日本キリスト教団 大塚平安教会 

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「永遠の命を生きる」

2021-11-07 16:48:04 | 礼拝説教
【ヨハネによる福音書17章1~5節】


 2021年度、召天者記念礼拝を迎えました。本日の説教題を「永遠の命を生きる」と致しました。キリスト教はその教えの中で、「永遠の命」という言葉を用います。
 
 永遠の命と聞くとすぐにいつまでも死なない命、と連想しますけれど、少なくとも物理的には不可能ですし、そのような意味を持つものでもないと思います。
 
 では、どのような意味を持つのか、色々な意味が込められていると思います先ほど、読まれましたヨハネによる福音書17章3節にはこう記されています。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」

 この御言葉は、永遠の命とは、一つは主なる神を知ること。もう一つは主イエス・キリストを知ること。この二つを知ることだと伝えています。永遠の命は主なる神の内にこそあり、私達人間にはありません。だから、神を知り、主イエスを知る、それによって神の永遠の命の内に入れられる者となって生きてく、それがまた、信仰を持つ者の生き方ではないでしょうか。

 では、一体どのようにして主なる神、また、主イエス・キリストを知るのだろうか。あるいは何を持って神を、キリストを知ったと言えるのでしょうか。先に答えを言うとすれば、それは人の努力によるのではありません。努力して、苦しみながら聖書を読み、御言葉と格闘することは求められるでしょう。肉体的鍛錬、修行、断食、祈りの中から神を見いだすことも、勿論あると思います。
 
 けれど、もしそのような人の努力によらなればならないのなら、きっと僅かな人のみが知ることが出来る神であり、僅かな人のみが知りえる主イエス・キリストとなってしまいます。先週の日曜日は10月31日、宗教改革記念日でもありましたが、宗教改革の先駆者であるルターは、日々の聖書朗読、厳しい終業を重ね、重ねながら神の恵みを得たいと願い日々生きるなかで、尚、神にある平安には至りませんでした。その中である時に気が付いた。主にある平安は、人の努力によるものではない、そうつくづくと感じた、それが宗教改革の始まりでもありました。

 先ほど、召天者のお名前を朗読いたしました。大塚平安教会今年で創立72年目を過ごしていますが、この2021年度は、71名の方々のお名前を読み上げました。今日の礼拝ではそれぞれにご遺族の方々もおられますし、この礼拝を大切にしておられるご家族もおられます。けれど特に何人かの方々は、教会というよりは、綾瀬市にあります、知的障害を持つ方々の施設である、綾瀬ホーム、さがみ野ホームにおいて長く生活されながら、教会とつながり神様とつながって生きて来られた方々も少なくありません。ホームに関わって来られた方であれば懐かしいお顔であると思います。

 この一年半以上、コロナ禍の中にあって、綾瀬ホーム、さがみ野ホームでの礼拝もままならない状況が続いていました。けれど先月10月初旬から少しずつ平常へと戻りつつありまして、先週の金曜日のさがみ野ホームの礼拝は、もういつ以来であったか忘れてしまう程に久しぶりに、一番大きな部屋で全員が集まって礼拝を献げることが出来まして、感謝でありました。
 
 綾瀬ホーム、さがみ野ホームの礼拝のお役も、私がこの教会に来まして以来ですからいつの間にか12年目となりますが、今でも最初の礼拝は忘れられません。何が忘れられないかというと、何を話せば良いのか、非常に困ったということでありました。それまで岩手の教会で、あるいは東京、町田の教会で牧師として勤めて参りました。時には海外の教会での礼拝奉仕もありました。

 それまで牧師として、十分ではないにしても経験から来る知識もあり、皆さんの前で御言葉の解き明かしの役割を担わせていただいていました。でも、そういった経験からくる知識は、ほとんど役に立たないのではないか、誰も聞いてくれないのではないか、そんな恐れがありました。
 
 今でも慣れたということはありませんけれど、でも、私も慣れて、聞かれる皆さんも慣れてこられた。そういう関係性を築いて来られたことがまさしく救いになっていることは間違いありません。

