日本キリスト教団 大塚平安教会 

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1月31日(日)ビデオ礼拝 説教題「主の声に聞き従おう」

2021-01-31 09:30:00 | 礼拝説教
2021年1月31日(日)【降誕節第6主日 教えるキリスト】

黙 祷

招 詞 ヨハネによる福音書2章11節
「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」


讃 美 479番 「喜びは主のうちに」 菊池典子姉




聖 書 

旧約聖書 詩編95編1~11節
1 主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。2 御前に進み、感謝をささげ 楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。3 主は大いなる神 すべての神を超えて大いなる王。
4 深い地の底も御手の内にあり 山々の頂も主のもの。海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた。6 わたしたちを造られた方 主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。7主はわたしたちの神、わたしたちは主の民 主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。
8 「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように 心を頑にしてはならない。9 あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。10 四十年の間、わたしはその世代をいとい 心の迷う民と呼んだ。彼らはわたしの道を知ろうとしなかった。11 わたしは怒り 彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った。」

新約聖書 ルカによる福音書9章57~62節
57 一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。58 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
59 そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。60 イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」
61 また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」62 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

説教 「主の声に聞き従おう」


以下 原稿です。
「主の声に聞き従おう」

 説教の準備をしていますと、良くあることですが、行き詰まる時があります。それが何時間も続いた後で、新たな発見と言いますか、ひらめきと言いますか、突然のように頭に浮かんでくることがあります。

 先日も、そんなひらめきを感じたことがありました。それは、「人は誰でも、『そうだねぇ』と言ってもらいたいと思っている」ということでありました。

嬉しくなりまして、家に帰って食事をしながら喜んで家族に話してみました。「人は誰でも『そうだねぇ』って言ってもらいと思うよ」そう話しましたら、家族全員で、お父さん、今頃そんなことわかったの、誰でもそんなことは知っているよ。当たり前だよ。と、総攻撃を受けてしまいました。
 ですから余計にその時に確信しました。なるほど、滅多なことでは、「そうだねぇ」と言ってもらえないから、やっぱり、人は「そうだねぇ」って言ってもらいたいのだ、そう思いました。お分かりでしょうか。(笑)
 
 私たちは誰もが「そうだねぇ」と言ってもらいたいと思います。これは案外大きな問題です。教会の隣に幼稚園があります。幼稚園では毎日、先生方が集まって、実に丁寧に子ども達の成長について話し合いをしています。一人一人の子ども達に目が行き届くようにと一生懸命にしておられます。子ども達一人一人に「そいうだねぇ」という声でもって返しておられるのを見ることがあります。
 幼子が、健やかに成長するために必要な一つは、親や、家族、幼稚園の先生や友達といった人々が「そうだねぇ」という声でもって、幼子の言葉を受け入れることでありましょう。
 
 私たちは人の話を聞くときに、会話の中で、それが正しいのか、間違っているのか、〇なのか、×なのか、あるいは、必要な話か、不必要な話か、を思い巡らしながら聞いているのではないでしょうか。そうすると「そうだねぇ」という言葉が出て来ないものです。あるいは「そうだねぇ」と言うと、こちらが負けてしまうような気持ちになるのかもしれません。あるいは聞いている方にある程度の余裕がなければ出てこない言葉なのかもしれません。

 今、私たちは、コロナ感染予防の為に、緊急事態宣言の中で過ごしていますが、こんな時は特に余裕がありません。時間的な余裕というより、精神的な余裕がありません。「そうだねぇ」となかなか言えない状況を生きているわけで、健やかに過ごせません。余裕どころか、自分の「存在」が危機に瀕しているような状況ですから、むしろ追い詰められているかのようにも感じます。
コロナは私たちの人生に対して、私たちの命に対して「そうじゃない」、「そうじゃない」と「存在を否定する戦い」を挑んでいるかのようで、戦いですから、勝つか、負けるかいった類のものですから、私たちは休まる暇がなく、家にいて休んでいるのに、疲労が蓄積されるばかりで疲れを覚えている方も多いと思います。

 そのような時にこそ、私たちはどこで、どのようにして休息を取るのかが、問われるわけですけれど、何も「Go toなんとか」を使って出かける必要もないかもしれません。創造主なる神を信じる者の特権の一つとして、私たちには聖書が与えられている、ということでしょう。
 聖書は、勿論人の手によって記されたものでしょうけれど、主なる神が直接に関わりをもって、そしてあたかも、温かなお父さんの手紙であるかのように、私たち一人一人に神様の手紙として与えられている書物です。
 
