日本キリスト教団 大塚平安教会  

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主はわたしに報いてくださった

2019-06-16 18:47:52 | 礼拝説教
【詩編13編2~6節】 

【使徒言行録2章29~42節】

 ただいま、ルカによる福音書15章という箇所に記される「放蕩息子のたとえ」を子どもたちにお話ししました。父親の息子を思う愛が、どれほどであるか、また、徹底的に赦し、徹底的に愛されてこそ、子どもたちが健やかな成長を遂げることが出来るのだと思わされます。

 けれど、このたとえ話には少し続きがあります。弟の方は、放蕩の限りを尽くし、しかし、苦難の中、お父さん、すなわち主なる神に立ち帰って、赦され、愛されハッピーに終わったように締めくくられますが、もう一人の兄弟、兄がいるわけです。
 
 弟が帰って来た、お父さんは大喜びで迎えた。祝いの祝宴まで開いている。その様子を見ていたお兄さんは、怒りました。怒ってこう父親に伝えます。

 「この通り、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。」こう言ったのです。
 つまりは、自分は父に仕え、一生懸命に働いて来た、しかし、その報いは少しもない、と腹を立てたのです。恐らく、激怒して父親に詰め寄ったのではないでしょうか。

 すると、父親はこう話しました。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」と答えたというのです。皆さん、どう思われるでしょうか。兄と弟、私は弟の方だな、私は兄の思いが良くわかる。それぞれに思われるのではないかと思います。
 
 今日の説教題は「主はわたしに報いてくださった」といたしました。先ほど、読まれました詩編13編から選び取った御言葉です。

 詩編13編に記されている内容は、それほど複雑ではありません。1節から読みますと「いつまで、主よ わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。いつまで、わたしの魂は思い煩い 日々の嘆きが心を去らないのか。いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか。」と記されています。この詩編が記された年代は定かではありませんが、少なくとも2500年以上も前には記されていたでしょう。その時、どのような状況が起こっていたのか、具体的にはわかりません。
 でも少なくとも、この著者の回りには、神などいない、神に頼ったところでどうなるものか、と主なる神を侮り、神に信頼を寄せる人々をあざ笑う人々が大勢いたかもしれないとも思わされますし、あるいは、この著者自身が重い患い、病気となって苦しんでいたのかもしれません。4節には「死の眠りに就くことのないように 敵が勝ったと思うことのないように」とありますが、敵とはまさに病気であったと考えることも出来ます。

 いずれにしても、その状況はわかりませんが、この詩を記した著者は、神に対して与えられている何等かの試練とも言える状況の苦しさ、呻きを訴え続けている言葉が続くのです。
 
 けれど、最後の6節となり、著者はその心の思いが変わり「わたしの心は御救いに喜び踊り 主に向かって歌います。「主はわたしに報いてくださった」と。という御言葉で締めくくられています。
 
 先ほどのイエス様のたとえの中で、試練にあったのは果たして兄か、弟か、と問われるとしたら、どうでしょうか。放蕩の限りを尽くした、つまりは神に背き、ろくでもないことばかりをした弟だけど、むしろ試練にあったのは兄ではなく、弟の方が試練にあったと言えるでしょう。勿論、自業自得であるとしても結果的には、試練を通して、「我に返って」つまり、自分の罪を自分で認め、キリスト教でいうところの「悔い改め」て、お父さんに謝って、使用人の1人としてもらおうと思って父のもとへと帰るのです。
 
 兄の方は、兄としても父親に対して、幾つかの不満不平があったと思われますけれど、試練と呼べるほどの経験はしていなかったと思います。でも弟が帰って来て、父親が大喜びして、祝宴をあげた。その様子に「どういうことだ!」と怒るのです。
 この怒り、私たちには良く分かるのではないでしょうか。けれど、となると、主なる神様が、主イエス・キリストが私たちに示して下さる神の愛、神の赦しを私たちはどう捉えれば良いのでしょうか。

 今日は、もう一個所、使徒言行録2章29節~42節という少し、長い箇所を読んでいただきました。先週の礼拝はキリスト教の大切な礼拝の一つ、ペンテコステ礼拝でした。主イエスが福音を宣べ伝えられて、多くの民衆は喜びました。しかし、時の指導者は喜ぶどころか、妬みから腹を立て、主を捕らえ十字架に架けてしまいました。これで全てが終わったと全ての人そう思ったと思います。

 けれど、主イエスは三日の後に、つまり、日曜日の朝早くに復活された。これがイースターです。そのことを忘れない為に、私たちは日曜日に礼拝を献げるのです。それから40日して主は天に帰って行かれます。しかし、更にそれから10日後、主なる神は、主を信じる弟子たち一人一人に対して神の力である。聖霊を天から与えて下さり、弟子たちはその聖霊を受けて、励ましを受け、力付けられ、本気になって主イエス・キリストの喜び、福音を告げ始めました。

