【イザヤ書50章4~9節】
【ヨハネによる福音書1章29~34節】
毎週の木曜日、綾瀬ホームで礼拝を守っております。8時30分から職員礼拝を行い、9時からは利用者の皆さんと礼拝を守ります。
先週の木曜日、9時からの礼拝ではルカによる福音書から木に登ったザアカイさんの話をしました。利用者の皆さんは、こちらが気を抜くと、すぐにその空気が流れまして、礼拝がざわめきますので、原稿は見ないで一人ひとりの目を見てお話しを致します。一生懸命に話していましたら、シーンとして来まして、今日は良く聞いてくださっているなと思いながら礼拝が終わったら、ある方が大きな声で「ずっと寝ていた」と言われてしまいました。
あら寝てたの、どうりで静かだったと笑ったのですが、寝ているようにして、でも実は起きているのが綾瀬ホームの礼拝かもしれません。他所の教会の礼拝では、起きているようにして、実は寝ている人が多いと聞いていますけれど、それも平和なことかもしれません。
それに先立って、8時30分からの職員の礼拝では、マタイによる福音書からイエス様が漁師であった弟子たちを招いて「わたしについて来なさい、人間を取る漁師にしよう」と言われた聖書箇所を読みました。その箇所を読んで、人は自分が与えられた仕事はこれだと心から思えるなら、どんなにそこに幸いがあるだろうかという話をしました。
私自身のことを考えても、子どもの頃には、大きくなったら何になりたいかと考えるわけですけれど、岩手の田舎で育つ中で、私はあんなふうになりたい、こんな風になりたいと考える中で牧師になりたいと考えたことは一ミリもありませんでした。
聖書を初めて読んだのは二十歳を遥かに超えてのことですが、それまで紆余曲折を繰り返しながら生きていました。自分の人生をどう生きるのか、どう生きていこうとしているのか、苦しい時を過ごしていました。でも、聖書を読む機会が与えられ、イエス様が漁師たちに「わたしについて来なさい。人間を取る漁師にしよう」と語り掛ける。
もしかしたら、私にも語り掛けておられるのではないかと思い、自分も神の福音を宣べ伝える者として生きていきたいと願った時、心のざわめきが止まり、生きる目的が定まったようにも思います。自分の人生をこの方にかけてみようと決心して、神学校に進む決断をしたわけですが、何が幸いかというと、一度本当に人生の目的を持てたということです。目的を持つと、もはやそれ以外の全てが心から消えるわけです。だから、迷いが無くなる。迷いが無い人生は実に幸いだと思います。
漁師であったペトロ、アンデレ、ヨハネ、ヤコブの四人も主イエスに声をかけられ、主イエスと会話をする中にあって、人生の大きな決断をしたのではないか、その決断はまた自分の人生をかけるに値すると確信を持ったからではないかと思うのです。自分の人生において、そんな思いに至ることが出来るとしたらどれほど幸いなことでありましょうか。
今日読まれました聖書箇所は、バブテスマのヨハネが登場している場面です。ヨハネによる福音書の中でバブテスマのヨハネが登場しますので、私たちは聖書を読みながら、このヨハネは誰かと時々混乱をすることがあるのですが、ヨハネによる福音書でヨハネという名前がありますと、95%はバブテスマのヨハネです。残りの5%はペトロの父親がヨハネというのですが、この福音書では二回登場します。福音書を記したヨハネが、自分で自分をヨハネと記した箇所はありません。ですから、この福音書でヨハネとあればバブテスマのヨハネのことだと理解すると分かりやすいようです。
バブテスマのヨハネは、主イエスの福音宣教に先だって、イスラエルの人々に対して神の前に悔い改めを求める運動を行い、ヨルダン川で「悔い改めの洗礼」を施していました。その働きは割合に大きな成功を収めていました。多くの弟子たちも集まり、新しい宗教運動のようになっていたと言われます。
通説ではヨハネはユダヤ教でも厳格に律法を守ろうとする「エッセネ派」と呼ばれるグループ属し、俗世間から離れて、荒野に住み、質素な衣服と食事、また共同生活を行っていたと言われます。福音書では預言者としての側面も強調されます。
バプテスマのヨハネは他の福音書にも登場しておりますが、この福音書におけるヨハネの働き、ヨハネの生き方、その目的は一つです。それは来るべき救い主、メシアである主イエス・キリストを示し続けることでありました。ヨハネは自分自身の全生涯をかけて、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と語り「この方こそ神の子である」と告げる、それがヨハネの人生であり、そう語り続けて人生を終える人でもあります。生涯を通じてキリストを証し続ける、素晴らしい生涯だと思います。
