日本キリスト教団 大塚平安教会  

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信仰免疫力を強めよう

2018-03-01 15:44:08 | 礼拝説教

【マルコによる福音書4章35~41節】


 先日、幼稚園のある先生が話しかけて下さって、十数年位前のことでしょうか、その頃、若い頃に教会に通っておられたことは時々伺っていたのですが、その頃の知り合いで、年上の御夫妻がおられたというのです。そのご夫妻にお子さんが1人授かって、そして過ごしておられた。けれど、何が理由かよくわかりませんが、お子さんが亡くなったというのです。

 ご夫妻はどんなに悲しかったか、その悲しみは私たちの想像を超える所でありますけれど、それから御自分も引越しやら、何やらで教会を離れてしまい、けれど先日、ふと思い起こしてパソコンで、通っていた教会のホームページを見たら、お子さんを無くした御夫妻が、神学校に行って牧師となり、今、別の教会で牧師をしていることが分かったというのです。

 それで、私に聞くのです。「先生、お子さんを無くした御夫妻が、どうして牧師になろうって思えるのですか?」唐突な質問だと思いましたが、そんなとても信じられない悲しみを経験したお二人が牧師になろうとした、また牧師となったのか理屈が分からなかったのだろうと思います。

 とはいえ、私もすぐに上手に答える言葉も見つけられず、でも、「僕にはわかるような気がするけれど」と答えておきました。なぜそのご夫妻が牧師になろうとしたのか?自分たちの将来をどう考えたのか?本当の正解は、その二人に聞くしかありません。

 けれど、後で私も、本当はどう答えれば良かったのだろうかと考えてみたのですが、キリスト教の教えの一つは、「死からの復活」です。そしてそれはまた「絶望からの希望」です。もうダメだと人間的には思う。もう無理だと思う。極限状態でそう思う、そんな事が無ければ無いに越したことがありませんが、時として人はそういう経験をすることもあります。

 私の若い頃20代前半の頃に、自分がどう生きれば良いのか、迷っていたと言うよりは、絶望していた当時、お金もなく、体の調子も最悪で、精神的にもギリギリという時期を過ごしていました。これはもう、自分は本当におかしくなってしまうのではないか思いながら、ひと月、1万7千円の傾いたアパートの部屋で一人立ち尽くしていたことを、そのご夫妻の話を思い巡らしながら、自分の経験と重ねておりました。
   
 少なくとも、その時、私の人生においては、一つの極限状態であったと今でも思います。でも、何が悪いのか、何がどう悪いのかも分からないのです。どうすれば良いのかもわからないのです。どこかこういう症状を見てくれる医者はいなのかと探して、幾つかの病院にも行ってみたのですが、薬も出してくれない。あんたは病気でもないとさえ言われる。

 そうなるとお手上げですから、更に混迷を深める。でもある病院に行って、診察してもらおうと待っていた時に隣で待っている方が話しをしていました。「この病院の看護師さんは優しいね、キリスト教の病院だからね」というのです。私はびっくりして、そうなのか、この世にキリスト教というものがあって、聖書というものがあって、そこに神様の言葉が記されてあるのだ、と思ってその帰り道に本屋に寄りまして、聖書を買って、聖書の横にあった矢内原忠雄という人が記した「イエス伝」という本を購入して、帰って読みました。

 そして、読む中で、読み続ける中で、本当に自分の中に衝撃が走るほどに感動しながら読みました。例えばヨハネによる福音書の12章25節に「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」という御言葉があります。「自分の命を愛する者」それは私でした。私はその頃、いつか自分が死ぬんじゃないか、死ぬんじゃないかと思い、死にたくない、死にたくないとも思っていました。でも、死も命も、人の領域ではなく、神の領域だと聖書は記してある。人が自分の命を、どんなに寿命を伸ばそうと頑張ったところで、それは神の領域であって、だから、神様から与えられているあなたの人生を、あなたは精一杯に生きなさいと告げているのだと本当に感じました。

 聖書と出会えて、神と出会えて本当に良かったと思いました。そして、自分の命についてあれこれ考えるのはもう止めよう、生も命も死も神様にお任せして、今日を精一杯生きていこう、そう思えた喜び、何年も感じたことのないほどのエネルギーに満たされたことを思い起こします。

 でも、実際の所は状況としては何も変わりません。どんなに喜びに満ちていても、傾いた四畳半のアパートは、傾いたままですし、収入の宛てが突然に増えたわけでもありませんし、生活の困窮は何も変わらない。でも、実に不思議です。目に見える状況は何も変わらなくとも、目に見えない世界が大きく変わっていくように感じる。一つは、何よりも教会に通い始めたということです。

