日本キリスト教団 大塚平安教会  

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十字架の死に至るまで

2018-03-25 13:44:41 | 礼拝説教
【フィリピの信徒への手紙2章5~11節】
【マルコによる福音書14章32~43節

フィリピの信徒への手紙2章5節からの箇所を読んで頂きましたが、この聖書箇所は年に一度、必ずと言ってよいほどに、読まれる礼拝があります。 
 
 いつの、どの礼拝かというと、クリスマスの聖夜礼拝、御子イエス・キリストの誕生を喜びつつ、その礼拝の最後に読まれる箇所がこのフィリピ書の章という箇所となります。
 
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」とあります。

 御子イエスの誕生は、クリスマスは喜びです。でもその喜びの背景は、主なる神が自分を無にされたこと。僕の身分になられたこと。人と同じ者となられたこと。徹底的にへりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順であろうとされたこと。ここに意味があるのだというのです。徹底的に、謙って下さった。この謙りによって、私たちは神の救いに預かることが赦されました。

 多くの皆さんが既にご存知のように、家内の父が3月4日の日曜日に召されました。お元気な方でしたから本当に驚きの出来事でした。何か病気をして寝込んでいたわけでもありません、ですから、家内は知らせが来てすぐに実家に向いまして、私は次の日の朝に車で家内の家に向いました。

 布団に寝かされていた父は、死んだというよりは、どうみても寝ている状態です。やつれている顔でもなく、いつもの顔で寝ているようにしか見えない。けれど、触ってみると確かに冷たくなっておりました。その冷たさで確かに召されたのだと改めて感じましたが、未だに私はどこかで信じられない思いでおります。
 
 私がまだ神学生であった時に、私が通っていた教会は基本的に、来た順番で座らされるのですが、それでも一番前は教会の役員が座って、それから神学生が座る。そうなるといつも礼拝が、自然とお父さんの横になるのです。ですから、いつでも緊張しながら、眠い目こすりこすり必死になって礼拝を守ったものです。
 
 でも、父は少しも厳しい方ではありませんでした。むしろ、いつも優しさに溢れていました。神学校を卒業して、岩手の花巻教会に赴任した際には、もの凄く大袈裟と思える、立派な漆塗りの器に入った祝電を送って下さったり、町田の教会に来ました時からは、何かあるという時は、自ら出席して下さいましたし、この教会でも、牧師就任式や、会堂建設にも協力して下さいましたし、献堂式にも来られました。まさに、私たち夫婦の、どんな時でも応援して下さいました。
 ご自身が営業畑の人生だったからかもしれませんが、人の話を聞くのがとても上手で、人のどんなつまらない話も、大袈裟な程の表情をつけて応対してくれるのです。ですから、どんどん調子に乗ってすっかり話して、気持ち良くなっているうちに、いつの間にかお父さんのペースになっている。ですから思わず、取引先の相手がそのペースにはまると、気持ちよくハンコを押して契約がとれるのだろうなぁ、そんなことを思っていました。

 私たちのどんな時でも応援してくれていたと思うと、余計にその死が中々受け入れられないものです。

 父が通っていた教会の牧師で、私に洗礼を授けてくださった熊野清子という牧師がフィリピ書のこの箇所について、記している文章があるのですがこうあります。

 「私どもは一体、主イエスがその自己謙卑によって、神の子の高さを、人の子の低さにおとしたもうた、この神の子の受肉の奥義を、どれだけ深く思いめぐらしているだろうか。神の子が、死を味わう人間とまでなりたもうた事を、私どもはつねに新しい驚きをもって、考えねばならない。」

 私は、父の死をこんなにも驚きと悲しみを持って過ごしているこの時期に、熊野先生の文章を読みながら改めて思いました。神が謙り、人の子となってこの世に誕生された。その方が更に最も謙遜となって十字架に死なれた。神が人となり、謙遜の中で十字架で死んでいかれた事実を私たちはどこまで、心に感じているのだろうか。

