日本キリスト教団 大塚平安教会 

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平和をこそ、語る方

2021-08-01 10:11:39 | 礼拝説教
【詩編120編1~7節】
【ルカによる福音書4章16~21節】


 昨日の7月31日、神奈川県の巡回教師であり、二年前の6月に大塚平安教会の伝道礼拝説教を担ってくださった関田寛雄先生が一冊の本を出版されました。「目はかすまず 気力は失せず」というタイトルで、「講演、論考、説教」というサブタイトルが付けられています。
 
 関田先生は、私も直接神学校で教わった先生でもありますが、私達の教会ではシルバさん家族の行末を心配してくださり、祈り続け、助け続けてくださっている先生です。1928年生まれですから、現在、93歳、尚、現役の牧師として働いておられ、「目はかすまず、気力は失せず」という本を出される、それだけで、私は、励まされ、力付けられる思いがしております。

 最初に「老いを生きるための黙想」という文章がありました。その中で、信仰を持つ者の生き方が記され、直ちに人の「罪」を見つめることの大切さが記してあります。

 主なる神が「光あれ」と告げられ、この世の天地創造が始まります。世の創造主である主なる神と、被造物である私達との間には絶対的な断絶があるにも関わらず、主なる神は、「光あれ」という言葉によって、私達の存在が求められ、命与えられ、人は生きるものとなりました。最初の人として、アダムとエバが造られました。 
しかし、聖書はアダムとエバを通して、人間の「罪」を鋭く指摘することになります。関田先生の文章をそのまま引用しますとこうあります。

「周知のように楽園におけるアダムとエバの物語に象徴的に描かれている堕罪の現実は、人を「独り」にさせている。神の戒めに背いた二人は互いに隠し合いの関係に入り、神への背きの罪を他に転嫁し、アダムはエバのせいに、エバは蛇のせいにする。それはとりも直さず創造主への転嫁となる。」とあります。

「そこにこそ後代に「原罪」と称されるに至った人間のエゴイズムという罪の現実が生じた。」と続いています。

 関田先生は、人には「罪」があることを伝えつつ、その「罪」をこそ、信仰を持つ者がどう捉えようとするのかが問われているのと伝えたいのだろうと、思います。

 話は変わりますが、最近、私は、海老名の北部公園で朝6時30分のラジオ体操に参加するようになりました。毎日30~40人程の方々が集まっています。今は特段に人と人との距離に気を付けて行っていますが、毎日やっていますと、不思議な事に大体自分がいる場所が決まってくるわけです。私の前に一人の年配の男性の方がおられて、私はその方の後ろが定位置なわけです。なぜかそこが開いていまして、私の定位置となりました。
でも、その方が、体操の音楽に合わせて、自分なりの動きをするものですから、私もつられて、二人で皆と違う動きをしてしまう。体操の度に、それがイライラする種で、先日朝ごはんを食べながら、その話を家内にしましたら、「あんた、違う場所に移れば良いでしょう」と言われて、でも、自分の定位置だからと言い訳をしながら気が付きました。
 
 教会の礼拝の席も、普段なら考えないのですけれど、コロナ禍の中、それぞれ席が指定されて順番に座る、本当は嫌かもしれないなぁと思いました。普段なら礼拝に来ると、大体それぞれの方に定位置があって、いつもの方がいつもの席に座るわけですからきっと安心するのだろうと思います。でも、例えば、その定位置に誰かが座っていたりすると、案外ムッとなって、人によっては「すいません、そこ私の席ですから」と言ったりする方がいる、という話が他所の教会ではあると聞いたことがあります。
 
 たかが席一つでも、案外人は、ムッとしたり、前の人にイラっとしたり、気に入らないと思ってみたりするようです。

 関田先生は、「人間のエゴイズムという『罪』」という言葉を用いましたが、そういった自らの内にムッとしたり、イラっとしたりしていくうちに、最初は小さなものでしかなかったのが、次第に大きな苛立ちとなり、不満となり、怒りとなり、相手との関係を見失い、時にはその関係が破壊され、争いとなり平和を見失っていく、そこに人間の「罪」を見るのではないでしょうか。

