日本キリスト教団 大塚平安教会 

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神が赦して下さったように

2018-12-10 09:48:32 | 礼拝説教
【申命記10章12~22節】
【エフェソの信徒への手紙4章25~32節】

 先日、幼稚園の職員室におりました時に、ある馴染みのお母さんが顔をだされて、「あ!先生、今月の聖書の会はいつですか?」と聞いて来られました。「何か話したいの?」と聞きましたら、「山のようにある」(笑)とおっしゃっておられました。明後日、火曜日がその会になります。
 
 少し、極端かもしれませが、お母さん方の悩みは大きく分けると三つあります。一つは子どもの悩み、二つ目は夫の悩み、三つめは夫の家族の悩み、他にも仕事の悩みとか、近所づきあいの悩みなど聞くこともありますけれど、子どもか、夫か、お姑さんの悩みが圧倒的です。血のつながりで言えば、親子は血のつながりがあります。血のつながりがあるとう意味は、別の言葉で言えば、自分では選べないということです。親が自分の子をどの子にしようかと選ぶことも出来ませんし、子も同じように親を選んで生まれてくるわけでもありません。
 ですから今でも普通にお母さん方は「子供が出来た」という言葉を使いますけれど、「授かった」と言って欲しいなと思っていたりします。

 そういう意味で言うと、家族として最も近しい人でありながら、唯一血の繋がりが無いのが、妻であり夫である夫婦になります。繋がりがないという意味は、自分で選ぶことが出来るということです。ですから、恐らくこの三つの中で、一番大切にしなければならない相手は伴侶だと私は思います。夫は妻の話を聞く、妻は夫を褒めてあげる。これだけで大方の問題は解決しますよと申し上げますけれど、まあ、それが中々出来ない。逆になんでこの人を選んだかなと思うと腹が立つ(笑)といった話を聞いたりするわけです。その腹が立つ思いのまま、日頃、子どもと接するわけですから、時として、子どもがそのとばっちりを受けるわけです。

 一日が、早く起きなさいから始まって、早く着替えなさい、早く顔を洗いなさい。早くご飯を食べなさい、早く支度しなさい、早く家を出なさい。早く歩きなさい、と言いながら一日が始まるのです、学校に行くようになると、子どもが勉強しない、宿題をしない、部屋の掃除をしない。いうことを聞かない、そういう話しで満載になります。

 でも、そう言われても、帰ってきたら早く宿題しなさいと言って、「はい、わかりました。今から宿題をします。」部屋の掃除ぐらいしなさいと言ったら「はい、今からすぐやります。」と答える子どもがいますか?と聞きます。まあ、いないと思います。

 言うこと聞かない子供を前にして、夫からはお前の子育てが悪いと言われたり、妻のほうも、あんたがもっと子育てに協力しないからなどと言い合いになったりすると、益々子どもの心は傷ついたりするわけです。自分のことで親が喧嘩していると思いますからね。だから夫婦仲良くしているのが一番良いと思います。

 誰でも、人から上から目線で命令されるように言われたら腹が立つものですし、喜んで従おうとはしないのではないでしょうか。

 そんなことを思いますと、今日読んで頂いたエフェソの信徒への手紙の4章25節から読んで頂きましたが、この箇所には特徴がありまして、どんな特徴かというと、パウロはひたすら命令しているような口ぶりといいますか、そういう記し方なのです。

 「真実を語りなさい」「罪を犯してはなりません」「日が暮れるまで怒ったままでいてはなりません」「悪魔にすきを与えてはなりません」「今から盗んではいけません」「悪い言葉を一切口にしてはなりません」「神の聖霊を悲しませてはいけません」「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切悪意と一緒に捨てなさい。」

 文法的に調べると12個の命令形の形で記されているそうです。人は大体命令されるのが嫌いですし、命令する人も嫌いです。ですから、宿題やりなさいとか、ゲームばっかりしてないで、勉強しなさい、早く寝なさいと言われれば言われるほど、抵抗する。

 でも、なんで抵抗するかというと、それが真実だからです。子どもは子どもなりに親が言っている通りだと思っています。思っているけれど、出来ない、出来ないけどやらなければと思っている。思っていること、つまり真実を言われると更に腹が立つので抵抗することになります。

