日本キリスト教団 大塚平安教会  

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生きておられる神

2018-09-17 09:56:44 | 礼拝説教
今日は、子どもの教会との合同礼拝となりました。

いつもは9時からの礼拝に出席しておられる方は10時過ぎには皆さんが帰って行かれますし、10時半からの礼拝に出席される方と殆ど入れ違いのようにして普段は中々互いに関わることがありません。そんな中、今日のような日の礼拝が行われる、感謝なことだと思います。
 
 今日は「生きておられる神」というタイトルとつけさせていただきました。生きておられる神とはどういうことなのか。
 
 9月の初めに、湘北地区教師会が箱根で行われました。その中で珍しく私が発題を受け持ちまして「宮沢賢治とキリスト教」という話しをさせて頂きました。その話はなんだか毎週話しておりますから(笑)今日はしませんが、私が受け持つ時間が終わりまして、質疑、応答なども終わりまして、懇談の時となった。学びの緊張感も取れて、懇談というより雑談に近かったと思いますが、私が故郷の話ばかりをするものですから、自然と皆さんが御自分の故郷の話をするようになって、ふるさと自慢のようになってきた。
 そんな中、厚木市にある厚木上教会という教会で牧師をされている、柴適牧師がこう言われた。「みんな故郷があっていいなぁ、私は厚木で生まれて、厚木で育って、厚木から出たことがない。」ですから、「柴先生、それは本当になにではないですか。故郷にずっと住めるのは幸いなことですよ」と話しました。
 
 柴先生は、厚木の教会の牧師をされながら、桜美林中学と高校の先生を長年されて、多くの子ども達から愛された先生ですが、柴先生のお父さんが柴勇牧師と言いまして、戦前の昭和8年に厚木上教会に赴任されました。その一年前の昭和7年に教会が創立されていますから、柴勇先生の時から本格的な教会の活動が始まったのだろうと思います。ですから子どもの柴先生は、そこで生まれて、そこで育って、牧師になってお父さんの後を継ぐようにして厚木上教会にいて、桜美林の先生もされた。つまりずっと厚木だということです。
 
 でも柴先生がお父さんのことを思い出してこう話して下さいました。「父は信仰一本で生きた人だった」、「信仰一本」とい言葉なんてあまり聞いたことがありませんが、どういうことかというと、牧師以外の働きを何もしなかったというのです。
 その意味は、貧乏で苦労したというのです。戦前の時代から第二次世界大戦、敗戦後、日本は大変苦しい時代を過ごしました。しかしその時代、特に教会はどこよりも苦労したと言ってもよいかもしれません。人によっては牧師であるというだけで、あるいは敵国の宗教といわれたりして、捕らえられ、獄中で亡くなる方もおられました。けれど、柴先生が話しておられたのは戦争後の事だと思います。戦争後、何とかまた会堂を建てて牧会伝道をされていたお父さん。しかし、信仰一本で過ごされた。
 
 あるときに母親が牧師の父に言ったというのです。「お父さん、我が家にはもう食べる物がありません。」そういう会話を幾度か聞いたというのです。
 
 それで先生どうしたのですか?と尋ねましたら、仕方が無いから、教会の前にあった小川に行って、食べられそうな、ザリガニや、ナマズ、ウナギを取って食べたと言うのです。ウナギはねぇ(笑)。
 でも当時、ウナギもいくらでもいたそうです。
ですから、恐らく学生だった柴先生自身が、父親に向かって「親父、もっと仕事してくれ」と言ったこともあったそうです。その言葉がこたえたのか、牧師だけではさすがに無理と思ったのか、仕事を探して工場のような所に勤めだしたそうですが、きっと辞めるだろうと思っていたら、やっぱり、三日ぐらいで辞めて来たというのです。手が不器用だったからと笑っていましたが、だから、信仰一本で生きた人だった。

 でも私の目から見れば、どこか嬉しそうに、はにかみながらも、少し自慢げに話して下さいました。良い話を聞いたなぁと感動しながら聞いていました。
 
 この話の何が良いのか、というと牧師として働いていた父親を見ながら、家には実際は殆ど収入も無かった。だって食べる物が無くなるほどですからね、外に働きに出ても不器用でクビになってくるような父親。