 もしかしたら、この事実を深く受け止めきれないまま過ごしているとしたら、私たちは神に対して、また、人に対しても謙遜に生きていないのかもしれないとさえ思うのです。

 先週の木曜日は、深谷地区の家庭集会でした。そこで、私はルカによる福音書の5書27節からの箇所を読んで、お話をさせて頂きました。新約聖書の111頁ですが、そこを開いてみましょう。レビを弟子にするという箇所です。「主イエスが出て行くと、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、主が『私に従いなさい』と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」とあります。そして、その後、レビの家で盛大な宴会を催して、その宴会には徴税人やほかの人々が大勢いたとあります。当時の社会では、受け入れてもらえない人々や、罪人と呼ばれていた人々が沢山いた宴会であったと思われます。

 その様子を見ていたのが、ファリサイ派の人々やその派の律法学者達で、彼らは思わず近くにいた弟子たちにつぶやきました。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」それに応答するようにして主が話されました。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」

 聖書に登場するファリサイ派とか、律法学者は、多くの場合、主イエスと敵対する役割となり、あたかも敵役であり、特に主イエスの十字架を思いますと、このような人達こそが主を罪に追いやった犯人だと思いながら読みますから、どうしても良い印象はありません。でも、当時の社会的な状況から考えれば、ファリサイ派とか律法学者こそが、社会の道徳的見本であり、宗教的な手本でもあり、多くの人々の尊敬を集めていた常識のある人々ではなかったと思うのです。
 本来、決して悪役でもなく、悪者でもなく、自分達もそこまで悪人だとは思っていなかったと思います。というよりも、自分達こそが誰よりも善人であり、正義であると思っていたのではないでしょうか。

 だから、弟子たちにつぶやいたのです。「なぜ、あなたたちは徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」この問いは、当時としては当たり前の問いかけであったと思われます。

 しかし、当時としてはというよりも、現代だとしても、例えば私が「この世の中には、悪人がいて、善人がいます」とか、「この世は正義と悪とで出来ています。」と言ったとすると、なるほどそうかもしれないと思わるかもしれませんが、その時に、恐らくそう思う人の心の中にあるのは、「自分は善人」であり「自分は正義」というカテゴリーに入るのではないでしょうか。
 この世に悪人がいて、善人がいると言われて、なるほどと思いながら、「わたしは悪人だな」と思う人がどれだけいるでしょうか。殆どいないのではないかと思うのです。自分はいつも正しい人であり、善人であり、決して悪人でもなければ、悪でもないと思うのだと思います。けれど、そうなると主イエスが「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」と言われた言葉によれば、私たちは正しい人なので、招かれていないことになります。

 けれど、主は私たちを招いておられるのです。なぜなら、やっぱり私たちは善人ではないからです。どんなにあの人は善人だと言われようと、家内の父のように、本当に立派な人だったと思いますけれど、そうであればあるほどに、むしろ、その人の心には、自分は神の前において、どんなにか罪があると感じられる心を持って生きていたのではないかと思います。

 キリスト教は神の前に皆平等であると教えます。人は皆平等である。それは、能力の違いや、社会的地位とか、健康なのか、病気がちかといった様々な点を越えて尚、平等であると告げることが出来るのは、人は神の前において、誰一人完全な者はなく、欠けがあり、罪を持っているという点において平等なのだと思います、と家庭集会でお話させて頂きました。

 そして、尚、そのような罪に生きていた私たちを罪無しとされるために、神は人の姿を取って、更に十字架で死なれたのです。主イエスが死んだ、「神の子が、死を味わう人間とまでなりたもうた」その意味を私たちは深く感じてこの受難週の一週間を過ごしていきたいと思います。
 
 そうであるならば、私たちは具体的にはどう過ごすのか、自分達の罪の深さを悔いながらの日々を過ごす、そういうことも大切でしょう。何よりも祈りつつ過ごしていければと願いますけれど、私がここで申し上げたと思うのは「十字架の死に至るまで従順であった」主イエスの姿に倣うことではないのかと思うのです。

