日本キリスト教団 大塚平安教会 

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神が遣わされた方

2022-09-25 15:21:36 | 礼拝説教
【創世記24章1~8節】
 

(創世記24章1~8節】
【ヨハネによる福音書5章31~40節】


 今年度ヨハネによる福音書を読み始めていますが、今5章を読んでおります。出来事の発端はユダヤ人の祭りの際に、主イエスと弟子たちがエルサレムに上られた。しかし5章は祭りとか神殿においてということではなく、エルサレムからわずかに離れた所に「ベトザタの池」と呼ばれる場所がありました。池の水が動いた時に、最初に入れた人の病は治ると信じられていて、大勢の病人がその池に入りたいと願って集まっていたわけでありました。
 
 そのベトザタの池を主イエスが訪れ、38年間、病で苦しんでいた人に対して、癒しの業を成されました。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」そう言われた彼は突然に健康が与えられたことを感じたのでしょう。元気になり床を担いで歩き出したのです。彼からすればそれがどれほどの喜びであったかと思います。

 けれど、問題はその日は安息日でありました。安息日は労働をしてはいけないと定めされていた日です。床を担いで歩いていた彼を見つけたユダヤ人、ファリサイ派の人々が「今日は安息日である、床を担いで歩くのは律法で許されていない。」と彼に告げました。この言葉は先週も申し上げましたが、淋しい言葉だと思います。
 本来なら、「お前良かったな~、病気が治ったのか。信じられないよ。神様を賛美しよう」と言うべき所ではなかったでしょうか。38年もの間、彼にとってみれば、一日でさえ真の安息を生きることが出来なかった人生に、真の安息がもたらされたことを喜べ会えたらどんなに良かったかと思うのです。

 けれど、ユダヤ人たちは、癒された彼を見るのではなく、担いだ床を見て、安息日違反だと告げたわけでありました。
 その後、癒された彼はどこに行ったかと言えば神殿です。38年もの間、一度も神殿の門をくぐったこともなかったでしょう。それが出来るようになったわけですから、喜んで神殿に向かったことでしょう。そして、そこで主イエスと再会して、彼はユダヤ人に自分を癒してくださったのはイエスであると告げたわけでありました。
 聞いたユダヤ人たちは、主イエスのもとへやって来ました。なぜ安息日にこのようなことをしたのかと問い詰めました。主イエスはその様子を御覧になってお答えになりました。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」
 
その言葉を聞いた、ユダヤ人たちはますますイエスを殺そうとねらうようになったと聖書に記されています。
 「ますます」とは前から殺したいと思っていたということです。ヨハネによる福音書の2章13節からの箇所には、主イエスが過越しの祭りの際に、エルサレムに上り、神殿に入られた時の様子が記されています。
 神殿に入った主イエスは、境内の中で羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちと御覧になって、縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、台を倒して、「わたしの父の家を商売の家としてはならない」と宣言されました。
 その様子は、多くの民衆からは受け入れられたと思われますが、しかし神殿や、関わりを持つ祭司、ファリサイ派、サドカイ派と言った人々は、この時から主イエスの命を狙うようになったと思われます。

 今回主イエスは「わたしの父は今も働いておられる」と宣言されたし、安息日違反はするし、父なる神をわたしの父と言う。なんと神を冒涜した言葉であろうか、ますますイエスを殺そうと狙うようになったのです。

 それに対して、主イエスは毅然とした態度で、一歩も引かず、御自分は父なる神から遣わされ、父なる神と同じ権威を持ち、その行いにおいて神と一体であり、その愛において神と一体であり、人の死と命において神と一体であり、裁きにおいて神と一体であり、すなわち、自らを神と等しく、また神の代理人であることを宣言されるに至ります。それが19節から30節です。
 今日、読んでいただいた5章31節からの箇所は「イエスについての証し」というタイトルが付けられています。
 主イエスみずからが神と等しく、神から遣わされた神の代理人であることを証ししている人、証ししているものをここでは四つ示されました。

 一つ目は33節に記されているバブテスマのヨハネです。「あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした」とあります。1章29節からの箇所ではヨハネが主イエスについて証ししている場面が記されています。29節を読みますと「ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」30節には「わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである」とわたしが言ったのは、この方のことである。」
 そのようにバプテスマのヨハネは主イエスを証ししました。当時人々は、ヨハネの働きを喜び、受け入れていた経緯もあります。あなた方が受け入れていたヨハネは私を証ししていることをあなたたちは知っているだろうと言っているわけです。