ヨハネはなぜ主をメシアであると確信できたのか、主イエスがヨハネのもとに現れて、ヨルダン川で洗礼を受けた。その時に、霊が鳩のように天から降ってきて、主イエスの上に留まったのを見たからです。ヨハネはそのような人が、あなたの所へやってくると既に主の使いから教えられていました。以来、救い主の到来を待ち望み、その願いは主イエスによって叶えられたのです。ヨハネは嬉しかったと思います。自分はまさにこの方をこそ待っていた。そして、これからはこの方を宣べ伝えることを、我が働きと確信しながら生きたでありましょう。
ヨハネの厳格な生き方、粗末な衣服、質素な食事、荒野での生活から、私たちはイメージとして真面目で、厳つい人という思いがあります。
でも、主イエスと出会ったヨハネはどんなに喜びに満ちたことであろうか。自分の人生の目的、自分がこの世に生まれてきた、その理由さえも明らかにされた思いを持って、喜びを持って主イエスを宣べ伝えたことでありましょう。
皆さん、伝道とはするとは喜びを生きることです。私たちは一言で「神の恵みによって」と話したりしますが、「恵み」の意味は、それを受けるに値しない者が、それを受けられるところに「恵み」があって、神様は、こんな自分をも忘れることなく、顧みてくださったという実感があればあるほど、恵みを感じ、それが喜びに変えられるのです。
29節に「ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った」とあります。神の恵みとは、自分の方から神様に向かっていくのではなく、神様が自分の方に向かって来られていると知らされる時にこそ、感じるものであろうと思います。
私たちは信仰者として、神のみ言葉を宣べ伝えて生きていきたいと願います。イエス様の信仰を伝えながら生きていきたいと願います。けれど、そこで大切な事は、その実体というか、その喜びがその人の中にあることが大切なのは言うまでもありません。
笑顔の無い人に対して「その苦虫を噛み潰したような顔はなんだ、少しは笑ったらどうだ」と自分の方が苦虫のような顔で忠告しても、相手の顔に笑顔は出てこないでしょう。自分自身の内に笑顔が無い人が、人に対して「はいスマイル」と言ってもそこには実体はありません。
証しするとは、実体があるかどうか、喜びがあるのかどうか、そこが勝負かもしれませんね。皆さんのご家庭で奥様に、ご主人に、子ども達に、おじいちゃん、おばあちゃんにこうなって欲しいなぁと思う事がおありかもしれません。実は割合に簡単なのです。相手がそうなって欲しいなぁと思うように自らが生きる事です。
ですから、教会が成長するかどうか、それは牧師にかかっている、とも言えるかもしれませんが、もっと言えば、相手にそうなって欲しいなぁと思うように、自分がそのように生きることですからね。どんな状況にあっても、大丈夫、主が共にいて下さる。喜びを持って生きている人が大勢いる教会は、何かをしている、していないにかかわらず、きっと成長し続けるのではないでしょうか。
昔、読んだ本に書かれてあったのですが、人が納得するという事は、論理的にいかに正しく正確に伝えたとしても、それで人が納得するかというと、そんな事はなくて、こう人間の頭の中にある論理的に考える部分と更にその奥にある、なるほどと納得する感情を司る部分があるそうですが、その奥の感情の部分が納得しなければ、なるほどとは思わない、論理的には理解しても、よしやろうとは思わないそうです。
言葉だけでは足りないのです。何が必要かといと、言葉だけではなく、その言葉のように、そのように生きているかという事です。そのように生きる。その実体が問われているのだと思います。
ヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と主イエスを指さし、その先に、主イエスのうちに真の救い主を見いだしました。ヨハネの弟子達はその言葉と指に注目したことでしょう。なぜその言葉に力があったのか、その言葉のうちに喜びがあったからです。
ヨハネは荒野でらくだの毛衣を来て、イナゴと野蜜を食べながら、孤独な時を随分過ごしたでしょう。時には誤解され、嫌な思いをしたでありましょう。けれども、彼は証しする事を止めませんでした。
なぜなら、主イエスが洗礼を受けた時、聖霊が降るその姿をみながら、自分の孤独な働きは決して孤独ではなく、神が自分と共にずっとおられ、ずっと見守ってくださっていたと信じられたからです。そう思える喜びを体験したからです。
私たちの社会は未だ不安定な状況が続いています。第二世界大戦後、もっとも不安的でもっとも多くのリスクを含んでいる状態と言えるでありましょう。けれど、そのような状況の中にあっても、私たちは主にある喜びを忘れることなく、神の恵みに希望を持って生きて参りましょう。世界平和の始まりは、私たちの平和からスタートすることだろうとも思います。神に希望を持ち続けて、新しい一週間を過ごして参りましょう。
