日本キリスト教団 大塚平安教会 

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喜びで満たされて生きるために

2022-07-17 14:41:01 | 礼拝説教
【ヨハネによる福音書3章22~30節】


 聖書には主イエスのお働きと、十字架と復活の出来事が記される「福音書」が四つあります。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書です。その中で、マルコによる福音書が最初に記されて、次いでマタイ、ルカと続き、最後にヨハネによる福音書が記されたと考えられています。学者の間でもこの順番には異論はありません。

 ですから、ヨハネによる福音書を記したヨハネは、マルコ、マタイ、ルカによる福音書を読んでいたと思われます。読みながら、ヨハネは主イエスを思い起こしつつ、未だ他の福音書には記されていない大切な出来事を記したいと思ったであろうと推察します。例えば、今日、読まれました箇所などは、ヨハネによる福音書のみが記している事柄です。

 何が記されているかというと、バブテスマのヨハネと主イエスとが、ヨルダン川のそう遠くない場所で、互いに人々に対して洗礼を授けていたという内容です。

 この後にバプテスマのヨハネはヘロデ王が自分の兄弟の妻を自分の妻にした、それは神の御心に適っていないと非難しました。それに怒ったヘロデに捕らえられ、その後、剣によって処刑されてしまいます。マタイによる福音書や、マルコによる福音書ではバブテスマのヨハネが捕らえられたことがきっかけとなり、そこから主イエスが世に出られて、福音宣教を始められたように記されていますし、聖書を良く読んでいる方でも、そのように思っているところがあると思います。私も、普段からそのように考えておりました。
 
 けれど、今日の聖書箇所は、確かにそれはその通りであるとしても、ヨハネが投獄される前に、バブテスマのヨハネと主イエスが互いにヨルダン川で人々に対して洗礼を授けていた時期があったことが記されているわけです。ヨハネによる福音書はそのことを丁寧に記しています。

 改めてこれまでの福音書の流れがどうなっていたかというと、もととバブテスマのヨハネが悔い改めの洗礼を授けていた、そこに主イエスがやって来られて、ヨハネから洗礼を受けます。 
その後、主イエスは五人の弟子たちを招き、カナの結婚式での奇跡の後、弟子達と共に過越しの祭りに合わせて、エルサレムに向かい、神殿に入られて、宮清めの業を行われました。具体的には、神殿で売られていた牛や羊を追い出し、両替人の金をまき散らし、台を倒して、「わたしの父の家を商売の家としてはならない」と宣言された出来事がありました。

 その後も主イエスはエルサレムに滞在されて、人々に対して多くのしるしをされました。しるしとは、病人を癒し、困っている人を助け、神の国の福音を宣べ伝えました。その主の働きによって「多くの人々がイエスの名を信じた」とあります。
 今まで、これだけの働き、これだけの奇跡と思われる業を見たことがない、この方は神様から遣わされた特別な方に違いないと信じたのでしょう。
 その業を聞き、あるいはその目で見たと思われる、ファリサイ派であり、議員であり、ニコデモがある夜に主イエスを訪ねて、永遠の命について、神の国の到来について尋ね、あなたは新たに生まれることが必要だと話された場面となります。

 今日読まれた聖書箇所はその後の出来事です。その後主イエスは弟子たちと共にユダヤ地方に行って、人々に洗礼を授けておられました。ユダヤ地方と言っても、エルサレムもユダヤ地方の町ですから、エルサレムからさほど遠くないヨルダン川沿いでであったと思われます。ニコデモに話したように「水と霊とによって新たに生まれ変わる」しるしとしての洗礼の業であったと思われます。
一方でバブテスマのヨハネもまたヨルダン川において「悔い改めの洗礼」を授けていました。そこはサリムの近くのアイノンという場所であったと聖書は記します、アイノンとは「泉」という意味です。サリムはシャロームと関係があるかもしれません。水が豊かであったとありますから、緑も多く、作物も良く育つ、良い土地だったのでしょう。もともと、ヨハネの方がより早くに悔い改めの洗礼の業を初め、主イエスもヨハネから受洗したわけですから、その点からすれば、師匠と弟子という関係ということも出来るでしょう。けれど、二人は、協力し合ってというよりは、それぞれの場所でそれぞれの人々に洗礼を授けていたようです。

 25節を見ますと「ヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった」とあります。あるユダヤ人が誰なのか、どんな立場であったのか分かりません。しかし、数人のユダヤ人とヨハネの弟子たちの間で「清め」のことで、論争が起こった。

