日本キリスト教団 大塚平安教会 

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あなたを生かすもの 

2017-03-05 15:39:16 | 礼拝説教

【ヤコブの手紙1章12~18節・マタイによる福音書4章1~11節】 

 毎月、月末の月曜日は、町田にあります「M保育園」という園に行きまして、子どもたちや先生方と一緒に礼拝を捧げております。保育園の園長先生とは私が町田におりましたころから、これまで15年程のお付き合いをさせて頂いておりまして、今も月に一度、楽しみにして伺っております。
 先週の2月の末にも伺いましたが、聖書箇所がゲッセマネの祈りの箇所となっていました。

 教会の暦でも3月1日が灰の水曜日から受難節に入りました。主イエス・キリストの十字架へ向かうその苦しみを思いつつ過ごす時期となっておりますが、今年度3月、4月の教団から出されている聖書日課を見てみますとゲッセマネの祈りの箇所は、選ばれていませんので、実際、上手に聖書箇所を選ぶのは難しいのだと思いますけれど、少し残念にも思います。
 保育園に行く道、車で小一時間かかるのですが、その間、ずっと何を話そうかなと考え続けます。考えながら思いついたことは、主イエスが捕らえられる夜に、弟子たちを連れて、ゲッセマネに向かう、そこで一生懸命に祈るわけです。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」と祈る祈りの中に二つの願いがあると気が付きました。

 一つは「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」もう一つは「わたしの願いではなく、御心のままに。」この二つの祈り、最初の祈りは自分の願いであり、次の祈りは神の思い、ですから、子どもたちには祈りは自分の願いを願うのも大事、でも、神さまの思いをしっかりと受け止めるのも大事ですよ、という話をしたわけでありました。
 
 更にその数日後に、ある文章を読んでおりましたら、昨年末に天に召されたカトリックのシスターであった渡辺和子さんが『愛することは許されること』という著書の中にこんな文章があることがわかりました。

 渡辺和子さんが大学の学長をされていた時に、その卒業生から手紙が届いたそうです。その文面に「祈り続けたら、その祈りは必ず神様に届くのでしょうか。私は今、とても切なく、辛いのです」とあったというのです。そこで返事を書いて「祈り続けたならば、その祈りは必ず神様に届くと思います。でも、「届く」ということは必ずしも、願ったことが「叶えられる」ということではありません。と記したそうです。
そして、更にこう文章が続きます。「天の父は、人間が願ったことをそのまま叶えることをもって、ご自分の、その人に対する愛のあかしとはなさらないのです。なぜかといって、私たちはいつも、「欲しいもの」を願っているからであり、神さまが私たちに叶えて下さるのは「必要なもの」だからだと思います。と続きます。

 「祈り続けても、その願いが叶えられない人には「切なく辛い思い」をすることも必要で、しかし、それが本当に必要だったと理解できるのは、まだまだ先のことになるのです。信仰とは、その間の“闇の時間”を、光の存在と信じながら生きることと言ってもよいかも知れません。」と、あるそうです。

 さすがに素敵な文章を記されていると思います。主イエスの「できることなら、この杯を過ぎ去らせてください」と願う、このような自分の願いの祈りを「請求書の祈り」と言うそうです。そして、「わたしの願いではなく、御心のままに。」と神様の思いをと祈るのは「領収書の祈り」と言うのだそうです。私たちは、いや、私などはそうすると「請求書の祈り」ばかりをしているようなものだと思わされます。
 
 とはいえ「わたしの願いではなく、御心のままに」と祈れる祈りになるためには、今、自分達に与えられている状況をどう考え、どう理解しているのかが問われているのだとも思います。
 先ほど、読んで頂いたヤコブの手紙1章13節にはこうあります。「誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑をうけるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。」ここに誘惑と言う言葉がありますが、その前の12節には「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。」とあります。ここに「試練」という言葉もありますけれど、この「試練」と「誘惑」は調べましたら同じ言葉であると分かりました。英語で言うと「temptation」という言葉です。
今から30年以上も前に、本田美奈子さんというアイドル歌手が「テンプテーション、「誘惑」という歌を歌いまして、当時は、大分流行ったのを思い出します。このテンプテーション、同じ言葉で、「試練」とも訳すことが出来ます。