 まさに信仰一本で生きた父親の姿を見ながら、でも、柴先生は、そんな父親の生き方、考え方、話し方、愛し方、子どもとして様々な葛藤があったと思いますが、やっぱり尊敬出来る父親であって、自慢の父親であったに違いありません。だから、自分も父親のように生きたい。そのようにして牧師となられて、父親が長年守り続けて来た教会の牧師として今も精一杯の働きをされている。

 皆さん、そのようにして子どもは、男の子であれば、一番身近な父親の姿を、女の子であれば母親の姿を見ながら育つのではないかと思います。 

 だから立派に生きなければならないということでもありませんし、別にプレッシャーをかけているわけでもなくて、何よりも大切なのは、自分の妻が、自分の夫が、この妻で、この夫で良かったなと思う、自分の家族がこの家族で幸せだと思う。自分の与えられている仕事、役割に誇りを持って、喜びをもって打ち込めることが出来る、本当に良かったと思いながら生きる。そんな喜びを生きていくことがきっと子どもに対する最高の子育てではないでしょうか。

 今、巷で騒いでいることの一つに、スポーツ界のパワハラの事件があるようです。詳しいことはよく分かりませんが、体操とか、重量挙げとか、色々あるようです。自分の言うことを聞かなければ、大会に出させないとか、あるいは体罰があったとか、どうもきっと、アメリカン・フットボールの事件以来、そういったことが続出しているようにも感じます。なぜ、こうなったのか組織の問題だとか、権力の構造とか、抜本的な改革とか、知識人が色々と言っていると思います。

 けれど、こういう事件が起こる原因はそんなに難しいわけではありません。私は実際はとてもシンプルではないのかと思う、それは、「関係」という一言です。

 私たちが悩む、悩みのほぼ100%が、「関係」の問題であるとアドラーと言う心理学者は伝えていますが、私たちは、人と人との関係、人間関係の中で悩むのです。けれど、人と人との関係の中で、人は育ち、愛情を受け、人を信頼する心を育み、そして社会に出て、人と人との良い関係の中で社会生活を営み、家庭を築き、子どもを育てるのです。そうやって人は一人前になっていくのです。

 でも私たちは人間ですから、全てを上手に生きていけるわけでもありませんから、その関係が上手くいかなくなる時がある。だから、時には夫婦喧嘩もするし、親子喧嘩もするし、友達とも仲たがいするし、恋愛関係を築くときもあるし、それが崩れていくこともある、説明なしでも、私たちが直接経験していることです。

 パワハラの問題も同じではないかと思う。その人との関係が互いに信頼関係を築いているのなら、少々の意地悪な言葉をかけられた、少々ぶたれた、でもそれは自分に対する愛情だと思えるのなら、問題は殆ど起こりません。けれど、関係が築けていないところでは、時には、何気ない一言でさえ、パワハラだと言われてしまう可能性があるのではないでしょうか。

 その人が悪いとか、良いとかではなく関係が悪いのです。

 家族の話に戻りますが、夫婦関係、親子関係、家族関係、友達関係、それぞれが上手く行っている、そう感じられるときは私たちは「幸せ」を感じますし、生きるエネルギーも出てくるものですし、希望を持って生きていくことが出来るのです。
 
 けれど、そんな関係を壊そうとする力が働くことがある。それは何かといえば、例えば「この世」の考え方です。ここで言う「この世」とは、聖書でいうところの「神の世」ではない、まさに私たちが生活しているこの世のことです。
この世はどうなっているのか、今日はヨハネによる福音書の2章、「神殿から商人を追い出す」という箇所を読んで頂きました。

 ユダヤ人が大切にしている祭りがありました。過ぎ越しの祭りと言って、何百年にもわたって守られて来たお祭りです。レオナルド・ダ・ビンチの「最後の晩餐」の絵が良く知られていますが、あの場面は、主イエスが捕らえられて、十字架にかけられる前の夜に弟子たちと食事をしている場面、その食事が過ぎ越しの祭りの大切な食事でした。

