日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

平和の福音を告げていく

2022-03-21 15:20:05 | 礼拝説教
【詩編149編1~5節】
【エフェソの信徒への手紙6章10~20節】

 私たちは今、2022年3月を過ごしています。私たちの国ではこの時期は年度末で慌ただしい時期でもありますが、しかしまた春の頼りである桜の季節となり、新しく希望をもって歩もうとする時でもあります。先週の金曜日にはドレーパー記念幼稚園の卒業式が行われました。今日の礼拝堂の花はその時の花で飾られました。子どもたちが明るい未来を目指して卒業していく、その姿を見守った花は、今、私たちと共に、主なる神を賛美するために、この場に飾られています。豊かな用いられ方だと思います。
 毎週の事ですけれど、講壇に飾られる花はいつでも、私たちに平安と安らぎ癒しを与えてくれています。

 けれどまた、この年度末、私たちが生きる社会は実に不安定な状況を過ごしております。日本においてはコロナ禍の蔓延防止法も明日には解除となり、明るい見通しとなりましたが、感染者の数はそれほど減っているとも思われません。世界的にはまだまだ感染の脅威は衰えていません。
また、先週水曜日の夜は宮城、福島沖にて大きな地震がありました。この地域も案外強く揺れて不安を感じましたが、福島あたりは多くの被害が出ていると報道されています。金曜日の深夜も岩手県沖で大きな地震がありました。
 
 更には、何より2月末から、ロシアによるウクライナ侵攻、既に一か月程になりますけれど、状況は依然として余談を赦さない状況です。ウクライナのゼレンスキー大統領のもと、ウクライナの人々が一歩も引かずに、ロシアに対抗しています。今の時代は、そのような詳しい情報がSNS(social networking service) を通じて時間的な差異が無く入ってくるようになりました。一部では、ゼレンスキー大統領が引かないから戦争が長引き、被害者も多く出ている、だから早くに引いた方が良いといった意見も見られます。
けれど、もし引いたら、今よりもっと過酷で悲しい状況が待っていることをウクライナの人々は肌感覚として感じているのだろうと思います。私はこの戦争について、解説者のような話は出来ませんけれど、今、考えていることの一つは、日本人はウクライナの人々程に国を愛する心、愛国心を持っているのだろうか、日本の首相は、日本が侵略された時に、一歩も引かないと言うのだろうか、私たちにとって愛国心とはどういう意味を持つのだろうか、今、改めて考えさせられています。

 愛国心についてはこれ以上申し上げませんが、私たちが生きる社会において、コロナ感染が続き、地震が頻繁に発生し、考えてもいなかった戦争が始まる中で、私たちは実に様々な情報にさらされて過ごしています。そして、その情報により、私たちの心は乱され、不安が掻き立てられ、ストレスフルな社会を生きている現実があると思います。
ロシア国内は情報統制が敷かれ、ロシアは戦争をしていない、ウクライナで虐げられている親ロシア派の人々を助けるための軍事作戦を行っているだけで、民間人を攻撃などしていないと伝えているようです。けれど、ウクライナの現場から提供される情報は、病院や学校に爆弾が落ち、原子力発電所が攻撃され、子どもや病人が死んでいく悲惨さです。なぜ戦争が始まったのか、その理由も良く分からず、更になぜ、平気でウソをつけるのか、怒りと悲しみが心を覆います。

 ここ数年、コロナ感染についても様々な情報が飛び交いました。コロナはただの風邪程度のものと言う人から、コロナ感染が恐ろしくて一歩も外に出られない人もいます。きっとどれか一つが完全に正しく、他は全部間違っているわけではないでしょう。でも、コロナに限るわけでもなく、今私たちは、何がウソで何が本当なのか良くわからないまま、多くの情報によって影響を受け、混乱する社会に生きているのだろうと思います。

 そのような社会にあって、主なる神を信じる私たちはどのように生きていくのか、どのように生きていこうとするのか、問われているのではないでしょうか。
 今日は、エフェソの信徒への手紙6章から読んでいただきました。「悪と戦え」というタイトルが付けられています。
 10節から読みますとこうあります。「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりまさい。悪魔の策略に対抗して立つことが出来るように、神の武具を身に着けなさい」
 
