日本キリスト教団 大塚平安教会  

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主に向かって生きていこう

2019-01-07 11:44:15 | 礼拝説教
【詩編23編1~6節】
【エフェソの信徒への手紙5章12~20節】


 新年明けましておめでとうございます。昨年12月はルカによる福音書を中心に御子イエスの誕生に関する箇所を読んで参りました。年が明け2019年となり、エフェソの信徒への手紙に戻りまして読み進めようとしております。本日の説教題を「主に向かって生きていこう」といたしました。
 読んで頂いたエフェソ書5章19節にこう記されています。「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」

 詩編と賛歌と霊的な歌、聖書は新約聖書と旧約聖書を合わせて「聖書」と言いますが、その意味の一つは、キリスト教の基となり、キリスト教が引き継いでいるのはユダヤ教であるということです。その引き継いでいる宝の一つが詩編となります。
 私たちの礼拝においても、必ず詩編を交読します。司式者と会衆が互いに詩編を交読する。司式者が先唱者として朗読する。その朗読に答える会衆がいる。元々詩編は、メロディが付けられ歌われていましたから、互いに掛け合いながら、言わば合いの手を入れながら賛美したとも考えられます。

 そこでは、聖書の御言葉が読まれるだけ、説教が語られるだけ、出席者は聞くだけの礼拝にならないように、自分もまたこの礼拝に主体的に参加し、主を賛美している、その印として詩編交読が守られていたわけですし、今もその意味は失われていないと思います。
 元々、ユダヤ教の会堂ではオルガンや楽器が備えられていたわけでもないようですから、会堂では無伴奏で詩編が歌われていたようです。ヘブライ語独特の韻を踏んだメロディで会衆全体が賛美してきた。その歴史もキリスト教は受け継いでいます。

 現代でも楽器を使用せず、無伴奏の礼拝を行う教会がいくつもあると言われます。無伴奏で歌う歌い方を「アカペラ」と表現したりしますが、その意味は「教会風に」という意味のようです。教会風に伴奏無しでということでしょう。
人の声が最も美しい楽器だとも言われますけれど、そんな思いを大事にしている教会も、一つの教会らしい考え方ではないでしょうか。

 とは言いながら、ここで忘れてならないのは、多くの会堂では、楽器の伴奏が無かったかもしれませが、一方では、神殿をはじめとする主要な会堂は、聖書に記されていますように、太鼓、竪琴、角笛、シンバル等を用いる音楽隊が備えられ、その音色に合わせて、人々が賛美してきた歴史があります。ダビデ王も竪琴の名手であったと言われます。楽器の演奏と共に人々の歌声が響き渡る礼拝、どんなに荘厳で豊かな礼拝であったかと思います。

 1月1日に、湘北地区新年礼拝が伊勢原教会で行われました。私たちの教会からも大勢の方々が集って下さり、良い礼拝が献げられました。

 伊勢原教会はプロテスタント教会としては、割合にリタージカルと言いますか、儀式的で形を重んじる礼拝形式を守っていると感じました。何度も何度も、賛美を繰り返し、祈りが献げられる。美しいオルガンの伴奏と共に進められていく礼拝です。必然的に礼拝時間が長くなる傾向になりますし、家内が家に帰って来て何度も、伴奏者の演奏がどんなに素敵だったか、あるいは最初から最後まで伴奏者大変だったのではないかと、少し興奮して話してくれましたが、それほどに全体が一体感を感じる良い礼拝であったとも思います。そのようにして古来、ユダヤ教でも楽器の演奏と共に詩編が歌われてきました。

