日本キリスト教団 大塚平安教会  

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心の目を開いてください。

2018-06-03 15:03:41 | 礼拝説教
【詩編119編17~24節】

【エフェソの信徒への手紙1章15~18節】


 「ナルニア国物語」の著者として、また優れた信仰者としても知られるC.Sルイスという人がいます。先月5月の湘北地区教師会で、ルイスについて研究されている方からお話を伺うことが出来まして、私も更に興味を持ちまして、一冊の本を読みました。「キリスト教の精髄」という本です。
 その中に「人間性の法則」と題した文章がありまして、人は、昔から自然の法則にのっとって生きてきたのだとあります。自然の法則と聞きますと、私たちは重力とか遺伝といったものを考えますけれど、そうではなくて人が生きるために身に着けてきた人の知恵といいますか、つまり、何が正しくて、何が正しくないのかといったこと。
 例えば、人が喧嘩する、喧嘩が起こるとは、どちらも自分は正しいと思っているから喧嘩するわけです。相互に自分は正しいと思っている以上喧嘩はなかなか収まりません。トルストイという小説家も「喧嘩は片方だけでは起こらないものだ」と書いています。動物の喧嘩は正しさの主張ではありませんが、人は正しさを主張するために争いが起こります。自分は正しくないと思うのであれば、争いは起こりません。
ルイスがそう呼ぶ、自然の法則は、いつの、どの時代にもあったと記されています。古代エジプト、バビロニア、ヒンズー、シナ、ギリシャ、ローマ等の道徳的教訓を比較すると、実際ははなはだよく似ていると気が付くでしょう、とあります。戦いの最中に逃げ出すのが名誉であり、親切にしてくれた人を裏切れば英雄となるような法則はどこにもないというのです。
 
 ルイスはそこで大切な二つを記しています。
 一つは、そのよう何が正しく、何が正しくないかといったような自然の法則を、いつのまにか私たちは身に着けていること。それはクリスチャンであろうと、仏教徒であろうと、違う宗教を信じていようとも、互いが生きていくために、必要な人間の知恵であって、妻を一人とする宗教もあれば、四人までとする宗教もあるけれど、妻以外の女性と不倫するのはいけない、ここだけはどの宗教でも、自然の法則として同じであるというのです。

 二つ目は、そのような自然の法則に生きる私たちですが、不思議なことに、誰ものその法則の通りには生きてこなかったし、生きていない、ですからいつまでも争いが絶えないと言うのです。誰もがそれが正しいと思う、自分も内心は思っている、でもそうは生きられませんから、必然的に人は言い訳もするし、弁解もするわけです。結局の所自分の正しさを伝えようとするわけです。

 日大のアメフト部が話題に上がっていますが、あの監督が一生懸命に弁明して言い訳していましたが、そういうことなのかもしれません。

 更に、「『自分は正しく、間違っていない』と考えている人にとって、キリスト教は語るべき言葉を持っていないのである」とも記されていました。キリスト教は人々に悔い改めを命じ、かつまた赦しを約束する、したがって、悔い改めなければならないという覚えがない、また、赦してもらう必要を感じていない人々にとっては、どんなに言葉を尽くしても自らに罪も感じない、赦しを願う必要もない人では、心が繋がらないということではないでしょうか。なるほどそういうものかもしれないとも思います。

 今日は、エフェソ書1章15節からを読んで頂きましたが、CSルイスの言葉を読んで、思い起こした出来事は、使徒言行録の19章からの出来事です。使徒パウロがエフェソの町に入った場面が記されています。パウロがエフェソの町に入り、宣教活動を始めます。宣教の最初はいくらかの成果もありまして、更にエフェソの町で二年以上に亘り、神の国について大胆に論じ、人々に語り掛け、時には奇跡の業を行い、病を癒し、パウロのまねごとをした偽祈祷師を追い出し、そのような働きをエフェソの町の人々は見ておりましたから、多くの人々が信じるようになっていったというのです。けれど、そのようにして、ある程度成功したかと思っていた矢先に出来事がおこりました。