 教会は、私を受け入れて下さいました。本当に喜んで受け入れてくれた。それが何よりも嬉しかった。最初は教会に友達の一人いるわけでもないし、全く別世界を生きて来た方々ばかりです。でも、どんなにか日曜日が待ち遠しくて、本当に楽しみでした。
 
 礼拝に行っても、実際には牧師の説教は難しく、殆ど何を言っているのかも良く分かりませんでした。私の説教はそうではないことを願っていますけれど(笑) でも何よりも自分が受け入れられている、そんな感覚を感じながら教会に通いました。

 恐らくですが、先ほどのお子さんを失ったご夫妻も、人生の究極と思える場面で、愛する子を失うという、そのいかんともしがたい悲しみのその先に、きっと神から与えられた希望を見出したのではないだろうか。そして、その希望を頼りに、自分たちの歩みを決めたのではないのかと思うのです。そのような経験をした者だけが語れる慰めの言葉がある、絶望のその先にある希望があるということを人々に伝えているのではないかと思います。

 本日は、マルコによる福音書の4章から「突風を静める」というタイトルの箇所を読んで頂きました。主イエスが人々を前に、神の国のたとえを話されて、時には奇跡を行われながら、福音宣教の業を行われ、多くの人々が主イエスの後を追うようになっていました。恐らく主イエスも少し疲れを感じていたのではないかと思います。「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われ、そこで、弟子たちと共に舟に乗り、漕ぎだしました。

 すると間もなく、沖に出て、しかし激しい突風が吹いて来たというのです。舟は波をかぶり水浸しになるほどです。弟子たちの中には、もともと漁師であった者が少なくとも4人はいたわけですから、このような突風を幾度も経験していたでしょう。でもこれまで経験したことのないほどの風と波であったろう、とどの注解書にも記されています。どの注解書に記されていませんが、私は、きっと一つの舟に、つまり主イエスの舟に多くの者が乗り過ぎたのではないかと思いました。つまり積載過剰だったのではないか、だから水は入るわ、沈みそうになるわ、つまり漁師たちも想定外という状況ではなかっただろうか?

 いずれにしても、主イエスが乗った舟は思いがけず、漁師たちも経験したことのない危機に陥ります。漁師としての経験から必死の修正を試みるのですが、次第に、疲れも、状況も更に悪化して、ついに弟子たちは、艫の方で枕をして眠っておられた主を起こして「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と訴えたというのです。

 その言葉を聞いて主イエスは起き上がり、風を叱り、湖に「黙れ、静まれ」と言われました。すると、風は止み、すっかり凪になったというのです。それから主は弟子たちの方に振り向いて「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と言われました。恐らく割と強い口調だったのではないでしょうか。

 先ほど、矢内原忠雄の「イエス伝」を購入してと、申しましたが、このイエス伝は「マルコ伝による」と副題がついています。私が聖書と共に、生まれて最初に購入したキリスト教の手引きのような本です。今でも手元にあります。矢内原忠雄という先生は、戦前東大の先生をされていましたが、経済学者として当時の国植民地政策を批判的な立場からものを言いまして、弱者の権利を守ることの大切さや、国が正義に背反した時には、国民の中から批判が出て来なければならないという、現代では当たり前とされる民主主義的主張を展開したために、東大教授を事実上追放されるようにして、辞めることになります。更には本を記すことさえ禁じられ学者の道も閉ざされることになります。

 けれど、そんな当時でも、矢内原先生を慕う何人かの学生が集まり、先生は聖書講義を続けられ、それが戦後になって纏められて「イエス伝」が出版されたようです。
 ですから、記された文章というよりは語られた言葉と言った方が近いかもしれません。そこに何が語られているのかというと、こうあります。

「神の守りに一身を委ねて熟睡していられるのは、イエス御自身の信仰の平安である。これを目の前に見て、弟子たちも信仰による落ち着きをもつべきでありました。もちろん風が強く当たれば舟が傾かぬように漕がなければならず、水に入ればくみ出さねばならぬ。しかし、心の平安を失ってあわて恐れるとはイエスの弟子らしくもない。このイエスと同じ舟に乗っているのです。危険も安全も、イエスと運命を共にしているのだ。イエスの信仰は弟子たちの信仰であり、イエスの安泰は弟子たちの安泰であるはずだ。しかるに今まで長くイエスに付き従って、平生彼の信仰的生活態度を見せられていながら、いざとなればこの慌て方です。だから「汝らまだ信仰のないのは何事か」とお叱りになったのです。」とあります。
 
