日本キリスト教団 大塚平安教会 

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2021年3月21日(日)ビデオ礼拝 説教題「神の慈しみに生きる」

2021-03-21 09:30:00 | 礼拝説教
2021年3月21日(日)【受難節第5主日  十字架の勝利】

黙 祷

招 詞 ゼカリア書9章9節
「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗ってくる 雌ろばの子であるろばに乗って。」

讃美歌69番「神はそのひとり子を」 菊池典子姉



聖書 旧約聖書詩編103編 1~10節

1 【ダビデの詩。】わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって 聖なる御名をたたえよ。2 わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。3 主はお前の罪をことごとく赦し 病をすべて癒し4 命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け5 長らえる限り良いものに満ち足らせ 鷲のような若さを新たにしてくださる。

6 主はすべて虐げられている人のために 恵みの御業と裁きを行われる。7 主は御自分の道をモーセに 御業をイスラエルの子らに示された。8 主は憐れみ深く、恵みに富み 忍耐強く、慈しみは大きい。9 永久に責めることはなく とこしえに怒り続けられることはない。10 主はわたしたちを 罪に応じてあしらわれることなく わたしたちの悪に従って報いられることもない。

新約聖書 ヨハネによる福音書8章1~11節

1 イエスはオリーブ山へ行かれた。2 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。3 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、4 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」6 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。9 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。10 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」11 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕

説 教 「神の慈しみに生きる」 菊池丈博牧師



以下、原稿です。
「神の慈しみに生きる」

 皆さん、おはようございます。今日、3月21日で二か月半に及んだ緊急事態宣言が解除されることになりました。来週3月28日の礼拝から会堂での礼拝を再開します。とはいえ、コロナ感染の不安が消えたわけではありません。
依然として感染予防に留意しなければなりません。暫くの間はコロナ前の礼拝に戻れないと思いますが、それでも、久しぶりに皆さんと共に同じ場所で礼拝を献げられる幸いを過ごしたいと思います。
 
 今日をもってウーバー週報の役割は一旦終了となります。ウーバー週報で案外、評判が良かったのは、表紙に記載した「小さな美術館」でした。楽しみですと言って下さった方が何人もおられました。
 
 今日の週報の表紙は、マグダラのマリアにしました。聖書を読んでいる方であれば、マグダラのマリアは良く知る女性の一人でしょう。ルカによる福音書の8章に「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラのマリア」と記されています。ですからマリアは何らかの重い病にかかっていたのかもしれません。古来、病気は悪霊によって引き起こされるとか、その人の罪の結果であると考えられていました。

 七つの悪霊の意味は、命に関わる程の重い病気ということかもしれません。そのような危険な状況を救って下さったのが主イエスだったのでしょう。
主に癒され、元気になったマリアは主イエスに従い、主イエスと共に歩み、最後まで主の十字架に寄り添い、復活の墓に向かったのも彼女でした。それ故に誰よりも早く主イエスの復活を知らされたのも、彼女でありました。
 
 聖書では重要な役割を担ったマリアですが、マリアとは一体誰なのか、様々な考え方があります。例えば、ベタニア村のマルタ、マリア、ラザロの三人兄弟、姉妹のマリアが実はそうだと言われたり、主イエスの足元に来て、泣きながら高価な香油を塗った女性がそうだとも言われたりします。
 あるいは、今日読みました、ヨハネによる福音書8章の、「罪を赦された女性」がそうだとも言われます。
この女性は姦淫の罪を犯し、捕らえられ、主イエスのもとに連れて来られました。連れて来た人々は、主イエスを訴える口実を作るために、この女を石で打ち殺したほうが良いのか、そうしない方が良いのかと主に問いかけました。

 主が「殺してはならない」と言えば、この男は神の律法を守らないと言えるし、「殺してしまえ」と言えば、この男が伝えている「愛」の教えは、形だけでしかないと、あざ笑うことが出来る、どちらにしても主イエスを窮地に追い込めるだろうと考えたのでしょう。
 けれど、主は「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と答えられた。人々はその答えに驚き、暫くすると年長者から始まって、一人また一人と立ち去ってしまったとうのです。誰もいなくなった時に、主イエスは身を起こして言われました。「婦人よ、誰もあなたを罪に定めなかったのか。」女は「主よ、だれも」と答えると、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」と告げられたわけであります。

 このようにして、女性が主イエスから赦されていく、「これからは、もう罪を犯してはならない」と言われていますから、やっぱりこの女性は姦淫の罪を犯しているのです。主イエスは、それを無かったことにしようとか、水に流すから、と告げたわけではありません。罪を罪と知った上で、「わたしもあなたを罪に定めない」と告げられたのです。