 関田先生は締めくくりの言葉として「教会という信仰共同体の中においても、平和と共生を求めて運動する仲間の間においても、必ず現れてくる罪の現実があることを私たちは忘れてはならない」と記してありました。

 今日は詩編120編を読みました。120編から134編までのタイトルが「都に上る歌」と記されています。エルサレム神殿に向かって巡礼する人々が口ずさんでいた歌であろうと考えられています。1節の「苦難の中から主を呼ぶと 主はわたしに答えてくださった」という御言葉から始まります。

 この詩編の作者が、置かれていた状況の詳細はよく分かりませんが、巡礼の歌ですから、恐らく何人かでエルサレム神殿詣でのために、旅をしていたのではないでしょうか。120編は、まだ旅の最初だろうと思われますけれど、想像するに、巡礼の旅が始まってすぐ位に仲間同士で争いが起こり、険悪なムードになったのかもしれません。共に、同じ信仰を持って、同じ目的をもって、同じ方向に向かって歩みだした信仰の兄弟、姉妹がエルサレムを目指して、巡礼の旅を始めたのです。
 
 でも、旅が始まり、繰り返されたのは、互いの苛立ちであり、不満であり、争いが起こるのです。なぜでしょうか。きっと誰もが平和を求めて、神に祈る、そういう仲間であったと思われるのに、そこでも争いが起こる。関田先生の言葉を借りれば、そこにこそ「罪の現実」が現れてくるのです。

 教会の平和が崩れる時、それは教会の外からやって来るのではありません。教会は、外からの圧力に対しては案外強いものです。けれど、教会の内側で、争いや戦いが起こると、教会はすぐに危機的になります。正しさと正しさが荒そうからです。
 パウロがコリントの信徒への手紙を記したのは、コリントの教会が、正しさの争いの中で、分裂しそうな教会の状況をなんとか解決したいと思っての事でしたが、私たちは、誰一人として、自分は「間違っている」と思いながら話をする人はいません。
 自分の思いは正しいと、殆ど確信を持って、しかもそれを意識することなく話しているのです。けれど、正しさと正しさが争う時にこそ、本当に気を付けなければなりません。そこに「罪の現実」が現れないようにしなければなりません。

 けれど、人は「罪人」である以上、争いを避けることも出来ません。それも現実だと思います。信仰者なら全てが一致するわけでもありません。
ならば、私たちはどう生きるのか、大切なことは罪の罠に陥るのではなく、和解させてくださる方がおられる、という信仰を持ち続けることではないでしょうか。

 主イエス・キリストが私達の世界に誕生された理由、それは神と人との和解の為でありました。人の世だけでは罪しか見いだせませんでした。だから主イエスは、和解の主として、すなわち、ゆるす方として、そのままの全てを受け入れてくださる方として、私達のところへやって来られました。

 先ほど、ルカによる福音書4章からを読みましたが、主イエスは安息日に会堂にはいられ、聖書を朗読されました。イザヤ書61章の御言葉です。
「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」

 主は御言葉を読み「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき実現した。」と話されました。
解放と、回復と、自由のために、主の恵みを伝えるために、わたしは来たと告げられました。私たちはこの方を見失わないようにしましょう。この方の平和の御言葉を見失わないようにしましょう。時に争いは避けられないとしても、その先に必ず和解の主が働かれ、互いが互いを支え、互いを励まし、互いを祝福し、今よりも、もっとずっと幸いと平和を生きられるようになる。そのような信仰を持って生きて参りましょう。

 今日は教会創立記念日でもあります。大塚平安教会が、この世にあって、ここにこそ平和がある、ここにこそ本当の平和があると、主なる平安を示し続けて参りました。
今、私たちはコロナ禍にあって、社会的には非常に厳しい状況を生きています。不安と恐れに生きています。けれど、そのような中だからこそ、益々教会の存在が光を放ち、希望の基となるように、感謝を持って歩んで参りましょう。

 お祈りします。

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