 エフェソにはアルテミス神殿が建てられていまして、アルテミスと呼ばれる女神がエフェソの守り神であったと思われます。その神殿の周りや参道で神殿の模型や女神の像を造っていた職人たちが騒ぎ出します。パウロは、「手で作った物など神ではないと言って、エフェソばかりでなくアジア州のほとんどの全地域で、多くの人を説き伏せ、たぶらかしている。これでは、我々の仕事の評判が悪くなってしまうおそれがあるばかりでなく、女神アルテミスの神殿もないがしろにされて、アジア州全体、全世界があがめるこの女神の御威光さえも失われてしまうだろう。」と言って、町の人々を扇動して、大騒動が起こったというのです。ですからパウロのエフェソ伝道も決して楽ではなかっただろうと思われます。

 パウロはパウロの思うところの信念によって主なる神へと導こうとしたと思いますけれど、その言葉は、少なくとも自分が悔い改めなければならないとか、間違っていると思っていない人々にとっては、争いの種にしかならないのだと思います。

 エフェソの信徒への手紙の1章17節から読みますとこうあります。「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いて下さるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせて下さるように。」

 ここに記されているのは、エフェソの教会の人々に対してパウロが、一生懸命に祈っている御言葉の一部です。パウロが本当に苦労して、凡そ三年の間、エフェソに滞在して時には理解されない時や、時には先ほどのような暴動が起こったりするなかで、エフェソの教会を建て上げてきたと思われます。エフェソの教会に連なる人々も熱心に学び、祈り、良い教会形成を目指して励んできたのではないでしょうか。ですから、エフェソ書簡で記されているのは、パウロが心を込めて、「エフェソの教会の皆さんよ、教会を形成していくにはどうしてもこのことが必要ですよ」という教え、学問的に言えば「教会論」が記されていると言われます。教会が正しく形成されていくために必要な文章が記されているのがこの手紙だと言われます。

 ここで三つ祈られています。一つは「神を深く知ることが出来るように」二つ目は「心の目を開いてくださるように。」三つめは「神の招きによる希望が与えられている」ということです。

 一つ、神を深く知ることです。先週、子どもの教会の礼拝の後、私は保護者の会を行いました。その中であるお母さんから質問を受けました。「先生、娘から聞かれたのですが、天地を造られた神様って、イエス様と違うの?同じなの?こう聞かれたのですが、どう答えれば良いのでしょうか。」というのです。大切な質問ですが、そんなに上手に簡単に答えられるものでもありません。ですから、とりあえずいつかもお話したかと思いますけれど、「神様は餅のようなもの」という話しを致しました。柔らかい餅が一つあって、それを二つにすることも出来るし、三つにすることも出来るし、でも、また一つにまとめることもできる。天地創造の神も、イエス様も、聖霊も全く同じ神様ですよ。でもね、その話を聞いたお母さんも首をかしげていましたから説得力に欠けているかなと思いながら、後でネットで調べて、子どもでもわかりやすく三位一体を説明する言葉を調べてみました。でも、実際のところ、どれもとてもわかりづらい、ある牧師の文章には、「人にはわからない。神様のことと全部わかるはずがない。」とありまして、これだと既に諦めですからね。(笑)

 でも、皆さん、「神を深く知るように」というパウロの祈りは、何も三位一体の話ではありません。元々そういう意味でもないでしょうし、知的な事柄として神を知っているかどうかではなくて、この天地創造の神が、主イエス・キリストが、自分と深く関わりを持ってくださっている、私は神様から特別に大切にされている。あなたが大事だよ、必要だと誰よりも大切にして下さっているのだと知る、しかも、無条件に、無尽蔵にこの私を愛して下さっている、だから誰とも比べなくてよいし、神の子どもとしていきていけるし、あなたの罪は赦されている、という神の救いを受け入れる心を養いなさいということではないでしょうか。

 そして、そのような心を養うためには「心の目が開かれますように」と祈り、願うことなのだと思います。CSルイスは自然の法則という言葉を用いましたが、私たちの中にも、私たち自身なりの法則が数限りなくあります。そしてそれがなぜ怖いのかというと、私たちはその自分の法則によって人を見て、時には裁いてしまうようなことをするからでしょう。