 悪魔の策略に対抗せよ、とあります。キリストを信じる私たちの敵は悪魔であり、この世は悪魔の策略だらけだと言うのです。悪魔の特徴は平気でウソをつくこと。ウソをついて人をダメにする情報を流すことです。
 
 主なる神がこの世界を創造され、想像の六日目に人を造られました。アダムとエバが人類最初の人間です。二人はエデンの園において主なる神と共に平和に過ごしていました。
 けれど、そこに蛇の姿をした悪魔が現れました。蛇は野の生き物の中でもっとも賢く造られていました。エバを唆し、園の中央にある、食べてはいけないと言われていた木の実を食べるようにとエバに話しかけました。食べたほうが良いと話しました。なぜなら食べても死ぬことは無いし、それどころか神様のようになれると告げたのです。
 見た目にも美味しそうで、エバとアダムは木の実を食べました。その結果、人は死ぬ運命となりました。蛇のウソを信じて神を裏切り、神の前に出られなくなりました。つまり、霊的な死はすぐに訪れ、そして人は肉体的な死を逃れることは出来なくなりました。そこに人の根源的な罪があるのだと言われます。言い訳をするとすれば悪魔の策略にはめられてしまった。悪いのは悪魔だという事も出来るでしょう。でも、ウソを信じて、神を信じなかった人間の罪が軽くなることはありません。
 

 エフェソの信徒への手紙は、悪魔の策略に対抗せよと記しました。それは、聖書の時代においても、現代を生きる私たちのこの世界においても同じであろうと思います。
ここで、悪魔とは誰か、何者であるのかを定義することは出来ません。悪魔は、私たちの心の中で芽生える邪悪な心であると考えることも出来るでしょう。けれど、それだけではないとも思います。目に見えない幽霊がいると言う人のように、悪魔はいると考えることも出来るでしょう。けれど、それだけでもないと思います。今言えることは、悪魔は人をダメにする力があり、主なる神から人を引き離そうとする力を持っているということです。

 その為にどうするのか、エフェソ書は「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」と記しました。神の武具とは何か、14節にあります。「立って、真理を帯として腰に閉め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。」16節には「なお、その上に、信仰を盾として取りなさい」と記されています。神の武具とは、真理の帯、正義の胸当て、平和の福音、そして信仰を盾とすることです。
 
 主イエス・キリストは、ヨハネによる福音書14章でこう話しました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」主イエスは自ら、自分は真理だと告げておられます。
 
 真理とは誰にとっても確かなものであり、何者にも束縛されない、本当の自由を与えるものでしょう。様々な情報の中で、何が本物か分からず、翻弄される私たちです。 
嵐の中、舟は波をかぶり、水浸しとなって慌てふためいた弟子たちが思わず「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と訴えたその姿は私たちの姿でもあります。悪魔は私たちの世にあって、様々な方法、戦略をもって私たちに迫って来ます。

 神など信じても何も変わりはしない。生きるにはなによりも富が大切だよ、負けるのではなく、勝たなければいけないよ。悪魔の様々な戦略は、私たちの日常生活に、まるでボディブローのように効いてくるのです。この時期、そのようなボディブローを受け続けた方々から教会に電話があります。3月、4月、5月、この時期は一年の中でもとても多いのです。聞く言葉はそれぞれの状況の如何にかかわらず、「希望が無い」という言葉です。

 人から見放されたと感じ、人を信用出来ず、心の底に落ち込んで行って、もはや希望が無いと感じる、神を信じる者であるとしても、そう感じる方々が少なくありません。
なぜか、「神などいない」といつのまにか思い込まされていくからです。それこそが悪魔が最も喜ぶ瞬間ではないでしょうか。そのような策略に陥らないようにしなければなりません。

 どんな状況にあろうとも、主が我らと共に、我と共におられる。誰が見捨てるとしても、主イエスは私の人生を司り、この方によって平和が与えられ、命に輝きを与え、明日への希望を見いだし、暗闇から光へ、絶望から希望へ、その道筋が整えられることを忘れないように、真理の帯をきりりと締めて私たちは過ごしてまいりましょう。

 お祈りします。

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