 人は試練に会うとどうするのか、一つは逃げたくなるようです。今、息子の信太朗がスペインで歩いています。桃井和馬先生と仲間10人ほどで一生懸命に歩いていますけれど、既に桃井先生自身が体力の限界を感じているような文章を送って来ていますし、一人の子は、とうとう歩けなくなって、三日間は歩かないようにとドクターストップがかかったとありました。なかなか、大変な旅をしているなと思います。皆さんにも、引き続き祈って頂きたいと思いますが、信太朗の一つの試練は大学1年の後半でした。
 
 1年の後半、11月頃になって、急に学校に行かなくなりました。当初上手にサボれば良いよと、私も笑っていたのですが、12月、1月とついに一回も学校に行かない。期末の試験も受けない、部屋にずっとこもったまま、食事の時には出て来ていましたけれど、それでも私も心配になりまして、本人と真剣に話さなければならないかなと思って、二回ほど話を試みたことがありました、でも、辛いのは親よりも本人ですよ、それは頭ではわかっていても、やっぱり、これからどうするつもりだ、学校に行くのか、辞めるのかと、どうしても問い詰めるような言い方になるのです。すると、「そんなことは分かっている」と叫ぶのです。
 分かっていてもどうしようも無い自分がいて、とにかく、いろんな意味で、今、与えられている状況から逃げたかったのだと思います。でも、2年の春になりまして、再び立ち上がって、逃げないでまたやろう、そう思ったのも自分で、親はもう見守るしかないんだな、そんなことを感じておりました。そんな中で、2年の春過ぎには願って、祈っていましたが、それこそ話しかけたことは無かった信仰告白をしたい。教会に連なりたいと決意をしてくれて、今、こんなに元気に、頑張っている姿は、あの頃からは想像も出来ません。逃げないで踏ん張ってくれて、本当に感謝だと思います。
 
 試練に会うと、どうするのか二つ目は誰かのせいにしようとするということでしょう。「誰も、神に誘惑されている」と言ってはなりません。とありますが、こんな試練を与える神とは、こんな試練が神様のご計画であるとは、なんと酷い神様であろうか、と私たちは、この与えられている状況を神様のせいにさえしてしまうことがあります。
 神のせいにするとは、私たちに与えられている例えば、運命のようなものに負けてしまっているということでしょう。こんな試練、今あるのは、自分の親や、家族のせいである、世の中のせいである、健康や病気でさえも、親のせいにしたり、誰かのせいにしたりして、自分は悪くないとなるのです。自分は悪くないとなると、変わるのは自分以外の周囲であって、自分は変わらなくて良いのです。しかし、それではその人はやはり試練や、誘惑から逃げていて、試練に屈してしまっていると言えるのではないでしょうか。

 試練や誘惑を、しかし、祈りでもって、しかも渡辺和子さん流に言えば「領収書の祈り」でもってしっかりと受け止めて、しかも、受け止めるだけでなく、そこから、更に自分が成長することが出来ますようにと祈っていきたいものだと思います。

 マタイによる福音書の4章という箇所も読んで頂きました。主イエスが荒れ野で試練を受けた場面です。主イエスが霊に導かれて荒れ野に向かわれ、そこで40日間、昼も夜も断食をされました。断食という言葉と受難節、レントという言葉は古いドイツ語で繋がっているようですが、断食された後に空腹を覚えられました。これは色々な意味で疲れを感じ、限界のギリギリにまで来ているのと感じたということでしょう。つまり、心にゆとりがなくなり、隙が出来ていたと言っても良いでしょう。
 
 そういう時を見計らって、誘惑するものがやって来るのです。やって来てまさに誘惑します。「お腹が空いただろう。お前は神の子だから、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」これらの石をパンにと言う言葉は、私たちの国で言えば、お米であり、ご飯ということです。石をコロッケに変えたらどうだとか、焼き鳥にかえたらどうだと言っているのではなく、あなたの命を守り、支えるのに必要なご飯に、またパンに変えたらどうだという意味です。ですから、究極の誘惑だとも言えるのだと思います。けれど、主イエスはそれをされませんでした。なぜか、この言葉が誘惑であると知っていたからです。なぜ、誘惑なのか、石をパンにしてしまうと、そこにおいて神の言葉が忘れられていくからではないでしょうか。