 ヨハネによる福音書の9章には、主イエスが目の見えない人を癒されたという話しが記されています。主が目を癒して下さった日が安息日であった、それでファリサイ派の人々が怒りだすのです。律法の法則通りです。ですから正義はファリサイ派にあり主イエスに詰め寄り抗議をしました。なぜ、働いてはならんという日に、働くようなことをするのか。
 その答えとして主はこう答えました。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」ファリサイ派の人々は、分かっていると思っていました。
 
 ここで言う「見える」とは分かっている。ファリサイ派ですから律法のことなら本当に分かっていたでしょう。だから自分は正しく人を裁くことが出来る、と思っていたのでしょう。けれど「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」(一コリ8章)とありますが、律法の知識によれば、目を癒された人に対しても、癒して下さった主イエスに対しても、ファリサイ派の人々は我慢できませんでした。自分には見えていると思ったからでしょう。

 柏木哲夫というお医者さんがいます。柏木先生は日本でホスピスの第一人者として知られている先生ですが、以前にNHKの「心の時代」でお話しをされた内容で、こんな話しがあります。

 五十二歳の卵巣癌の末期の患者さんでしたけれど、亡くなる一週間位前に、「何か先生のお役に立って死にたい」と言われたそうです。それで その人との関わりの中で、「関わりの中で」というのは、どうもこの患者さんは柏木先生と一緒に働いた看護師さんだったようです。

 そういう関わりの中で柏木先生が聞いたそうです。「私が、何か失敗したというか、ここはこうしたほうが良かったというようなことがきっとあったと思いますから、それを教えて欲しい」と聞いたそうです。そうしたら患者さんが、「先生、ちょっと言いにくいのですけど…と当初は渋ったそうですが、先生がそう言われるので」と言われまして、「ひと月ほど前に、〝先生、私、もうダメなんじゃないでしょうか〟って、尋ねた時に、先生は励まされたでしょう」。

 先生は、その時のことをハッキリ 覚えていたそうです。というのは、「もうダメなのではないでしょうか」と言われて、ドキッとしたというのです。どう返していいか分からない。

 それで先生は本能的にその時に、仮にBさんとし ますと、「Bさん、そんな弱音吐いたらダメですよ。頑張りなさいよ」と言ったそうです。Bさんは、「はぁ」って、そこで会話は終わっってしまった。「あの時、私は、先生にもっともっと弱音を聞いてほしかったんです。だけど先生が励まされたので、二の句が継げずに黙ってしまいました。その後、とってもやるせない思いが致しました」と言われたというのです。

 先生はこう言われています。「ショックでした、私は、今までどれほど多くの患者さんを同じようなやるせなさに追い込んでいたか。私は気が付きませんでしたからね。弱っている患者さんを励まして、どこが悪いと思っていましたから。私は医者として当然のことをしている。しかしこの患者さんが遺言のように、「先生、あの種の励ましはダメですよ」ということを、私に教えて下さって亡くなった。そこから私は目が開かれました。」

 そんな話でした。皆さん、ファリサイ派の人の特徴は、人のことは良く見える、でも、自分のことは良くわからない。二つ目は、神様が物差しとなって人を計るのではなくて、自分の考え方が物差しとなって、あの人はこう、この人はこうと計ることです。そして、三つ目は、そのようにして、人を裁いては、自分こそが一番神様に近いと思っている人のことです。私たちはそのようなファリサイ派のようにならないように、パウロのように「どうぞ心の目を開いてください」と祈らなければならないのではないでしょうか。

 もともとパウロも、ファリサイ派の1人でした。だから、「わたしは罪人の中の罪人」だと記しています。私は決して謙遜でそう記したのではないと思います。心から自分の罪を知り、如何に神様から離れ、自分が物差しになって人を裁いて来たのかを痛切に感じ続けていたのではないでしょうか。
 皆さん、教会が成長するために必要なことは、祈りです。どうぞ私の心を、私の心の目を開いてください。そう祈り続けて参りましょう。その祈りが究極の希望へと繋がっていくのだと思います。お祈りいたします。

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