日本キリスト教団 大塚平安教会 

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永遠に生きるためのパン

2022-11-13 18:46:28 | 礼拝説教
【ヨハネによる福音書6章41~51節】


 先週の木曜日、綾瀬ホームの職員の礼拝で、主イエスが教えてくださった「天に富を積みなさい」という御言葉の箇所をお話しいたしました。山上の説教と呼ばれる箇所に記されていますが、人々に対して、「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は天に積みなさい。」と話されました。私たちは地上の富に関しては、ここで説明するまでもなく、良く知っているところです。もともとユダヤ教の教えでは地上の富は神様の祝福でしたし、神は愛する者を富ませると教えていたそうです。分かりやすい教えです。ユダヤ人は商売が上手だとか、お金持ちだと言われることがありますが、それは宗教的な側面からも言えることかもしれません。

 それでは、天に積む富とはどのような富なのか、職員の皆さんに、一つの文章を紹介しました。
 「年をとって『何ものか』をやめると、その時はもう堂々たる肩書きも内容も失って空虚になる。ところがかつて『誰か』であった人は、最後まで依然として『誰か』である。」という文章です。

 少しわかりづらい表現ですが、年をとって『何ものか』をやめるとは、肩書の事です。例えば「〇〇会社代表取締社長」といった肩書です。それが専務であろうと部長であろうと変わりません。そういった肩書が大切であった人が定年を迎えて、会社を辞めたとしたら、その人はいきなり空虚になってしまうでしょうということです。 
けれど、かつて『誰か』であった人、とは肩書とは関係なく、その人の人柄を意味しています。その人の人柄が愛され、評価されているとしたら、いつ会社を辞めようと、定年で引退しようと、立場は変わろうとも、その人の人格というか内面的価値は少しも変わらないでしょうということです。
 もっと言うと、その人が地上でどの位の富を得たかではなく、どのように生きたかが問われるのではないかと職員の皆さんに話しました。
 
 今ここで申し上げたいことは、更に人がどのように生きたのかということは、その人の心がどこにあるのか、が大切だということです。
 
 一年程前に、ある教会から会堂建築献金の依頼が教会に届きました。あまり良く知る教会ではありませんでした。良く知る教会ですと、義理でも献金を送るわけですが、あまり良く知らない教会ですからね、迷いましたが送ろうと決心して、僅かばかりの献金を献げました。郵便局で手続きをして送った後に、もの凄く清々しく爽快な気持ちになりました。その日一日が気持ち良い、そんな時間を過ごしたことを記憶しています。
更に、たまたまその教会に私を知っている方が礼拝に出席しておりまして、週報に私の名前が掲載されていて嬉しかったです、と家内のメールに来ていたと聞きました。ちゃんとおまけがついて来たわけです。数日前に会堂が完成しましたとお知らせが届きました。
 大切なことは心がどこにあるのかです。献金に限るわけでもなく、義理とか止む無く、仕方ないからは、爽快な気持ちは生まれて来ないでしょう。
爽快で心地良いと思える時、それは自分の心が地上にあるのではなく、天にあるのです。自分の心が天に置かれていると、その人は地上にあって、良くバランスの取れた人生観を生きることが出来るのだと思います。ですから、あなたの心が今どこにあるのか、それが大切です。勿論私たちの心は天にあります。

 先週、私たちは召天者記念礼拝を守りました。多くの皆様が集まってくださいました。その礼拝で私はフィリピの信徒への手紙から「私たちの本国は天にあります」という御言葉を読みました。私たちの本国、私たちの心は信仰によって天にあるのです。そのようになるようにと、また信仰の養いの為に、主なる神は大きな御計画を立ててくださいました。神の御子が人となって、この方の導きによって神の国を指し示してくださろうとしたわけです。
ヨハネによる福音書は、「初めに言があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」という御言葉から始まります。1章14節には「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。」と記されます。

 ロゴスとしての言が、肉となられた。私たちはあと一月ほどで、クリスマスを迎えます。御子イエスの誕生を祝うクリスマスです。なぜ祝うのか、言が受肉して、御子イエスが誕生されたからです。
その方は、使徒信条に記されている通り、聖霊により宿り、処女マリヤから生まれた方であります。私たちの本国である天から地上の国へと降ってくださった方であります。

 本日、先ほど読んでいただいた聖書箇所は、主イエスが「わたしは天から降ってきたパンである」と告げた時、ユダヤ人たちはつぶやき始めたと記されています。なぜつぶやきはじめたのか「これはヨセフの息子イエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今『わたしは天から降って来た』などと言うか」と言ったのです。我々は知っていると言ったのです。

