日本キリスト教団 大塚平安教会 

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赦されない罪はあるのか

2017-03-15 17:52:10 | 礼拝説教

【マタイによる福音書12章22~32節 】

 受難節第2主日の礼拝が与えられています。本日は「赦されない罪はあるのか」という説教題といたしました。

 三日日前の木曜日に教会の前の駐車場に車を止めて、教会に向かおうとし時に、教会の掲示板に張られていた説教題をじっと見ておられた方がいました。あ~、あの方は「赦されない罪はあるのか」をどう読んでいるのだろうか、思わず聞きたくなるほどにじっと読んでおられました。

 実際、私もこの一週間、じっとというよりは、ずっと考え続けておりました。主イエスが告げた「赦されない程の罪」とは何かとずっと考えておりました。考えながら、今も尚、わかったかなという思いに至ったわけではありませんが、それでも、考えさせられたことが幾つかあります。主イエスが言われた「だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも許されるが、『霊』に対する冒とくは赦されない。この御言葉の意味について本で調べ、またパソコンでいろいろと調べしておりましたら、一つの文章がありました。その文章は、「この赦されない程の罪とは、ファリサイ派の人々の心」について言っているのだろうと記していました。なるほど、そうかもしれないとも思います。

  マタイによる福音書の12章の最初から読みますと、主イエスと弟子たちが安息日に麦畑を通られた時に、弟子たちが空腹を感じて、畑の麦を摘んで食べた場面から始まります。その様子を見ていたファリサイ派の人々がやって来まして、主イエスに問いかけます。「あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている。」

 けれど、主はその言葉を聞いて「人の子は、安息日の主なのである」と語られて、ファリサイ派を退けました。そこを去って後、その日は安息日でしたから、礼拝を守るために会堂に入られます。会堂には片手の萎えた人がいて、人々が主に尋ねました。「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」人々の思いは主を訴えようとしようと思ってとありますから、尋ねた人は、恐らくファリサイ派の人々か、ファリサイ派に近い人々であったと思われますけれど、それを知りつつも、主は手の萎えた人に向かって「手を伸ばしなさい」と言われ、手を元のように癒されたわけでありました。

 けれど、その次に記されていることは、「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。」とあります。

 すなわち、主イエスが人の病を癒された、それは神の業であったと賞賛し、癒された人に対して良かったねと言ったわけではなく、むしろ、彼らにとって腹立たしかったのは、神の民であるなら一人残らず誰もが守らなければならない安息日が汚さてしまったということでした。

 礼拝後でしょうか。ファリサイ派の連中が集まってどうやって主イエスを殺そうかと相談するほど腹立たしいと思ったのです。ですから、主もそのままそこに留まるわけにもいかず、そこを立ち去れます。けれど、その業を見せられた群衆はむしろ、主イエスの後に従いました。多くの人々が従っていったその先で、今度は、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、主イエスのところに連れて来られました。

 主はその人の目も口も癒されると、目が見え、言葉を話せるようになりました。

  群衆は益々驚いて「この人はダビデの子ではないだろうか」賞賛します。聖書に「驚いて」とありますが、この言葉は「我を忘れる」という意味の言葉だそうです。我を忘れるようにして、人々は主イエスを賞賛したのです。けれど、驚いたとは思いますけれど、ここで「我を忘れてはならない」と踏ん張ったのが、ファリサイ派の人々で、こんな状況を肯定するわけにはいかない、安息日違反を平気で行うような輩に屈してはならないと感じつつ、話した出したことは「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない。」と主張し始めた、今日の場面となるのです。

  主イエスが会堂で片手が萎えた人の手を癒したのも、目が見えず、口が利けない人が、見え、ものがいえるようなったのも、皆、悪霊の仕業だとファリサイ派が語る、その非難に対して、けれどそれに対して主イエスは、なぜ悪霊の力だと言えるのか、私は神の霊によって悪霊を追い出している、人が癒され、幸いだったね、良かったねとも言えず、その業そのものを悪霊の業だとするファリサイ派のあなたがたよ、あなたがたの心がどんなにか頑なになって、道に迷い、そして神を、また神の霊を冒涜する、その冒涜は赦されるものではないのとそう告げたのだと思われます。となると、赦されない罪とは「ファリサイ派の人々の心」すなわち「神を受け入れない頑なな心」を主イエスは指摘したのであろうかと思うのです。