 神の御言葉でもって、私たちの心を温めて下さり、生きる力を与えてくださいます。人間の社会や、コロナウィルスがどんなに存在を否定しようとも、この世界を造り、命を作ってくださった方が、私たちの存在そのものをしっかりと包んで下さっていると感じることが出来る、そのような力があると思います。

 今日はルカによる福音書から「弟子の覚悟」という箇所を読みましたが、三人の人が主イエスと会話をしている場面でありました。
 一人目の人が「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言うと主は「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と言われた。
二人目は、主が「わたしに従いなさい」と言われたのに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と答えたところ、「死んでいる者に、自分達の死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と言われた。
三人目は「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」と頼むと、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた、この三人との会話が記されているわけです。
 
 この三人との会話についてについて、もしかしたら私は一時間でも二時間でも話しが出来るかもしれないと思うところがあります。
「人の子には枕する所もない」という御言葉を読みますと、必ず思い出すことがあって、二十代前半に私が教会の礼拝に出席するようになっていた時の、ある時に牧師に相談というか、愚痴をこぼしたことがありました。私の家は貧しくて、小さな借家に住んで、子どもの頃から財産も無く、私は体力も無く、学力もありません。そう愚痴を言ったところ、流石に「そうだねぇ」とは言われず、「そうですか、でもイエス様は枕するところもありませんでしたよ」そう言って下さった。その言葉を聞いて、イエス様こそ、本当に私の神様としておられる方なんだなぁとつくづく思いながら、力を得て家路についたことがありました。この思い出は生涯忘れることも無いでしょう。
 けれど、皆さん、このような話をしだすとしたら、いつまでも終わらないでしょう。今日申し上げたいことは、一つです。

 わたしに従いなさいと主イエスは話しておられる。今日与えられた箇所は、従う者の覚悟の持ち方を読み取れると思いますが、その覚悟はどういうことか、それは「後ろを振り向かない」ということではないかということです。
主なる神を信じるとは、後を振り向かないということです。後ろを振り向くと、過去のあのこと、このことがどんなにか恐れとなって自分を閉ざしてしまうかもしれません。
 使徒パウロはそれを「奴隷」という言葉で説明しました。ガラテヤ書というところにこんな御言葉があります。「キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」
 後ろを振り向いて、恐れを見つけ、恐れが自分を包むと、恐れの奴隷となってしまって前に進めません。
 自分の過去のあのこと、このことが自分の将来を束縛して、自分の将来をつぶそうとする、そういう力が後ろを振り向くと襲い掛かって来ることがあるのです。
 自分の家が借家であろうが、財産が無かろうが、体力が無かろうが、学力がなかろうが、それが自分の将来になんの関係があるのですか。多くの方は、つまり、世の中は、それは関係があると言うのです。時には家族さえもそう言いますよ。あんたは体が弱いから無理だよ、あんたの成績ではこんなもんだよ。

なにより決定的なのは、自分でも全くそうだと思ってしまうのです。自分でもそうだと思ってしまうと、決して前には進んでいかないでしょう。

 私たちの人生は一度切りで、決して過去に戻らないのに、気持ちが前に進まない、心だけが過去に生きている、そういうことが時としてあるかもしれません。

 でも、皆さん、主イエスの「わたしに従いなさい」という声は、聖書に登場する三人だけに届く声ではありません。
今の時代を生きる私たちにも届けられる声でもあります。その声をしっかり聞き取ることです。何よりも、自分が神様から見捨てられてはいない、自分は神の民として生き、生かされていることを思い起こすのです。どんな状況にあっても、自分の存在が肯定される世界があることを思い起こすのです。

 あなたはもはや、過去のあのこと、このことの奴隷ではない、あなたは神の御前に自由となって、大きくあなたの人生を生きてご覧と主は励まし、力付けているのです。

 先ほど、詩編95編を読みました。この詩編は主の御前に、自分が肯定され、祝福されている状態を、喜びをもって歌い上げている詩編です。自分がどこに所属しているのか、はっきりと認識しながら歌いあげていると思います。
95編7節を読みます。「主はわたしたちの神、わたしたちは主の民 主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。」

 私たちもまた、主の民であり、主に養われる群れです。その方が、私たちと共におられます。共におられるだけでなく、私たちの思いに「そうだねぇ」と肯定して下さり、どんな時も前を向いて生きるようにして下さっています。だからこそ、恐れ、不安、不満が世界を覆う状況の中で、自分を見失わず、神の民として、私たちは生きていけます。感謝を持って今週という未来をしっかりと過ごして参りましょう。

 お祈りします。





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