日本キリスト教団 大塚平安教会 

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1月24日(日)ビデオ礼拝 説教題 「主の安息日に」 

2021-01-24 10:00:00 | 礼拝説教
2021年1月24日(日)【降誕節第5主日 宣教の開始】

黙  祷
招 詞 ルカによる福音書13章29~30節
「人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

讃美 546番 「主の招く声が」 菊池典子姉


聖 書 
旧約聖書 詩編93編1~4節

【賛歌。歌。安息日に。】
2 いかに楽しいことでしょう/主に感謝をささげることは/いと高き神よ、御名をほめ歌い3 朝ごとに、あなたの慈しみを/夜ごとに、あなたのまことを述べ伝えることは4 十弦の琴に合わせ、竪琴に合わせ/琴の調べに合わせて。

新約聖書 マルコによる福音書3章1~6節

1 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。3 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。
4 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。5 そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。6 ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。

説教 「主の安息日に」 菊池丈博牧師


以下 原稿です。
「主の安息日に」

 皆さん、おはようございます。
 先ほど読みました、詩編92編2節に「いかに楽しいことでしょう 主に感謝をささげることは」と記されています。この言葉についての解説を読みましたら、楽しい、というヘブライ語は「トーブ」という言葉とありました。「トーブ」という言葉を読んですぐに思いついたのは、私の故郷の岩手の花巻では知らない人はいない、宮沢賢治です。宮沢賢治は「イーハトーブ」という言葉を作りました。「理想郷」という意味があります。ヘブライ語の「トーブ」は楽しい、それなら、もしかしかたらイーハトーブに関係するのではないかと思いました。そこから関係性を見いだせたら、もしかしたら文学上の大発見となって、花巻の歴史に私の名前が残るのでは、と期待したのですが、残念ながら私の勉強不足でよく分かりませんでした。

 よく分かりませんでしたが、トーブは良い、楽しいという意味をしっかりと覚えました。なぜ楽しいのか、また、大切なのか、それは「主に感謝をささげる」からです。
 92編1節には、賛歌、歌、安息日にという表題がついています。詩編の中で安息日という言葉はここにしか出て来ないとありました。
 安息日とは休みの日であると同時に、礼拝を献げる日という意味です。礼拝をささげる為に、共々に会堂に集い、地域の仲間と共に礼拝を献げる、この時がなんと楽しいことかと詩編の作者は告げています。賢治の言葉を借りるとすれば、礼拝はイーハトーブ「理想郷」の世界のようだと言えるかもしれません。

 けれど、皮肉なことに、コロナウィスル感染予防の為に、今、会堂で礼拝を献げられません。しかし、共々に教会に集い、日曜日の午前中に礼拝を献げる、それがどんなに喜びであるのか、どんなに大切であるのか改めて思わされる時でもあり、詩編の御言葉は心を捉えるものがあります。

 改めて「安息日」について思わされます。ユダヤ教の安息日は元々土曜日です。ですから日曜日は平日であったと思います。その平日に礼拝を守り始めた、それがキリスト教の最初の礼拝の姿でした。週の初めの日、朝早く主イエスが復活された、そのことを忘れないためにという思いがありました。
 けれど勿論、安息日は何曜日が正しいのか、という問題ではなく、大切なのは安息日が意味しているのは何かということでしょう。
 
 詩編の作者は心と思いを込めて、主に感謝をささげることはなんと楽しいかと告げています。御名をほめ歌い、朝も、夜も、琴の調べに合わせて主を賛美する、それがなんと素晴らしいことか、神の創造を喜び、15節には「白髪になってもなお実を結び 命に溢れ、いきいきとし」とありますが、神の民として生きる「命の泉」がこの礼拝にこそある、喜びに溢れて告げるのです。礼拝とは本来そういう場所であり、そういう時なのだと思います。
 
 今、私たちは教会に集まれません。ビデオを通しての礼拝です。恐らくまだ暫くはこのような状況が続くと思われます。けれど、皆さん、私たちはこのような経験を通して、再び会堂に集い、共に顔と顔を合わせて礼拝を守れるようになった時に、更に神の愛に溢れ、喜びに満ちた一人一人、そのような信仰共同体として歩んでいきたいと改めて思います。この詩編の作者に負けず、劣らず、声高らかに賛美の歌声を響かせていきたいものだと思います。
 
 集まっての礼拝が停滞するとしても、信仰が停滞しなければ心配はありません。むしろ信仰が停滞する、そのような時にこそ私たちは心配しなければなりません。 
安息日という言葉の根本的な意味は、「やめる」という意味です。主なる神に賛美と感謝を献げるために、日常の全ての作業をやめて、喜びを持って全ての人々が会堂に集うのです。
 けれど、いつの間にか、その喜びが喜びでなくなる、そのような時こそ、信仰の危機と言えるでありましょう。
 