 二つ目は36節です。「ヨハネにまさる証し」として父なる神が成し遂げるようとお与えになった業そのものが、父がわたしを遣わしたことを証ししていると告げました。主イエス・キリストは、これまで人々に対して多くのしるし、その業を行われました。
 この騒動の発端は「ベトザタの池」で38年もの間、病気で苦しんでいた人が癒された、そしるしから始まります。4章には王の役人の息子を癒された、というしるしもあります。その他にも、主イエスは、様々なしるしを人々に示されました。そのしるしこそヨハネにまさる証しだというのです。主イエスが神の子であると証ししているのだと言ったわけです。

 三つ目は37節です。主イエスが行った業を越える証しとして「わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。」主イエスは、バブテスマのヨハネのもとで洗礼を受けられました。洗礼を受けた時、バブテスマのヨハネは、霊が鳩のように降って、この方の上にとどまるのを見ました。その時主イエスの耳には「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたのです。主イエスは地上にあって父なる神のみ声を聞くに値する神のみ子であることがわかります。

 四つ目は39節です。「あなたたちは聖書の中に、永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しするものだ。」聖書とは旧約聖書です。主イエスが神の遣いとして、神の代理人として、全権大使として、人の世に誕生された、それはなにより聖書が示しているではないか、と告げられました。
 
 先ほど、旧約聖書の創世記24章を読んでいただきました。アブラハムが息子イサクの嫁をどうしようかと考えて、全財産を任せてある年寄りの僕に相談した場面です。アブラハムが僕に語り掛けました。「あなたはわたしの息子の嫁をわたしが今住んでいるカナンの娘から取るのではなく、わたしの一族のいる故郷へ行って、嫁を息子イサクのために連れて来るように。」僕は「もしかすると、その娘がわたしに従ってこの土地に来たくないと言うかもしれません。その場合には、御子息をあなたの故郷にお連れして良いでしょうか。」アブラハムは「決して、息子をあちらへ行かせてはならない。」と告げました。アブラハムはイサクを手放したくなかったのだろうと思います。
 僕は、その言葉を受けて、アブラハムの全権大使として、全てを任された者として、アブラハムの故郷に向かい、その役割を果たし、イサクの嫁となるリベカと出会うことになるわけです。全てを任せられるとはこういうことでしょう。

 聖書はアブラハムを信仰の父として、イスラエルの先祖として記します。アブラハムを通して神様が働いてくださったことを私たちは知っています。聖書は更にアブラハムの息子であるイサク、イサクの息子であるヤコブ、ヤコブの息子であるヨセフ、そして出エジプト記では、神から遣わされた者としてモーセが登場します。神はモーセを通してイスラエルの民をエジプトから解放し、イスラエルを神の子であり、自由の民としてくださいました。
 聖書に登場する信仰の先達、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、それからエリヤ、イザヤ、エレミヤといった預言者、その一人ひとりも言ってみれば神から遣わされた一人一人です。けれど、彼らは信仰者として生きた一人一人でした。その生涯を通じて、父なる神の約束の物をまだ与えられないけれど、遥かに望みながら生き、そして召された一人一人でありました。そして彼らの全ての信仰は、主イエス・キリストを指し示していたわけであります。
 
 もう一度39節を読みます。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」
 
 聖書を学んでいるあなたがたよ、その聖書こそ、私を証しするのだと主イエスは告げるのです。今、主イエスはユダヤ人、ファリサイ派のいきり立った人々に囲まれ、安息日になぜ労働をするのか、なぜ「わたしの父」と言えるのかと迫られ、裁かれています。しかも、その場所は神殿です。言ってみれば彼らのホームであり、主イエスはアウェイで裁かれているように思える場面なのです。
けれど、ここに至り、主イエスは自らを証しする者として、バブテスマのヨハネ、特別な業、父なる神の声、そして聖書と立て続けに話しをされて、裁かれていたはずの立場が逆転して主イエスが彼らを裁いている状況となっているようにも見えます。
 主イエスは自らを、神の子として、神から遣わされた者として、神その者として証しされました。少しも臆することなく話をされました。私たちはこの方をこそ、私たちの救い主として受け入れる、その信仰が求められているのだと思います。
 とはいえ、私たちの信仰はそれほど強いわけではありません。今日は大丈夫だと思っても、明日には不安となり、明後日には悩みとなるような、自分の信仰でさえ、自分では支えきれないでいるようなものです。

 でも、そのような私たちを、愛を持って支え続けておられるのも主イエス・キリストです。父なる神と子なる神とが愛をもって私たちを守っておられる。自分達にはどのような時にも、働いておられる神がおられる。このことだけは忘れないように生きていきましょう。

 最後にローマの信徒への手紙8章38節をお読みいたします。
 「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
  
お祈りします。
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