お祈りします。
【ヨハネによる福音書1章29~34節】
毎週の木曜日、綾瀬ホームで礼拝を守っております。8時30分から職員礼拝を行い、9時からは利用者の皆さんと礼拝を守ります。
先週の木曜日、9時からの礼拝ではルカによる福音書から木に登ったザアカイさんの話をしました。利用者の皆さんは、こちらが気を抜くと、すぐにその空気が流れまして、礼拝がざわめきますので、原稿は見ないで一人ひとりの目を見てお話しを致します。一生懸命に話していましたら、シーンとして来まして、今日は良く聞いてくださっているなと思いながら礼拝が終わったら、ある方が大きな声で「ずっと寝ていた」と言われてしまいました。
あら寝てたの、どうりで静かだったと笑ったのですが、寝ているようにして、でも実は起きているのが綾瀬ホームの礼拝かもしれません。他所の教会の礼拝では、起きているようにして、実は寝ている人が多いと聞いていますけれど、それも平和なことかもしれません。
それに先立って、8時30分からの職員の礼拝では、マタイによる福音書からイエス様が漁師であった弟子たちを招いて「わたしについて来なさい、人間を取る漁師にしよう」と言われた聖書箇所を読みました。その箇所を読んで、人は自分が与えられた仕事はこれだと心から思えるなら、どんなにそこに幸いがあるだろうかという話をしました。
私自身のことを考えても、子どもの頃には、大きくなったら何になりたいかと考えるわけですけれど、岩手の田舎で育つ中で、私はあんなふうになりたい、こんな風になりたいと考える中で牧師になりたいと考えたことは一ミリもありませんでした。
聖書を初めて読んだのは二十歳を遥かに超えてのことですが、それまで紆余曲折を繰り返しながら生きていました。自分の人生をどう生きるのか、どう生きていこうとしているのか、苦しい時を過ごしていました。でも、聖書を読む機会が与えられ、イエス様が漁師たちに「わたしについて来なさい。人間を取る漁師にしよう」と語り掛ける。
もしかしたら、私にも語り掛けておられるのではないかと思い、自分も神の福音を宣べ伝える者として生きていきたいと願った時、心のざわめきが止まり、生きる目的が定まったようにも思います。自分の人生をこの方にかけてみようと決心して、神学校に進む決断をしたわけですが、何が幸いかというと、一度本当に人生の目的を持てたということです。目的を持つと、もはやそれ以外の全てが心から消えるわけです。だから、迷いが無くなる。迷いが無い人生は実に幸いだと思います。
漁師であったペトロ、アンデレ、ヨハネ、ヤコブの四人も主イエスに声をかけられ、主イエスと会話をする中にあって、人生の大きな決断をしたのではないか、その決断はまた自分の人生をかけるに値すると確信を持ったからではないかと思うのです。自分の人生において、そんな思いに至ることが出来るとしたらどれほど幸いなことでありましょうか。
今日読まれました聖書箇所は、バブテスマのヨハネが登場している場面です。ヨハネによる福音書の中でバブテスマのヨハネが登場しますので、私たちは聖書を読みながら、このヨハネは誰かと時々混乱をすることがあるのですが、ヨハネによる福音書でヨハネという名前がありますと、95%はバブテスマのヨハネです。残りの5%はペトロの父親がヨハネというのですが、この福音書では二回登場します。福音書を記したヨハネが、自分で自分をヨハネと記した箇所はありません。ですから、この福音書でヨハネとあればバブテスマのヨハネのことだと理解すると分かりやすいようです。
バブテスマのヨハネは、主イエスの福音宣教に先だって、イスラエルの人々に対して神の前に悔い改めを求める運動を行い、ヨルダン川で「悔い改めの洗礼」を施していました。その働きは割合に大きな成功を収めていました。多くの弟子たちも集まり、新しい宗教運動のようになっていたと言われます。
通説ではヨハネはユダヤ教でも厳格に律法を守ろうとする「エッセネ派」と呼ばれるグループ属し、俗世間から離れて、荒野に住み、質素な衣服と食事、また共同生活を行っていたと言われます。福音書では預言者としての側面も強調されます。
バプテスマのヨハネは他の福音書にも登場しておりますが、この福音書におけるヨハネの働き、ヨハネの生き方、その目的は一つです。それは来るべき救い主、メシアである主イエス・キリストを示し続けることでありました。ヨハネは自分自身の全生涯をかけて、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と語り「この方こそ神の子である」と告げる、それがヨハネの人生であり、そう語り続けて人生を終える人でもあります。生涯を通じてキリストを証し続ける、素晴らしい生涯だと思います。