  しかし、また、ここまで納得しながら、聖書を読みつつ、先ほどのパソコンに記してあった「赦されないのはファリサイ派の人々の心が問題ではないか」と記していた文章を更に読んでいてすぐに気が付きました。神のことをエホバと記していました。

 この人はもしかしたらと読み続けていきましたら、やはり思った通りにどうも「エホバの証人」とか「ものみの塔」と呼ばれるグループの一人が記した文章だと気が付きました。

 そのことに気が付くと、私自身がなるほどと思いながら読んで来たことで余計に腹立たしくなるわけで、あ~読まなければ良かったと思いつつ(笑)けれど改めてそこで思ったのです。私たちももしかしたら、どれほど頑なな生き方をしているのだろうか。私たちは、いつのまにか自分達こそ正当なキリスト教であって、エホバの証人やものみの塔を信じている人々は、まさに悪霊に取りつかれているとは言わないとしても、騙されているし、いいように搾取されていたり、子ども虐待の容疑にかけられていたりするのですが、だから、彼らのような信仰を持ってはいけないと思いながら、彼らよりはずっとましな信仰が私たちのところにはあるはずだと思う。

彼らはよりはずっと柔らかな心で生きていると思っている、でもそんな思いもまた、もしかしたら頑なかなとも思います。

 何を申し上げたいのか、私たちは自分たちが持っていると思っているテリトリー、領域が誰かに荒らされる時に、それが、どんなにか不快に思うのかということなのです。思うだけではなく、実際にその対象となる人を殺そうとまで相談する程ですから、自分の、あるいは自分達の領域が犯されているという思いは、憎しみに繋がり、そして命をさえ狙おうとするのだと思います。先日、マレーシアで、北朝鮮の金正男(キム、ジョンナム)さんが殺されたことも同じ理屈なのではないかと思います。

 今日与えられている聖書は、一方においては、主イエスを「ダビデの子ではないだろうか」と称賛する声、他方においては、その姿を悪霊の頭としてとらえようとするファリサイ派の人々の姿、あたかも世の価値感と神の価値感がここでまるで激しくぶつかり合っているようにも思います。

  25節から語られた主イエスの御言葉を今、ここでもう一度読むことはしませんが、私は主イエスが怒りを持ってと言ったら失礼かもしれませんが、しかし、そんな風に感じるほどの気迫のようなものを感じます。

 あなたがたは私のことをベルゼブルの力によって悪霊を追い出していると言う。とんでもないことだ。どんな国でも内輪で争えば、荒れ果てるではないか、どんな町でもどんな家でも内輪で争っているなら成り立たないではないか。なぜ、悪霊の頭が悪霊を追い出すのか、とんでもないことだ。とまくし立てているようにも感じるのです。

  主イエスが気迫を込めて悪霊を追い出す業、それは悪霊に対して、あるいはサタンと呼ばれる者に対する真剣で激しい、又、厳しい戦いなのかもしれないと思います。一瞬の油断も見せられない戦いであったかもしれません。そのような徹底的な厳しい戦いの中で、初めて人は人として癒される経験をするのかもしれないと思うのです。

  鎌倉雪の下教会で牧師をされておられた加藤常昭先生の説教を読んでいましたらこんな話をされていました。加藤先生の先生であるドイツのボーレン先生が鎌倉を訪ねて来られて、神学校で集中講義をされたというのです。ボーレン先生がドイツ語で話され、加藤先生が通訳をされた。けれど、通訳するほどの自信はないので、全て原稿にしていただいたというのです。けれど、授業が予定通り進んでいく中で、突然原稿にない話をされて困ったと言うのです。

 でも、その内容もとても良かった、どういう内容かというと、スイスにバーゼルと言う町があります。私も一度行ったことがあります。フランスとドイツとスイスの丁度国境にある町です。そこにバーゼルの大学があるのですが、一人の先生がおられて、その先生が若くして天に召されたというのです。当然のことながら、家族は悲しんだ、特に奥様が本当に嘆いて、嘆いて、どうして内の夫がこんなに若くして天に召されなければならないのか、神さまはそういう残酷な仕打ちをされる、私はとても神様を信じることが出来ない程で、祈ることさえ出来ないというのです。