 詩編の次に賛歌とあります。賛歌とはこれまで12月はルカによる福音書を読んで来まして幾度か話しましたように、「マグニフィカート」と呼ばれるマリアの賛歌。「ベネディクトゥス」と言われる、ザカリアの賛歌。御子イエスの家族が神殿に来た時に、聖霊に満たされて導かれてやってきたシメオン、シメオンが御子イエスをその腕に抱きながら、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。」と神を賛美した賛歌、「ヌンク・ディミトゥス」と呼ばれる賛歌。これらのタイトルは皆ラテン語で、それぞれ賛歌の最初の御言葉がそのままタイトルとなります。 
いずれの賛歌も後の教会の礼拝においては、何度も何度も歌われ大切にされて来ました。
 カルヴァンという宗教改革者が、聖餐式の終わりに必ず「ヌンク・ディミトゥス」を歌うように定めたそうです。主イエス・キリストの恵の食卓に預かった者が、喜びに満ちた心を表すために、最も適切な賛歌であると信じたのだと思います。あのシメオンが御子を抱きながら、「もう、私はいつ召されても悔いなし」しかし、だからこそ、今生きている、生かされている喜びが、その心が満たされていく賛歌だと言えるでしょう。

 詩編、賛歌、そして霊的な歌と続きます。霊的な歌とは、特別この歌というよりは、コラールとも呼ばれる讃美歌、私たちが毎週賛美している讃美歌を意味しているとも考えることも出来ます。

 先ほどのカルヴァンは、フランスでの宗教改革が上手く行かず、スイスのバーゼルという町に移り、そこからドイツとフランスの堺にあるストラスブールという町に3年程亡命していたことがありました。その時に、ルター派の教会の礼拝に出席して、会衆が力強く、これまでの常識を覆すようにラテン語ではなく、自分達のドイツ語でコラール、讃美歌を歌っている姿に遭遇し感動して、その感動を詩編の御言葉に乗せて、フランス語の詩編歌を作ったと言われます。その幾つかは今でも讃美歌21の中にジュネーブ詩歌として歌うことも出来ます。
 
 しかし、霊的な歌とは、もっと言えば、「歌」そのものです。勿論、主なる神を賛美する歌を意味するわけですが、ですから本来、これはカトリックの讃美歌だからとか、この讃美歌には入っていないからとか、昔のだからとか、今のだからとか、ではなく、大切なことは、神を賛美する心でしょう。それは、詩編も賛歌も全く同じでことではないでしょうか。
 
 儀式的にきれいに順序だてられている礼拝でも、出来るだけ単純に、素朴に組まれている礼拝でも、無伴奏であるとしても、大切なことはその礼拝に集まって来られる一人一人が、主なる神に向かって、心からほめ歌うことであろうと思います。そのような礼拝に、そのような心でこの2019年を私たちは歩んでまいりたいと思います。

 大切なことは、いつでも、どんな時でも「主なる神に向かうことです。」主なる神に向かうために必要なことが今日のこのエフェソ書に記された内容でもあります。15節には「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい」とあります。賢い者とは、学校の成績が良いとか、この世の評価が高いとかではなく、主なる神から与えられたところの知恵によってということでしょう。
 
 ヤコブの手紙3章を開いて見たいと思います。新約聖書の424頁です。3章のタイトルは「舌を制御する」とあります。2節を読みますとこう記されている。「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。」つまり、自分の舌、自分の言葉を制御できる人は誰もいないということでしょう。その通りで8節、9節にこう続きます。「しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。」と続きます。

 皆さん、私たちの同じ口から、賛美も出てくれば、呪いの言葉も出て来るのです。これが私たちの本当の姿かもしれません。でもだからこそ大切なことは、神から与えられた知恵によって生きることでしょう。その知恵とは続く17節を読みますとこうあります。「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。」これが上からの、神からの知恵だと言うのです。

 このお正月、私たち家族は毎年の事ですが、今年も1月2日に家内の実家に親族が集まって、新年のお祝いを致しました。喜びの時を過ごしましたが、昨年と一つ大きな違いがありました。ご存知の方もおられますけれど、昨年の3月に家内の父が天に召されました。召されたその日まで元気に過ごしておりましたから、私は未だに、父が召されたと思えない不思議な気持ちになることがあります。今でも生きているように思う。本当に温和で優しい方だったと思っています。上からの知恵で生きた人であったと思う、尊敬出来る方だと思っています。でも、今年のお祝いの場には、父の姿は当然ですがありませんでした。