 主イエスが共におられる、しかも同じ舟におられる、それはつまり自分達の生も死も主イエスと共にあるという状況にあったにも関わらず、なぜ弟子たちは慌てたのか、厳しい口調で話されたかのようにも思えます。

 矢内原先生ご自身が、ある意味命がけで、軍国主義へと向う政治、政府に対して厳しい批判をされておられた状況で、自然と弟子達に対する眼差しも厳しくなっていたのかもしれません。

 けれど、このような弟子たちの慌てようから、私たちにはっきりわかることは、弟子たちが「先生、わたしたちがおぼれてもかわないのですか」と詰め寄った時に、主イエスに対して信仰を持って語りかけていたわけではないということです。既に、この時、自分達としては頑張りましたけれど限界だと感じ、主イエスよ、後はあなたの力のみが頼りですと願ったわけではありません。

 主よ、あなたは何もされないのですか。あきらかに弟子たちは腹を立てていると思います。なぜ、何もされないのか、少なくとも一緒に水を書き出すぐらいのことをされて良いのではと思ったのかもしれないし、この状況で寝ているなんてとんでもない。そんな思いが込められた言葉だったのではないでしょうか。

 しかし、起き上がった主イエスは嵐に対して「黙れ、静まれ」と言われて、静かになった中で弟子たちに「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と話されました。弟子たちはこの方は一体どなたなのだろう。風や湖さえも従うではないかと本当に驚いたと思います。

 このマルコによる福音書の学びの為に加藤常昭先生が記された説教集を読みましたら、その説教の中で、先週は教会の全体集会でしたとありまして、びっくりしました。私たちの教会も先週全体懇談会を行いました。礼拝や伝道、また会堂について、様々な意見を伺うことが出来まして良かったと思います。

 加藤先生は、なぜ全体集会の話をされたのかというと、教会の歩みとは、私たちが主イエス・キリストの歩みに参加させて頂くことですと話しておられます。主イエスがこの場所で教会の歴史を作り、救いの歴史をつくっていかれるのであって、それに私たちが召されて参加されているのですと話されます。だから、教会の歩みは、私たちが計画通りに作るものでもなく、私たちが体験するのは、自分たちの計画になかったことが起こる。計画していてもそれと全く違ったことが起こりうるし、神は不思議なことをされる、そこで、私たちが、計画通りではない、話が違うと、いきり立つ必要もなく、大切なのは、そこでなお私たちが主の為に働き続けることではないのか、いや、まさにここで主イエスが働かれようとしているその働きに、私たちがどのように参与するのかということが大切であって、そのために必要なのは、信仰を持ち続けることです。信じることですと、話しておられました。

 とても大切なことだと思いました。譬えるなら、教会は舟のようなものです。プロテスタント最大の組織である、世界教会協議会、WCC、本部がスイスのジュネーブにありますが、WCCのシンボルマークは、教会を象徴する舟です。船の上に十字架が帆のようにしてデザインされています。舟は水の上に漂い、安定することはありません。時には思いがけない風や嵐にあうこともあります。舟の中で意見が分かれていくこともあるでしょう。先週の懇談会でも申し上げましたように、教会と幼稚園が喧嘩するようにして別れてしまうという話は、これまで幾度も聞いたことがあります。人の思いと人の思いが衝突すると、互いに傷つき、血を流すのだと思います。ですから本当に気を付けなければならないと思います。信じるとは、自分の思い通りにいかないとしても、尚この事を通して、主イエスは私たちに何を知らせて下さろうとしているのか、そして、この方は誰であり、私たちから見れば、殆ど絶望にしか思えないこの状況の中でこそ、この方の力が大いに発揮されることを希望を持って生き続けることではないでしょうか。

 今日の説教題を「信仰免疫力を強めよう」といたしました。最近、インフルエンザやノロウイルスが流行しています。それにかからないために必要なことは人の体の免疫力です。基本的にはしっかりした食事、睡眠、運動などによって少しずつ免疫力がついて来るのだと思います。信仰もまた、その通りだと思うのです。信仰生活を送る、けれど、時に心を揺るがすウイルスのような言葉が聞こえてきたりもします。あるいは自分の人生に、こんな状況で、本当に神様がおられるのかという状況が与えられることさえあると思います。けれど尚、そこで絶望ではなく、その先に神の光を見ることが出来ると信じる信仰が求められているのだと思います。主はこの世界を、この世を支配されておられる、しかも御言葉と愛を持って支配されておられることを信じて、私たちは共々に歩んで参りましょう。

お祈りします。

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