 論争の中身も記されていませんので、想像するしかありませんが、例えば、ユダヤ人は歴史的にも主なる神によって選ばれた民であり、神の法である律法が授けられた民であること、またユダヤ人の男性は生まれて七日目に割礼を受け、神の子としてしるしが与えられます。それは神の御前に自らの清さを示すしるしでもありました。そのような私たちがなぜ、改めて洗礼を受けなければならないのか、といったふうな押し問答が繰り返されたのではないでしょうか。
そして、論争する中で、ユダヤ人たちは、主イエスの洗礼の働きに触れて、あなたがたよりも、イエスの方に、多くの人々が洗礼を受けに行っているぞ、と言った話となったのではないでしょうか。

 つまり、ヨハネの弟子たちに対して、「あなたがたの師匠よりも、イエスの方が優れているのではないか」といった言葉を言ったのではないでしょうか。

 弟子とすれば、そう言われたらそれは悔しいものです。私たちでも、自分が尊敬している人、師匠と仰いでいる人がけなされたり、批判されたりすると、それは悔しい思いするのではないでしょうか。「お宅はあの人の弟子か、あの人は大したことないな」などと言われたとしたら、自分が批判されるより腹が立つのではないかと思います。

 弟子たちは悔しかったに違いありません。師匠のヨハネのところに来て言いました。

 「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんがあの人の方へ行っています。」「みんながあの人の方へ行っている」と言うあたり、「みんなが」と「あの人」ですからね。弟子たちの悔しさがにじみ出ていると思うのです。

 その言葉を聞いたヨハネは弟子たちに話しかけました。「天から与えられなければ、人は何も受けることはできない。」この御言葉は大切な御言葉です。
 
 先週も申し上げましたが、水曜日の祈祷会ではヘブライ人への手紙を読んでいます。先週の祈祷会で読みましたのはヘブライ書の11章後半です。そこにはユダヤ人を導いた人々の名前が記されていました。ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエルといった人々の名前が挙げられていました。これらの人々は一時期、イスラエルの民を導いた偉大な指導者です。けれど偉大な指導者でありつつも、それぞれが完全な人ではありませんでした。

 ギデオンはミディアン人との戦いの将軍となり戦い勝利しました。人々はイスラエルを治めてくれるように願いましたが、断りました。ただ主なる神だけが我々を治める。見事な答えです。けれど、その後ギデオンは、平和なイスラエルを取り戻した途端に姦淫にふけるようになり、イスラエルが神から離れる原因を作ってしまいます。
 アモン人との戦いに勝利したエフタは、遊女の子として生まれ、そのことが最後まで尾を引き、家を追い出されることになります。
 サムソンの弱点は髪の毛であったことは良く知られています。ダビデは優れた王でしたけれど、ウリヤの妻バトシェバと関係を持ったことによって罪を犯しました。
 最後の士師であり、最初の預言者と高い評価を受けたサムエルの弱点は子育てに失敗したことでした。
 
 それぞれが優れた賜物を持つと同時に、それぞれが弱点を持ち、欠けのある人生を歩んだとも言えます。そのように、人はそれぞれに、天から与えられる賜物があり、同時に与えられなければ、受け取ることは出来ないのです。それは、現代を生きる私たちも同じことです。
 ヨハネは、そのことを弟子達に伝えたのです。自分には自分の役割があって、「自分はメシアではない」と言い、「自分はあの方の前に遣わされた者なのだ」と言ったはずではないか。
 
 ヨハネ福音書1章23節の言葉を用いれば、「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。「主に道をまっすぐにせよ」と叫ぶその声としての役割が与えられている。それがが、天から与えられた私の人生である」と伝えたのです。
 29節では「花嫁と花婿」の話が記されていますが、花婿は主イエスを意味して、花嫁は、主イエスを宣べ伝える教会と言っても良いでしょう。ヨハネ自身は、花婿の介添人、仲人のような存在、それが私なのだと伝えます。
 そして、その役割を「大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。」と伝えているのです。
 
 ヨハネは自分の役割を、喜びを持って生きていた人でありました。

 牧師という働きの中心は、主イエス・キリストの福音、十字架と復活の主を宣べ伝え続けることに尽きます。けれど、一年のうちに何人を導くことが出来ているのか、と自分を振り返るとまさに能力の無さを感じます。
多くの著作を記す牧師もいれば、何十、何百という人々を導く牧師もいます。つい比べてしまうと、なんと情けない、そう思う所に自分がいるのです。でも、それでも自分に対しても天が与えてくださった賜物があり、その賜物によってあなたは生きていきなさい。」ときっと伝えてくださっているだろう、と信じて歩み続けるしかありません。
 「しかありません」ではなく、バブテスマのヨハネのように「わたしは喜びで満たされている」という思いをもって歩むべきでありましょう。
 
 皆さん、それは牧師にかぎることでもありません。皆さんもまた、天から与えられている確かな、また、豊かな、あなたにだけ与えられている賜物があり、そしてそれを豊かに生かすことを主は願っていいます。
 自分に与えられた人生を大いに喜び、喜びで満たされる人生を歩んで参りましょう。

 お祈りします。
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