ヨハネはなぜ主をメシアであると確信できたのか、主イエスがヨハネのもとに現れて、ヨルダン川で洗礼を受けた。その時に、霊が鳩のように天から降ってきて、主イエスの上に留まったのを見たからです。ヨハネはそのような人が、あなたの所へやってくると既に主の使いから教えられていました。以来、救い主の到来を待ち望み、その願いは主イエスによって叶えられたのです。ヨハネは嬉しかったと思います。自分はまさにこの方をこそ待っていた。そして、これからはこの方を宣べ伝えることを、我が働きと確信しながら生きたでありましょう。
ヨハネの厳格な生き方、粗末な衣服、質素な食事、荒野での生活から、私たちはイメージとして真面目で、厳つい人という思いがあります。
でも、主イエスと出会ったヨハネはどんなに喜びに満ちたことであろうか。自分の人生の目的、自分がこの世に生まれてきた、その理由さえも明らかにされた思いを持って、喜びを持って主イエスを宣べ伝えたことでありましょう。
皆さん、伝道とはするとは喜びを生きることです。私たちは一言で「神の恵みによって」と話したりしますが、「恵み」の意味は、それを受けるに値しない者が、それを受けられるところに「恵み」があって、神様は、こんな自分をも忘れることなく、顧みてくださったという実感があればあるほど、恵みを感じ、それが喜びに変えられるのです。
29節に「ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った」とあります。神の恵みとは、自分の方から神様に向かっていくのではなく、神様が自分の方に向かって来られていると知らされる時にこそ、感じるものであろうと思います。
私たちは信仰者として、神のみ言葉を宣べ伝えて生きていきたいと願います。イエス様の信仰を伝えながら生きていきたいと願います。けれど、そこで大切な事は、その実体というか、その喜びがその人の中にあることが大切なのは言うまでもありません。
笑顔の無い人に対して「その苦虫を噛み潰したような顔はなんだ、少しは笑ったらどうだ」と自分の方が苦虫のような顔で忠告しても、相手の顔に笑顔は出てこないでしょう。自分自身の内に笑顔が無い人が、人に対して「はいスマイル」と言ってもそこには実体はありません。
証しするとは、実体があるかどうか、喜びがあるのかどうか、そこが勝負かもしれませんね。皆さんのご家庭で奥様に、ご主人に、子ども達に、おじいちゃん、おばあちゃんにこうなって欲しいなぁと思う事がおありかもしれません。実は割合に簡単なのです。相手がそうなって欲しいなぁと思うように自らが生きる事です。
ですから、教会が成長するかどうか、それは牧師にかかっている、とも言えるかもしれませんが、もっと言えば、相手にそうなって欲しいなぁと思うように、自分がそのように生きることですからね。どんな状況にあっても、大丈夫、主が共にいて下さる。喜びを持って生きている人が大勢いる教会は、何かをしている、していないにかかわらず、きっと成長し続けるのではないでしょうか。
昔、読んだ本に書かれてあったのですが、人が納得するという事は、論理的にいかに正しく正確に伝えたとしても、それで人が納得するかというと、そんな事はなくて、こう人間の頭の中にある論理的に考える部分と更にその奥にある、なるほどと納得する感情を司る部分があるそうですが、その奥の感情の部分が納得しなければ、なるほどとは思わない、論理的には理解しても、よしやろうとは思わないそうです。
言葉だけでは足りないのです。何が必要かといと、言葉だけではなく、その言葉のように、そのように生きているかという事です。そのように生きる。その実体が問われているのだと思います。
ヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と主イエスを指さし、その先に、主イエスのうちに真の救い主を見いだしました。ヨハネの弟子達はその言葉と指に注目したことでしょう。なぜその言葉に力があったのか、その言葉のうちに喜びがあったからです。
ヨハネは荒野でらくだの毛衣を来て、イナゴと野蜜を食べながら、孤独な時を随分過ごしたでしょう。時には誤解され、嫌な思いをしたでありましょう。けれども、彼は証しする事を止めませんでした。
なぜなら、主イエスが洗礼を受けた時、聖霊が降るその姿をみながら、自分の孤独な働きは決して孤独ではなく、神が自分と共にずっとおられ、ずっと見守ってくださっていたと信じられたからです。そう思える喜びを体験したからです。
私たちの社会は未だ不安定な状況が続いています。第二世界大戦後、もっとも不安的でもっとも多くのリスクを含んでいる状態と言えるでありましょう。けれど、そのような状況の中にあっても、私たちは主にある喜びを忘れることなく、神の恵みに希望を持って生きて参りましょう。世界平和の始まりは、私たちの平和からスタートすることだろうとも思います。神に希望を持ち続けて、新しい一週間を過ごして参りましょう。
お祈りします。