 我が家で猫を飼っていますが、お腹が空いたときにはよく、人の回りをウロウロして、かわいい鳴き声で愛くるしく迫ってきますが、満腹になったとたんに、人のことなどお構いなしで、どこにいるのかも分かりません。勝手だなと思います。けれど、私たちも、もしかしたら神様に対してそんな態度ではないでしょうか。
 人生の空腹の時には、願い、祈るのです。あたかも一杯一杯の請求書のような祈りであるかもしれません。けれど、それが一度落ち着けば、満腹の人生になった時には、神を忘れてしまい領収書の祈りを忘れているのではいでしょうか。

 だから、主イエスは応えられました「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」もとより、先ほどヤコブ書で「神は、悪の誘惑をうけるような方ではない」とありましたが、皆さん、この言葉は何を示しているのでしょうか。私は改めて思います。

 主イエスは、この御言葉によって御自分のこの世の宣教の仕方を明らかにされたのではないかと思います。
それは、主イエスご自身が、私たちの為にその身を捧げて、神と私たちの切れていた関係を執り成し、繋げて下さるという方法です。つまり、イエス様ご自身が手本となり、「神の口から出る一つ一つの言葉」によって、最後の最後まで生き抜かれて行く決意をされたということではないでしょうか。
主イエスは、既にご自分が宣教活動を行うにあたり、御自分が十字架刑を受けることはご存じであったでしょう。だから、このような試練をも自分の思いを確かめるためにも、敢えて受けられたのかもしれません。けれど、十字架に掛けられることが目的ではなく、最後の最後まで神の御言葉によって、主なる神の御心に従うことこそイエス様の宣教の目的ではなかったでしょうか。

 そして、その御心を行う方法は、石をパンに変えることではなく、主イエスご自身がパンとなり、神の御言葉によって、私たちを生かして下さるということであったと思います。ヨハネによる福音書の6章35節で主イエスは宣言されました。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」

 現代の私たちは、自分自身の人生になかなか安心を見出すことが出来ません。
 ご飯を食べる、食事をする、それによって人は確かに生きることは出来ます。けれど本当に、安心と平安の中で、生き生きと生きるために必要なこと、いや私たちを本当に生かして下さるのは「わたしが命のパンである」と言われる主イエス・キリストの、神の御言葉に触れることだと思います。この方の言葉に触れ、この方の生き方を感じることではないでしょうか。そのパンは飢える事がない、渇くことがないと言われる、命の食べ物をこそ私たちは頂きたいと思います。

 昨日、NHKで、心の時代という番組がありました。藤井理恵さんという大阪の病院でチャプレンとして働いている方が出ておられました。実は、この藤井先生のお子さんが山形の高校時代の信太朗と同級生で、これまで何度もお会いしている方ですし、私たち夫婦も昨日、楽しみにしてテレビを拝見しました。病院の特にホスピスにおいて、非常に良い働きをされていることを改めて知らされました。
ホスピスといいますと、もう病気が治らないと宣言されているような方の病室となるわけで、ですから無理な治療はしないのだそうです。しかしまた、緩和療法というのでしょうか。とにかく苦しみを感じないような治療をされる。本来なら痛み、苦しみで辛い状況であるかもしれないのに、上手く痛み、苦しみが緩和してもらえる。しかし、同時に、そうなるとどうしても自分の死にじっくりと考えてしまうというのです。そして、時には藤井先生が呼ばれて、生きることについて、死ぬことについて、色々な話を聞いたり、祈ったりする中で、藤井先生が生きるとはこうだとか、死ぬとはこうだということ以上に、何を告げるのか、聖書に記されている神の御言葉を読むのだそうです。例えば、詩編23編の御言葉「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。たとえ、死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいて下さる。」例えば、ヨハネによる福音書の御言葉「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じるものは、死んでも生きる』このような御言葉に打たれて、死んだ後も尚、永遠の命の中で、家族を見守ることが出来る、そのような希望を見出される方もおられるのです。と話されていました。
皆さん、私たちに与えられている状況はそれぞれでありましょう。けれど、私たちは、沢山の主なる神の御言葉の中で生きています。命与えられて、生かされています。だから、私たちはどんな時でも平安を生きることが出来るのだと思います。私たちは世の友となって、世の中のあのこと、このことに煩わされることなく、何よりも主の御言葉を土台として生きて参りましょう。

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