 この御言葉によって、この女性は自分を取り戻し、主の歩みに寄り添うことを願ったと思われます。そして、実際に主に従ったであろうこの人こそ、マグダラのマリアではないかと古来、言われてきました。その真偽はわかりません。 
けれど、私はここに、主イエスが告げた福音とは何かを見るような思いがするのです。
 神の福音とは徹底的な赦しです。赦しとは一体なにか、どのような意味なのか、その人が何か罪を犯したとか、犯していないとか、正しい人か、正しくない人かとか、何をしている人か、していない人かとか、健康なのか、病気なのかとか、頭が良いのか、そうでもないとか、収入があるのか、ないのかとか、私たちはいつも、そのようにして人を判断するところがあります。でも、そういった判断は、結局は赦しへと繋がっていかないのだと思います。

 今、既に三月も後半となります。この2020年度の締めくくりの時を過ごしています。この年度はコロナで始まり、コロナで終わろうとしていると言っても良いでしょう。私達の教会も緊急事態宣言下では、人の命を最優先と考え、会堂礼拝を行わないで過ごしました。これまで経験したことが無い状況でした。
けれど、新しい2021年度、ワクチンが接種されて、次第にこの騒動も少しずつ静まるだろうと希望的観測をしていますが、そうであれば、いよいよ2021年をどう過ごすのか、教会はどのようにして福音宣教を成し遂げようとしているのか、3月の役員会でも、何よりも牧師の思いに添った計画を立てましょうと、役員の皆さんが言って下さいました。ありがたいと思います。
 
でも、実の所、叱られるかもしれませんが、これをするといった確かな計画があるわけでもありません。じゃ、何もしないのかと言われると、そんなことでもありません。
 
 大分昔になってしまいましたが、先輩の牧師から、「教会の会話は、全てが祈りに向かって、祈りで終わるような会話でなければ」と教えられました。その牧師に会いに行きますと、本当に歓迎してくださり、楽しい時間を過ごし、帰る時には必ず玄関まで送って下さいました。こんな牧師になれたらと心から思ったものです。今でもそう思っています。
ですから、私は祈りに始まり、祈りに終わる教会を目指したいと思います。でも、もしそう決めると、今度は恐らく祈ったか、祈らなかったか、やったか、やらなかったかが問われるかもしれません。果たしてそれが赦しへと繋がっていくのでしょうか。

 今、私が思うのは、目標を立てて、達成したかどうかよりも、「神の赦し」に生きていきたいということです。赦しとは愛とも言えるし、今日は詩編の103編を読みましたが、103編の御言葉から考えると、「憐れみ」とか「慈しみ」という御言葉と重なります。
 詩編103編を読みますと、状況としては、詩編の作者は、恐らく重い病気を患っていたと思われます。病はその人の罪から来ると考えられていました。病を患っている人は、神から遠い所にいる人であり、それ故に、罰を受けていると考えたかもしれません。
 けれど、病が回復し、健康を取り戻した。神様、あなたは私を見捨てたわけではなかったのですね、と喜びの中で「わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって 聖なる御名をたたえよ。私の魂よ、主をたたえよ。」と歌いだすのです。

 8節から読みますとこうあります。「主は憐れみ深く、恵みに富み 忍耐強く、慈しみは大きい。永久に責めることはなく とこしえに怒り続けられることはない。主はわたしたちを 罪に応じてあしらわれることなく、わたしたちの悪に従って報いられることもない。」ここに、「憐れみ」、「慈しみ」という御言葉が記されています。
特に「慈しみ」はヘブライ語で「ヘセド」という言葉ですが、ヘセドを訳すると、慈しみの他に「愛」、「真実」、「恵み」、「憐れみ」、それらの全ての意味を含んだ言葉となるようです。
それらの全部を合わせて「慈しみ」です。神の「慈しみ」によって、私たちは命が与えられ、神の「慈しみ」によって今日を生き、生かされている。それが詩編の作者の思いであったでしょう。

 改めて思う私の願いは「慈しみ」に生きる教会、「赦し」に生きる教会、「憐れみ」に生きる教会、そして「愛」に生きる教会です。
新しい年度になるにあたり、改めてそう思います。でも、それは次年度の達成目標とか数字に表されるものでもないでしょう。というより、教会は二千年以上に亘り、そのような教会像を描き、そのような礼拝を求め、人々の霊性が高められるようにと願い、平和な世界を祈り続けてきたのではないでしょうか。

 キリスト教の歴史を顧みますと、その実態は、平和から遠く、時には戦争、時には権力争い、時には腐敗、実に人間臭い一面があることを否定出来ません。否定できないどころか、教会は人間臭さの中を歩んで来たとも言えるでしょう。
でも、そんな状況でも、主なる神は私達に対して、「憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、」そして、あたかも罪を犯した女性を赦されたように、慈しみの眼差しをもって、私たちを見つめ続けてくださっているのだと思います。

 神の赦し、神の慈しみは、私達を包み込み、生きる力を与え、勇気を与えてくださいます。私たちは、神の力によって元気に過ごしてまいりましょう。教会のエネルギーは、主なる神、主イエス・キリストです。この方から、しっかりと愛を受け取り、神の力を与えられて、今日も、また今週も、そして、新しい年度に向かって、生きて参りましょう。

 お祈りします。

黙 祷








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