 そのような祭りの時に、主イエスがエルサレムにある神殿に出向いたのです。そしたらその神殿には、牛や羊や鳩を売っている人、座って両替をしている人達が沢山いました。いつもよりかなり大勢いたと思われます。祭りですから、人々は皆神殿にやって来て献げ物を献げます。けれど、まさか遠くの家から牛や羊を連れてやってくるのも一苦労ですから、神殿で牛や羊を購入してそれを献げる、あるいは献金をするにしても、色々な国からやって来ますので、普段は自分の国の通貨を使っていますから、献金するにしてもユダヤの通貨にしなければなりません。ですから両替商が必要です。現代でも、海外に行くには日本円は通用しませんから、両替をしなければなりません。それと同じことと思えば分かり易いと思います。けれど、そのような牛や羊を売る、両替する、もしかしたら他にも土産屋もあったと思いますし、食事処もあったかもしれない。祭りとはそういうものでしょう。

 しかし、その様子を見て、イエス様は、聖書の中ではとても珍しく怒りを露わにして「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」と言って境内から追い出したというのです。

 皆さん、この出来事は何を意味しているのでしょうか、祭りを商売とする、それは人と人との関係です。祭りは楽しいものですし、楽しみでもあります。特に人が集まり、人と人とが強い絆で結ばれていると感じられる時でもあります。けれど、主イエスはその人と人との関係の中で壊されていくものがある、それは神と人との関係だと言いたかったのではないかと思うのです。

 本来、この祭りは「神と人」との間で行われる祭りであるはずなのに、いつの間にか神との関係よりも、ずっと人との関係だけが強くなっているそこに主は怒りを感じたのではないでしょうか。

 この祭りの出来事が象徴的に示し、また主イエスが私たちに伝えたかったことは、人は、人と人との関係だけでは生きていけないということではないでしょうか。なぜなら、人は神ではありませんから、夫婦でも、親子でも、友達でも、会社でも、学校でも、この世の社会のどこにおいても、人と人との関係の中で、良い時もありますけれど、時にはパワハラだと言われたり、時には裏切られたり、裏切ったりすることもあるのです。だからこそ、大切なのは「神と人」との関係が求められるのだと思います。

 そしてその神は生きておられる神が大切です。柴先生のお父さんは牧師でしたが、私の父親は芸術家で彫刻家でした。木工彫刻をしていました。お寺に収める仏像などを造っていましたし、仏教にも詳しい人でした。とはいえ、柴先生の家には叶わないかもしれませんが、我が家も相当貧しい家でした。でも、子どもにとっては貧しいことはあまり問題ではないのです。問題は私の父親はいつも怒っていました。つまり、権威的であり、高圧的な人でした。父とじっくりと話をした経験もありません。
 
 今になって理解出来るのは、私の父は結局のところ、自分自身に、自分の人生に自信が無かったのかなと思います。自分に自信がない人は、それを隠すためにも、人と人との関係の中で、人に対して厳しくなる傾向があります。母親に対しても、子どもに対しても、「お前はダメだ」「お前はダメだ」「お前はわかっていない」毎日、そのような言葉を聞いて育った私は完全にダメな人間になっていました。
 
 自分はダメなんだな、この世で生きていくことも辛く、頼りにしていた仏教も私にとっては、ダメな自分をより強固にしていく根拠にしか感じませんでした。
 
 けれど、だから聖書と出会うことが出来ました。聖書の神は、「お前はダメじゃない」「お前はダメじゃない」そう伝えてくれるのです。主イエス・キリストという命ある、生きておられる方がそう言って下さるのです。この方によって私は、私の人生を生きることが出来たと思っています。

 皆さん、人と人とのより良い関係を造り上げるためには、神と人との関係をより強固にすることです。神に愛されていることを知り、その無条件の愛を受けていると感じられる人こそ、人に愛を与えることが出来ます。

 主イエス・キリストは十字架にかけられ、死んでしかし、三日の後に復活されました。そして今も生きて、私たちに語りかけて下さいます。あなたはダメじゃない。感謝して過ごしていきましょう。
お祈りします。

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