 その嘆き、悲しみの姿につい、教会の牧師が、その人に対して何を言ったかというと「祈れないあなたの気持ちは、私にもよく分かる」と言って慰めたというのです。その後で、同じ夫人をカトリックのイエズス会の先生、恐らく、ご主人の大学の同僚だったのでしょうか、その先生が訪ねた時に、夫人が同じように「とても自分は祈れないし、神さまを信じられない」と訴えたというのです。

 そしたら、カトリックの先生はその姿をご覧になって、厳しく批判したというのです。「そんな思いは間違っている。全く間違っている。神は今こそあなたを求めておられる。神は今こそあなたを捕えようとしておられるのに、なぜ、祈らないのか。今こそ祈る時であって、もし祈れないというのなら、私が一緒に祈りましょう」と言って、二人でひざまずいて、主の祈りを一緒に祈ったというのです。その夫人はその祈りによって大いに慰めを受け、そして信仰を回復してカトリックに移ってしまったというのです。ボーレン先生は聞いていた学生たちに「何もカトリックになる必要はなかったのに」と言いながら、しかし、語りだしました。

 皆さんよ、牧師になって大切なことは、不信仰を言い張る人に対して、妥協しないことです。牧師もまた、自分の心の中に不信仰の思いをどこかで抱いているものだから、不信仰な言葉を語られると、つい「私もそれは良く分かる」とか「そうおっしゃるのも無理はない」とかと言ってしまう。けれど、そうするとあなたの信仰もなくなるのです。だから不信仰に妥協してはなりません。不信仰を受け入れてはなりません。信仰だけで生きていきなさい。でなければ人を慰めることは出来ないのだと話されたそうです。

 このボーレン先生の教えを読みながら、私は先週の日曜日のことを思い出しました。先週の日曜日、9時からのファミリー礼拝は私がお話の担当でした。

 聖書箇所は最後の晩餐の箇所です。主が敵に捕らえられてしまう夜、しかし、主が弟子たちを前にして、パンを取り、これは私の体であると話され、杯を取られてこれは私の流す契約の血であると語られた場面の話をしました。話をしながら、先週ですからね、今日の1030分からの礼拝では聖餐式が執り行われます。その聖餐式が信仰を持つものにとって、どんなにか大切な儀式であるかを話しながら、でも、このパンを受けとって頂ける喜び、この杯を受け取って飲む喜び、それをこの礼拝に出ている皆さんよ、子どもも大人も、お母さん方よ、ここにおられる全員がその喜びが分かち合えるようにと、私は心から願います、と話しました。そういう話を話す予定は全くなかったのですが、でも気が付いたら話しておりました。

 話しながら尚、これこそ、本当に自分が伝えたかったことなのだと心に感じながら話をしていた自分がいました。

  9時からの礼拝に出席して、聞いておられる方々殆どがまだ、洗礼を受けていない求道中の皆さんです。ですからそう言う方が当たり前のはずなのに、でも、どこかでいつも遠慮しながら、妥協しながら、一人ひとりの顔色を伺いながら話していたなぁと思っていたと感じていたものですから、余計にボーレン先生の話は私にとっても、本当に心に沁みてくるような思いでありました。

  皆さん、私たちは、私たちがテリトリーだと思っている所を荒らされたと思うと、確かに頭に来るものです。でも、そこで頭にきて、怒りに満ちて、あの人は悪霊の頭だとは言わないとしても、そんな思いで語る言葉が、神の恵みから遠く、なんと毒に満ちていることか、しかしまた、だからと言って、その人の思いに添いたいと願いつつ、配慮し過ぎ、添い過ぎてしまって、神の福音から自らも離れていくこともあるのだと思います。

  だから大切なことは、主イエスが28節で言われた御言葉「私が神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」

 今、ここで、この世で、神が既に働いておられるということです。わたしたちから見れば、矛盾に満ちた、光と陰で言えば、陰ばかりだと思えるようなこの社会の中で、主なる神が霊に満ちて働いておられること信じることでしょう。

 更に尚、この世にあっては、信仰に対する厳しい争いがあるかもしれません。ほかの宗教のことではなく、私たち自身がまた、厳しい争いがあるかもしれません。けれど、どこまでも、神の霊が働かれるのはこの世であり、そのことを信仰を持ってしっかりと受け止めて生きていきましょう。そして、願わくば、私たち自身が頑なにならず、柔らかな心でもって生きて参りましょう。柔らかな弾力のある信仰を生きて参りましょう。主によって支えられて過ごして参りましょう。

 

 

 


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