 主イエスが男だけで五千人もの人々に対して、五つのパンと二匹の魚から皆を満腹にして、尚十二の籠に余る程となるしるしをなされた。そのパンと魚を食べて満腹した人の中に主イエスと同じナザレ出身の者が幾人かいたのだと思われます。
 満腹した彼らの中に、主イエスを自分達の王としようと計画した人々がいて、そのメンバーに主イエスを子どもの頃から良く知っていた人も混ざっていたのでしょう。
あいつは弟子などが周りにいて、立派そうに振舞っているけれど、俺はあいつが子どもの頃から知っている。王とするなら俺も一肌脱ごうじゃないか、俺が一言話せば、嫌だとは言わないだろう、などと言っていたかもしれません。周りの人々もそんな人を頼りにしたかもしれない。
 
主イエスを追って舟に乗り、カファルナウムまで追いかけて、話をしてみると、主は、「わたしのもとに来る者はけっして飢えることなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」なぜなら「わたしが命のパン」であり「わたしは天から降ってきたパン」だからだと話されました。天から降ってきたと言ったのです。だから彼らはつぶやきました。自分は知っている、父も母も知っているとつぶやくのです。

「つぶやけば つぶやくほどに 落ちて行く」という川柳があるのか、ないのか分かりませんが、つぶやくという言葉はその背景に不平、不満があることを意味しているでしょう。だから人は、つぶやけば、つぶやくほどに信仰が落ち込んでいくのです。神を見失うのです。自分は分かっていると思っている人ほどつぶやくのかもしれません。

 皆さん、主イエスは耳が良かったと思います。そのつぶやきを聞き逃しませんでした。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることは出来ない」と話されました。この御言葉の意味は、神様は選ばれる方だという意味です。
先週の礼拝でも申し上げましたが、主なる神は、この世に人を造られ、しかし、時に応じてノアを選ばれ、時にアブラハムを選ばれ、時にモーセを選ばれ、イスラエル民族を選ばれて、その人々の神となられました。そのようにして神は選ばれる方としておられる。今、私たちがこの大塚平安教会の礼拝に集い、心を天に置き、主を崇め、賛美するのは神の選びによるのです。

 3年前にコロナ禍となり、世界中が大混乱となりました。それまでの当たり前が当たり前でなくなり、いつものことはいつものことでなくなりました。その影響は日本においても、私たちの教会でも大きな影響を受けました。全く信じられないことですが、教会の礼拝を行えない、そのような状況が何か月も続きました。時には、ビデオでもってネットでの礼拝を行いました。更には、時間を短縮しての礼拝を再開し、今もその状況が続いていますし、今また感染者数が増えている、そうような不安が伝えられています。

 そのような繰り返しの中で、それまで教会に来ておられた方の幾人か、特に求道中の方や、新来者として来られ、御言葉を求めて来ておられた方々、多くの方々が礼拝から遠のかれたことを思います。ご自宅に伺っても、ポストに週報を届けたりもしましたが、厳しい状況が続きました。
 今、少しずつですが礼拝出席者も回復傾向がみられ、また、新たな気持ちで特にクリスマスに向けて、良い伝道活動をと願っています。でも、私たちの働きは、いつでも限界があり、不足しているようなものです。けれど、私たちの働きによるのではなく、私たちは最終的には神の選びに頼るしかありません。神様はどのような選びをされるのか、私たちには分かりません。
だから、なお一層私たちは励むしかありませんけれど、この地上を共に生きている多くの方々に対して、「わたしが命のパンである」と宣言される主を宣べ伝えていく、それが教会の務めであろうと思います。

 主イエスは「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」と告げられました。主イエスを知り、命のパンを食べるなら、まさに食べるようにして主イエスを知ろうと願い、その方を自分の体に受入れ、自分の人生に受入れるならば、その人は永遠の命を生きるのです。

 なぜなら、私たちの本国である天の国に、私たちの名前が記されるからです。私たち地上の命を生きる者は、100年、200年、300年という年月を思うと、いつかは忘れられていく存在です。その人が生きたしるしとして、名前が墓石に記されるとしても、写真やデータが残されるとしても、しかし、その人の人となりを知り、個人的に良く知っているという人はある時点でいなくなります。けれど、主なる神を知り、神の選びに喜んで応答し、天の国を本国とする者を、主なる神は忘れることはありません。

 天地創造の永遠なる神が、私たちを忘れない以上、私たちは永遠の命を生き続けるのです。そして、復活の命に預かる希望に生き続けることが出来るのです。その為にも、私たちは命のパンである方を見失わず、この方に希望を繋いで、信仰と愛を杖にしながら地上の人生を力強く生きて参りましょう。

お祈りします。

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