 この出来事をペンテコステと言います。いわば、教会の誕生日とも言える、特別の日です。先週は、そのペンテコステに洗礼を受けられ、クリスチャンとなられた方もおられました。
 
 そして、聖霊を受けた弟子の一人であり、弟子の中でもリーダー的な存在であるペトロが立ち上がり、力強く「神は、主イエス・キリストを復活させられたのです。」と語りだしている場面が、今日読まれた箇所となります。
 
 ペトロは、弟子たちのリーター的な存在でした。しかし、それだけに主イエスと共に歩み、更には歩む中で、様々な試練にあったと思います。主イエスと話す中で、「主よ、あなたのためなら命を捨てます」とさえ言ったペトロでしたが、直ぐその後で、イエス様に「あなたは、鶏が鳴くまでに三度、わたしを知らないと言うであろう」と言われ、実際に、十字架にかけられる裁判のさ中、その裁判に潜り込んでいたペトロの横で、あなたはあの男と一緒にいたと指摘されると、驚いて、あんな男は全然知らないと三回目には、誓ってまでも知らないさえ言ったのです。するとその直後に鶏が鳴いて、ペトロは自分自身が情けなくなって、泣きだしてしまったとあります。
 
 主イエスが捕らえられる、裁判にかけられる、十字架刑となる。死ぬ。ペトロ、また弟子たちにとってどれほどの試練であったかと思う。けれど、その試練が、試練のままで終わることなく、神は主イエスを復活させて下さり、聖霊を与えて下さり、その聖霊によって、もはや誰に対しても恐れることなく、「主イエスはキリストである。すなわち私たちのメシア、救い主である」と宣言しているのです。

 私は、試練は与えられないほうが良いと思います。しかし、聖書にはこんな御言葉も記されています。「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」

 私は、もう一度申しますけれど、出来るなら試練は与えられないほうが良いと思います。でも、私たちが生きて行く中にあって、自分には試練は一つも無いという人はいないと思います。

 昨日、私は一つの葬儀を執り行いました。三人の親子のお母さんが52歳で、病気で召されて行かれた。残された父親と、中学生の娘、この二人にとって、この出来事がどれほどの試練であるか、私たちの想像を超える大きな試練であるに違いありません。葬儀を執り行う私自身にとっても、そこで慰めの言葉を語るために、随分と祈りを献げねばなりませんでした。試練には、大きな試練とか、小さな試練というような比較することは意味が無いと思います。試練とはその人にとっては、どれも大変な試練なのです。
 
 さて、あの放蕩の限りを尽くして、やって来たお父さんを見て激怒したお兄さん、このお兄さん、先ほど「試練と呼べるほどの経験をしていなかった」と申しましたが、お兄さんの試練は、今、この時ではなかったでしょうか。弟を許す父を見て、なぜ、自分も、無事に帰って来て良かったな、俺も心配していたよと、なぜ言えなかったのか。それは、自分の中に、正しさがあるからです。私たちは自分の心の中に、自分の正しさを持って、そして人を見て、判断するところがある。しかし、自分の正しさは、神の正しさとは違うのだと思います。
 
 お父さんは、兄に対しても、「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」と告げました。子よ、私の物は全てお前のものだ。これ以上の愛を示せない程の、愛の形です。
 
 時々、娘がお小遣いをせがんでくる。お父さん「1000円貸して」、「貸して」というのが奥ゆかしい((笑)ですが、でも、「え!千円でいいの、3千円ぐらい欲しいだろう。やるよ」と言うと、必ず「入らない、入らない、千円でいいの」と言われます。え、そんなにくれるの、だったらもっと頂戴とは言いません。なぜなら、千円以上の愛をそこで貰っているからです。「私の物は全て、お前の物だ」この愛の籠った言葉を、自分のものに是非していきたいものです。

 どんなに与えられている状況に試練があろうと、「主はわたしに報いてくださった」と記した詩編の著者も、三度も主イエスを知らないと言って、そう言った自分に悲しくなって泣いたけれど、それをも許され、聖霊の力が与えられ、新たな思いで立ち上がったペトロも、放蕩の限りを尽くした弟も、その弟を許した父をも許せなかった兄に対しても、全て主なる神は、赦して、赦して、赦して下さり、「わたしの物は、全てお前のものだ」と言って、愛を示して下さる方がおられる。それはなんと幸いなことではないでしょうか。
 
 精神的な病を患っている患者さんに対して、この人たちがもし、赦すことを知ったなら、半分の人たちはそれだけで直ると言った医者がいたそうです。主なる神は、私たちを徹底的に赦して下さいます。その赦しに報いるのは私たちです。私
 たちは、私たちに与えられている人生において感謝を持って、歩んで参りましょう。


 お祈りいたします。

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