 それでも聖書は「それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。」とあります。しかも12もある命令の最初が「真実を語りなさい」ですからね、でも真実を語るとはどういうことでしょうか。実際の所、親の目からみれば、やらないことは事実だし、だからやりなさいと言うと、やらないし、言わなかったら尚更やらない、これも真実ですからね。じゃどうすればいいのか、真実を語るとはどういうことか、わけが分からなくなります。

 詩編18編30節にこんな言葉が記されています。「主の道は完全 主の仰せは火で練り清められている。」この御言葉を口語訳聖書で読んでみますとこうあります。「この神こそ、その道は完全であり、主の言葉は真実です。」大分違っています。けれど、その違いから分かることは、神の真実なる言葉は、火で練り清められた言葉、鍛冶屋が、良い鋼を作るために、何度も繰り返し、繰り返し、火で熱しては叩き、火で熱しては叩き、練り清められて強くて、粘りのある良い鋼が出来てくるようにして、神の真実なる言葉はよく練り清められていくのだということでしょう。
 
 以前にも話したことがあったと思いますが、私が牧師となって岩手の花巻の教会にいった年、数ヶ月経った頃だったと思います。次の礼拝で、与えられた御言葉について、どう話すと良いのか随分悩んでいました。新米の牧師としては手に余ると思えるような聖書箇所、何度読んでも、一つも良い説教の言葉が出て来ないのです。でも今週は無理でしたとも言えず、自分にとっても決して満足のいかないまま礼拝に臨み、御言葉を告げたことがありました。何しろ話している本人がよく分かってないわけですから、聞く方も大変だったと思います。それでも何事もなく礼拝が終わり、その週の中頃のことでした。
 中島さんという、当時70代だったと思いますけれど、30代の私からみればおじいさんです。その方がやってきて、先生美味しいそばがあるから食べに行こうと誘って下さった。

 私は喜んで一緒に行ってそばを食べました。食べながら殆どが世間話だったと思います。内容は全く覚えていません。でも一つだけ覚えていることがある、世間話をしながらも、中島のおじいさんがふと話をされた「そういえば、この間の説教は難しかったです。」こう言われたのです。その言葉を聞いた時に、もうそばの味なんか、ぱっと吹っ飛んでしまって、「やっぱりそうだったんだな~」もう本当に深く反省したことを覚えています。

 それ以来、より一生懸命に頑張ろうと心に誓ったことを良く覚えています。神の言葉は真実ですよ。中島さんはそれを言いたい為にそばに誘ったわけでもないでしょう。ただ本当に美味しいそばを食べさせたいと思って誘って下さった。でも、そこで「この間の説教は難しかった」と言われた。それは、「よく火で練り清められた」神の言葉だと思います。29節に「ただ、聞く人に恵が与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」ともありますが、恐らくそんな意識もなくただ本当に難しくてわからなかったなぁという思いを話されたのです。逆に、もし意識していたとすれば、そばを誘いに来る時から、もうその時点で分かりますよ。
そして、真に不思議なことに、意識すればするほどに、神の真実から離れていくのではないでしょうか。

 会話する中で、大した意識することもなく自然に「難しかったなぁ」と出て来たのでしょう。でも、少なくとも私にとっては生涯忘れない言葉、命令するような言葉でもなく、なんでもっと勉強しなかったのか、準備しなかったのか、出来ないのか、やらないのかを百回、二百回言うよりも、たった一回、でもそれが神の言葉として迫ってくる真実の言葉があるのだと思うのです。

 真実を語るとは、少なくとも事実を語ることとも違うし、命令することとも違う、やっぱり人の心に響いてくる、しかも、その人の励ましとなり、力となる言葉なのだろうと思います。
 
「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません」ともあります。直接的な訳し方をしますと「怒れ、罪を犯すな」これだけです。コヘレトの言葉の7章に「気短に怒るな 怒りは愚者の胸に宿る」ともありますから、すぐに怒ったりしてはいけない。幼稚園のお母さん方にも時々、子どもを叱る前に三つ数えるとか、深呼吸するとかすれば、幾らか落ち着くのではないですかと話すこともありますが、そんなことが出来るなら、最初から怒っていません(笑)とも反論を受けたりもしますが、世の中には怒るべき時もあると私は思います。
 