 それでも、私たちは精一杯楽しく、それぞれの消息を確かめ合いながら、豊かな時間を過ごしました。しかし、どうしても私たちの年代になりますと、あの人が病気だの、あの人が亡くなったのという話しが多くなってしまいます。けれど、その中で、弟の連れ合いが医者をしていますが、「喜んで、笑顔で過ごしている人のほうが、元気で、長生きのような気がする」と話してくれました。

 それほど医学的な根拠はないかもしれません。でも、私も、その言葉を聞いて、きっとそうだろうと思いました。

 エフェソ書に戻りますけれど、16節には「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。」とあります。今は悪い時代とは聖書が記された時代もそうだったし、現代もそうだ、いつも悪い時代なのだということではありません。今は悪い時代とは、恐らくこの世、つまり、神に向かわないところのこの世界を意味しているのではないでしょうか。

 この世は、いつの時代も「神に向かおう」とする世に生きていないと思います。出来るだけ暗闇の中に隠しておきたいこと、明るみに出したくないことで溢れているように思います。エフェソの信徒への手紙をこれまで読んで来まして、よりはっきりしてきていると感じるのは、すべての良いもの、あらゆる善意と正義、真実は、光から来る、つまり、神から来るのであって、神から来ないものは暗闇だということです。私たちの信仰があるのか、無いのかが問われているのではなく、良い者は神から来るのだと言うことです。

 だから、私たちはその光に向かって、自分の人生を歩み、切り開いていかなければなりません。

 暗闇に向かってはならない。皆さん、暗闇、それは悪い時代のことかもしれません。つまり、私たちはいつの間にか、この世で人と比べ、他人の評価を気にして、また、いつの間にか人を評価して、自分は分かったつもりでいたりするのではないでしょうか。そして、その中で喜んだり、悲しんだりしながら生きているのではないでしょうか。人の舌によって、言葉によって、喜んだりまた傷ついたと思ったりしているのではないでしょうか。勿論、人を評価し褒めて、励ますことは大切なことでしょう。そのような人は、確かなしっかりとした実りをもたらすことが出来るでありましょう。 

 でも、もっと大切なことは、この世の全ては人間関係で出来ていると言った学者がおりましたけれど、そのような人と人との関係の中で、より豊かに結実させるためにどうしても必要なことは、だれがなにをどう言おうとも「主に向かって」生きていくことです。

 私たち信仰者がそのような姿を示し続け、喜びと元気をこの世に向かって示し続けることです。

 詩編23編を読んで頂きました。詩編の中の真珠とも言われる詩編23編、4節に「死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。」とあります。なぜなら「あなたが共にいてくださる」からです。「主は羊飼い」で始まるこの詩編で思うのは、まさに羊飼いです。羊飼いたちは羊の群れに十分な食料となる牧草を求めて、山を登り、谷を下り、時には、有毒ガスが発生しているような谷、時には細い崖の道、獰猛な野生の動物、羊を守るためにはいつも命がけであったと思います。けれど、その中で、この詩編を好んで口ずさんだと思うのです。たとえ「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたが共にいて下さる。」そう信じて生きていたに違いありません。

 私たちは羊飼いではありませんから、山や谷に行くことはありませんが、しかし、人生は山であり、谷であると言えるでしょう。そのような人生の中にあって、しかし、真の羊飼いである主が私たちと共におられる。だから「恐れずに生きていける。」具体的に、多くの問題を抱えつつも、尚、主に向かって歩み続ける共同体として、私たちはこの年も歩み始めていきましょう。

 お祈りします。
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きいてきいて
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