 新約聖書はマルコによる福音書3章を読みました。主イエスが安息日に礼拝を守るために会堂に入られた。するとそこに片手の萎えた人がいました。 人々は主イエスが安息日にこの人の病気を癒されるかどうか、注目していました。
 
 安息日は、仕事をやめなければなりません。けれど、主は注目している人々をご覧になって、手の萎えた人を真ん中に立たせ、改めて人々に聞きました。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」人々は黙っていたとあります。なぜ黙っていたのか、既にこの時、喜びが消えた安息日、礼拝を人々は生きていたようです。
 
 安息日の喜びが消えると、どうなるのか、一つは義務的になります。義務感から礼拝に行こうと考えるとしたら、それがどれほど重荷となるでしょうか。私たちの教会では見られることではありませんが、日曜日に、辛い思いをして、渋い顔をしてため息をついて、礼拝に向かう夫、あるいは妻、がいるとしたら、家族の誰もが自分も行ってみようと思わないでしょう。
この時間がやっと来たかと、ニコニコして、心弾むような思いを持って「行って来るよ~」と明るいトーンで告げてこそ、家族はそんなに嬉しいなら、自分も一度は行って見たいと思うのではないですか。そのような教会、礼拝にこそ、人は集って来るというものでしょう。義務感からは良いものがあまり生まれないかもしれません。

 安息日の喜びが消えると、どうなるのか、二つ目は、正義と悪が登場します。ご存知のように安息日は、十戒の中にも記されているように、主なる神が人に対して与えて下さった教えです。人々は喜んでその教えを生き、守ったでありましょう。けれど、いつの間にか、安息日が一つの基準とされてしまいました。 守らない人は罪人である。守っている人は正義の人である、となってしまいました。しかも神様の目線からでなく、人からの目線で判断されるようになってしまったようです。
 そのような人の目線は、安息日に仕事をしようとした主イエスに対して、例え人の命を救っても、安息日を守らない悪のカテゴリー、罪人とする目線であったようです。

 罪人なら処罰されて当然、処罰する方からすれば、自分達はどこまでも正義です。正義であればある程、やましい思いすら無かったでしょう。
先日の礼拝で、人は、自分が犠牲者だと思うから怒りが出る、と申し上げました。
今回申し上げたいのは、人は、自分が正義だと思うから怒りが出る、とも言えるということです。
主イエスは、人が定めた人の正義という基準のもとで、十字架に付けられ、死なれたことを思います。
 何も礼拝だけに限るわけでもありません。物事を義務として捉えると喜びが消えます。子どもたちは学校の勉強がつまらないと言います。義務だからです。有無を言わさずさせるからです。そこからは滅多に喜びが出てきません。

 更に何よりも自分中心に生きてはなりません。自分が基準となって人を見るからです。いつの間にか、自分が裁判官となり、正しい者と正しくない者を分けることが出来ると思ってしまう、そこにこそ大きな罪があると気が付かなければなりません。

 その為にも大切なのは、喜びを失わないことです。どんな時も詩編の作者のように、主を見上げ、御名をほめたたえ、あなたこそが私たちを生かす命の光、あなたの御業はなんと美しいかと感謝と喜びを持って生きていきましょう。すなわち、本当の安息日を生きるしか道はありません。

 本当の安息日、本当の礼拝は何でしょうか。礼拝が始まる、礼拝が行われる時、多くの皆さんはこの礼拝で何か与えられるのではないか、何か役に立つことがあるのではないか、生きる知恵が与えられるのではないか、そう思いながら礼拝に来られるかもしれません。それは間違いではないかもしれません。

 でも皆さん、礼拝は人の目線ではなく、神様の目線です。神様が、集まった一人一人をご覧になって、あなたはこの大変な時代に、大変な状況にあって、なんと立派に、一生懸命にやっていることかと、全てを受け入れ、全てを赦し、全ての出来事を祝福へと導こうとされている、そのことを確認する場こそが礼拝です。自分は神様から見捨てられていない。それどころか、こんなにも期待されていたのか、と心で受け入れ、そして人生を取り戻すことが出来る。それが本当の安息ではないですか。主イエスはそのことを人々に告げようとされたのではないですか。

 このような時代です。心を失い、心を凍らせている方、悲しみに打ちひしがれている人、多くおられます。そのような人と共に歩んで行くためにも、私たちは喜びと、柔らかな心を持って、元気に過ごして参りましょう。
 お祈りしましょう。


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