 主イエスが、ある安息日の日、礼拝堂に入ったら、手の萎えた人がいるのを見つけて、礼拝堂の真ん中にたたせて、人々に聞きました。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」人々は黙っていました。その姿を見て主イエスは怒ったとあります。怒りと悲しみの中でその人の手を癒されたとあります。ですからきっと正しい怒りはあるのだと思う。けれど何が罪を犯すのか?日が暮れるまで怒ったままでいてはいけないというのです。日が暮れるとは一日の終わりを意味します。怒りを次の日に持ち越すなということです。

 コップに水を半分入れて、手を伸ばして暫くそのままでいる。それが怒りの状態だと説明した学者がいました。コップは特別重くないし、伸ばした手を戻して、テーブルにコップを置けば、それで終わりです。けれど、問題は、コップを持って手を伸ばしたまま、次の日も、次の日も続けるとしたら、どんなに軽いコップでも、疲れ果ててしまう。疲れる前に、コップを置くことが大切ですと教えておられます。日が暮れるまで怒ってはならないという意味を良く表していると思います。

 さて、このようにして一つ一つ12の命令について、話していく暇はないと思います。ですから要するにどうなるのかというと、これらの命令形のようにして記されている御言葉をどう捉えるのか、32節の御言葉です。「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」今日のタイトルを「神が赦して下さったように」といたしました。

 私たちは、何よりも先に、「神がキリストによって私たちを赦して下さった」ことに目を向けなければならないと思います。この御言葉は聖書全体の中心主題でもあると「エフェソ書を読む」という著書の中で、著者の石田学先生は説明しています。
 
 今日は申命記10章という箇所を読んで頂きました。その中に「あなたたちは寄留者を愛しなさい」とあります。なぜそうなのか「あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。」と説明されています。イスラエルの民は、400年の間、エジプトに住む中で、ついに奴隷とされ、苦役を強いられ、その為に主なる神に叫び、救いを求め、主なる神はその声を聞き、みずからの民を救い導き出して下さったように、そのようにパウロも告げるのです。「神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合う」12もある命令、その一つ一つの戒めに勝って、いや、勝るというよりも、その全ての教えは、この「赦し合う」という言葉に集約されてくるのだと思います。

 先ほどの石田先生は正直に「赦すことは難しい」とも記しています。本当にその通りだと思います。でも、赦すことが求められます。と続きます。怒り、敵意、憎しみは、私た救いへとは導かないからです。と説明します。更に石田先生は、ここで記されている「赦す」という言葉は、ただ相手の罪を水に流すとか、なかったことにするという意味の赦すではなく、神の祝福を互いにもたらし合う交わりに生きるようにと導く言葉であって、そしてそれが、教会が共に生きるということなのだとあります。
 
 しかし、同時に、そんなに上手くいくのでしょうか。どうしてそんな生き方をしなければならないのでしょうか。ともあります。実に丁寧に、人の心を描写しているかのように記しています。しかし、赦すことの決定的な理由はただ一つ、神がそのようにして下さったからという言葉で締めくくられています。

 主なる神は私たちに恵を与えて下さいました。その恵は生半可な恵ではありません。神の御子が命をかけて、私はあなた方の罪を負って死ぬけれど、だから「あなたがたは生きろ」と示して下さった恵です。

 母が子どもをどんなに叱るとしても、どんなに言うことを聞かない子どもだと悩むにしても、多くの場合基本的には大丈夫です。言葉を越えて、もっと深いところで、その子が何をしているのかとか、何を話しているのかを越えて、その子の存在を慈しんでいるからです。どんなに愛しているか、その愛に包まれているからこそ、抵抗も出来るというものでしょう。どんなに抵抗しても愛が少し揺らぐことがないと知っているからこそ、子どもは確かな成長を遂げていくように、私たちは神の愛、徹底的に愛し、徹底的赦して下さっている方に従って、共々に今週も歩んで参りましょう。

お祈りいたします。


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