 先週の金曜日、さがみ野ホームで「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」という御言葉から、神様につながっていましょうと話をしました。神様につながっているとそこに平安がありますよと話しました。でも、その繋がりを阻むものが二つあります。一つは体、一つは心ですよと話しました。私達が地上で命与えられて生きていく中で、命は体と直結します。

 自分の体は自分の体ですけれど、思うようにいかないのも自分の体です。男性であれ、女性であれ、もっと筋肉がついていればとか、もっとスタイルが良かったなら、顔がこうであったら、その思いは尽きません。あるいはもっと健康な体であったらとか、丈夫であったなら、胃腸が丈夫であったなら、もっと器用であったらとか、足が長かったら、これまで何度そう思ったことでありましょう。
 
 あるいは、人には一人一人タラント、能力と言われるものも違います。教会員のKさんは、オーケストラの指揮者として知られています。こんど11月27日に海老名のホールで、ヘンデルのメサイヤの指揮をされますけれど、ある時にKさんに聞いたことがありました。すごく失礼だったと思いますけれど、オーケストラの楽器の音が一度にジャンと鳴って、それが一度に全部分かるのですかって聞きました。そしたら、当然でしょう。それが聞こえてこなかったから指揮は出来ませんと即答でした。私などではもはや理解できない研ぎ澄まされた「耳」を持っておられるのだと思います。

 耳だけでもなく、目も人は全員が違うと言われます。リンゴの赤を見ても、皆が赤だと理解しても、その赤の色は全員が違う色に見えているそうで、だから色彩感覚もそれぞれに皆が違っている。
 
 運動能力に至っては、人は全く違っているわけで、運動会が大好きな人もいれば、運動会来なければ良いなと思っている人も少なくないと私は思います。人の能力の違いは計り知れないものがあります。

 そのような違いによって、それがものすごく違うとそうでもないのですが、実際は皆似たり寄ったり(笑)でも、違いが、妬みになったり、悔しさになったり、怒りになったり、自己嫌悪になったすると、心にも大きく影響して、がっかりしたり、つまらない人生だ自分とを否定したり、面白くないと思ったり、つまり、不安を生きてしまうのです。

 なぜそうなるのか、人は自分の目線で物事を見て判断するからですよ。だから、大事なことは神様の目線ではどうなのだろうと考えてみることです。聖書が告げる神様の目線は幾つもあるわけではありません。むしろ神様の目線は一つしかない。それは、あなたは私の最高傑作だという目線です。あなたはあなたが自分で思う何倍も、そのままのあなたが素晴らしいという目線ですよ。私は世の光であると言われる主イエスが、その光の中にあなたも、あなたも集まって来なさい。ここに光の暖かさがある、ここに神の明るさがあるのだからと皆を招いておられるのです、と申し上げました。

 「わたしに従って来なさい」と言われる主イエスの招きに、私たちは「はい、わかりました」と立ち上がることです。立ち上がって主イエスの歩みに従っていく。その時、私達の人生は大きく変わるのではないですか。

 永遠の命とは、神を知ること、そして主イエスを知ることと申しました。けれど、本当は二つではありません。一つのことです。主イエスを知ればそれはそのまま主なる神を知ることになるのです。
 
 スイスのポール・トゥルニエという精神科医は「人生が人生となるためには、対話する者にならなければならない。」と教えています。それは関わりを持つ者という意味でしょう。対話する者という意味でありましょう。主なる神は、そのような一人一人との対話を望まれて、独り子である御子イエス・キリストを人の世の、人が地上で生きるただ中に誕生させてくださいました。
 
 御子イエスと私たちが具体的に関わりを持ち、人間のあらゆる苦しみや嘆きや恐れを分かち合ってくださるために、主イエス自らも苦しまれながら、しかし、神の愛を示し続けてくださいました。

 主イエス・キリストを知り、主イエス・キリストに触れ、主イエス・キリストの愛によって生かされて生きてこられた方々がおられます。信仰の先達です。この先達の生き方に倣い、私たちも神の愛に包まれて、新しい一週間を過ごして参りましょう。

 お祈りします。

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