 つまり、徹底的に謙遜に生きる姿が求められているのではないかと思います。私たちは十字架で死なれたほどに謙遜に生きられた主の愛によって支えられ、そのことを知って、自分は善人だと思っていたけれど、そうか神の前にはこんなにも罪を犯して生きていたなといつの時にか知らされて、だから、神の前に礼拝を献げる礼拝の民としてここに集っています。だから、主イエスの姿に倣って、謙遜に生きていく、でも、謙遜に生きていくとは、どういうことだろう、謙ることが大切だと言われるとしたら、誰に対しても謙ることだと思いますけれど、でも、なんだかそれは卑屈な生き方になってしまうかもしれません。
 卑屈な生き方は決して謙った生き方ではないと思います。

謙 遜な生き方、私が尊敬するある牧師はこう定義しています。「今、置かれている状態を感謝して生きること」今、置かれている状態によらず、その状態で感謝出来るか、どうか、ということではないでしょうか。教育の場で活躍され、またシスターでもあった渡辺和子さんが「置かれた場所で咲きなさい」という本を出されました。230万部も売れたそうですが、その一ページ目に記していることは、御自身が岡山の女子大の学長となった時の話しです。

 若干36歳で大学の学長を命じられたというのです。それも神の思し召しと命令を受けたそうですが、初めての土地、思いがけない役職、未経験の事柄の連続、自分の思いとはあまりにもかけ離れていた状況に、私はいつの間にか「くれない族」になっていました、とあります。くれない族とはすれ違っても、「挨拶してくれない」こんなに苦労しているのに「ねぎらってくれない」つらい思いをしているのに「わかってくれない」

 自信を失い、もう修道院さえ辞めたいと思うようになっていた渡辺和子さんに、一人の宣教師が短い英語の詩そっと渡してくれたそうです。その詩の冒頭の一行目が、「置かれたところで咲きなさい」という言葉だったそうです。この詩を読んで、和子さんの心は変わったそうです。「そうだ。置かれた場に不平不満を持ち、他人の出方で幸せになったり、不幸せになったりしては、わたしは環境の奴隷でしかない。

 人間と生まれたからには、どんなところに置かれても、そこで環境の主人となり自分の花を咲かせようと決心することが出来ました。それは「私が変わる」ことによってのみ可能でした。」とあります。

 更にその詩の先にはこうあるそうです。「咲くということは、仕方がないと諦めることではありません。それは自分が笑顔で幸せに生き、周囲の人々も幸せにすることによって、神が、あなたをここにお植えになったのは間違いでなかったと、証明することなのです。」私は、かくて、くれない族の自分と決別しました。とあります。

 皆さん、自分の人生をどう生きるのかの秘訣は、どうも「私が変わる」ところにあるようです。置かれている状況に感謝して生きられるかどうかにあるようです。

 主イエスは御自分がこれから捕らえられ、裁判にかけられ、十字架にかけられる状況を既にご存知でした。マルコによる福音書からゲッセマネという所でご自身が必死に祈っている場面を読んで頂きましたが、弟子たちがどうしても寝てしまうその横で、主は必死に祈りました。「アッバ、父よ、あなたはなんでもおできになります。この杯をわたしからとりのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

 皆さん、置かれている状況が、とても好ましい状況であるならば、感謝して生きるのは難しくないでしょう。願う学校に入ることが出来た。願う仕事に就職できた。願う人と一緒になれそうだ。願う赤ちゃんが誕生する、といった状況が好ましいのであれば、主に倣うことは難しくないかもしれません。

 けれど、願う学校に入ることが叶わない、願う仕事に就くことが出来ない。むしろ、時として願わない病気にかかる、そのような状況でこそ、しかし、主イエスが祈られたように「御心に適うことが出来ますように」と謙遜に祈れるかどうか、そして、人に振り回されないで、自分はこんな花をこの場で咲かせよう、いや、咲かさせて下さいと祈れるときこそ、そこに本当の謙遜があるのかもしれません。

 十字架の死に至るまで、謙遜に生きられた主イエスに従って、その謙遜の先にある復活という大きな希望に向って、私たちは今週も共々に過ごして参りましょう。
                                                            お祈りいたします。

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