人生を送るようです。囚われない為にはどうするのか、その不自由に振り回されていることに気が付いて、振り回されるのではなく、しっかりと向かっていくことです。病気なら病気に、人間関係なら人間関係に振り回されるのではなく、そこにしっかりと向かっていける、そういう自由があるのではないでしょうか。そしてそのような生き方が、人をしっかりと引き付け、あの人には安心があるなと感じられる方に、既にこの教会の皆さんは、そうなられていますが、更に「四方から苦しめられても行き詰らない、途方に暮れても失望しない、虐げられても見捨てられず、打倒されても滅ぼされない。」そのように生きる為には、心が聖霊で十分に満たされ、溢れんばかりの聖霊の力で満たされて、聖霊がこぼれ落ちる程の思いでもって、物事の一つ一つにあたることです。
それは、教会も幼稚園も少しも変わりが無いと思います。

 そして聖霊に満たされると、どうなるのか、二つ目は、人間になるということです。人となることが出来る。創世記にありますように、神様は言葉で世界を作られました。光あれと言ったら光があったように、天と水が分かれよと言うと、そうなったように、全ては主なる神の言葉によって作られていったのです。けれど人間だけは違います。

 人は、土の塵で作られ、そして神がご自分の息を人間の鼻に吹き入れられると、人はアダムに、つまり人間になったのです。人だけが神の霊によって命を得たのです。ですから私達は例えるならば、私たち自身が「神の宮」です。私達自身が礼拝堂であり、土の器でありながらしかし、その器は神様が作られた大切な作品であって、そして、その作品として自分たちがどのように聖霊に満たされて、神から与えられた宝物を、それぞれに与えられたタラント、才能、能力を、生かすのか、それが私たちに託されている私たちの役割ではないでしょうか。

 器というのは、目的があって作られます。小さな盃には盃としての役割があり、お茶碗にはお茶碗としての役割があり、花瓶には花瓶の役割があって、それぞれ、盃が花瓶になろうとしても、おかしなことなり、花瓶が盃の役割を果たすことが出来ないように、私たちは、私なりの、あなたなりの役割があってこの命を生かされているのです。聖霊を受けなさい。と主イエスは弟子達に言われました。その後、弟子たちはしっかりと聖霊を受け、聖霊に満たされて、主の御言葉を告げる器として歩み始めました。

 私達もまた、それぞれの方が、それぞれの器として、それぞれの生き方によって、神の器として素敵に生きて参りましょう。そして、復活の主イエスを宣べ伝えて参りましょう。 お祈りします。
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