日本キリスト教団 大塚平安教会  

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

全ては主のもの

2019-10-08 09:43:15 | http://www.ohtsukaheian.jp/
【詩編24編1~10節】
【コリントの信徒への手紙一 15章16~20節】
「全ては主のもの」

 先週の一週間を振り返りますと、月曜日は、皆様がご存知のように、私達としては、思いがけず天に召された有馬昭平先生の葬儀となりました。当日は、心配した台風の影響もほとんどなく、穏やかな天候の中で、また祝日ということもあり、有馬先生がこれまで牧会して来られた教会の牧師をはじめとする関係する方々も集まって下さり、心を込めてお別れの時間を過ごせたと思います。皆様のご協力にも心から感謝です。

 次の火曜日は主に、事務的な仕事をいたしましたが、水曜日の午前中は、昼の祈祷会、創世記の22章を共に読み、共に祈りを献げる時を持ちました。また、水曜の夜の祈祷会はコリントの信徒への手紙を共に読み、木曜日は綾瀬ホームの礼拝の後、深谷地区の家庭集会に集いまして、共々に礼拝を守り、昼食を共にして豊かな交わりの時を過ごしました。金曜は発展聖書に親しむ会を行いまして、その後、金曜の夕方から土曜は今日の礼拝の為の準備、さがみ野ホームで午後から行われる召天者記念礼拝のために備えて、今、この礼拝に集っております。

 このような一週間、有馬先生の葬儀は本当に思いがけないことでしたが、葬儀、あるいはこのような主日礼拝に限らず、毎週、聖書の色々な個所を読む恵を与えられつつ、特にこの一週間、私自身、何を思い、何を語り続けて来たのだろうかと振り返ってみたのですが、一言で言えば、なにかずっと「主にある希望」を話し続けて来たのではないか、そんなことを思わされています。

 水曜日の昼の祈祷会で読みました創世記22章という箇所は、信仰の父と呼ばれるアブラハムが主なる神の御言葉に従って、独り息子のイサクを焼き尽くす献げ物として献げようとした場面であります。この箇所は、何度読んでも難しいと感じる箇所です。神の思いをなんとか理解しようと試みるも、中々理解しきれない、納得できない箇所の一つではないでしょうか。けれど今回改めて読み直しました時に、果たしてアブラハムはこの出来事をどう考えていたのだろうかと想像してみた時に、少し理解出来た思いがしました。もともとイサクはアブラハムが100歳、妻のサラが90歳の時に授かった子供です。自分達に子を宿す力は既に無くなっていたにも関わらず、主なる神が約束されたことによって、神の恵みとして与えられた子供です。

 人間的にはとうの昔に希望を失っていたにも関わらず、人の絶望を越えて与えられた希望の子であったと思います。旧約聖書の中で、主なる神と直接言葉を交わした預言者は幾人かいます。特にモーセなどは割合に多く神と会話していますが、アブラハムほど直接的に神と言葉を交わし、神の思いを知り、時には神の友として神と深い関わりを持てた人間はいないと思います。

 アブラハムはそのような会話を通して、また嫌なこと、良かったこと、困ったことの様々な経験の全てを含めて、主なる神に圧倒的な希望を見いだしていたのではないか。それは人の絶望すら越えた圧倒的な希望ではなかったのか。だから、あなたの息子イサクを献げなさいと言われた時も、人には分からないけれど、このことを通しても尚、神は必ず新しい希望を見せて下さると信じてイサクを連れて、モリヤの山を目指して歩んでいったのではないか、最後の最後まで、神に希望を持ち続けていたのではないか、そんな思いを話しました。

 私たち人間は、アブラハムが持ちえた希望というよりは、むしろ絶望、というよりも日々不安の中に生きているように思います。その不安は数えきれない程だと思います。2週間ほど前に個人的な話ですが、と申しまして、今度CTの検査を受けますと話しました。説教でそんなことを聞いて驚かれたかもしれません。
 でも隠しているのも嫌だし、むしろ、私は積極的に祈って頂いたほうがずっと良いと思いまして申し上げました。心臓のCT検査だったのですが、結果はどうでしたかと多くの皆さんから尋ねられました。結果は先週の木曜日と言われていましたが、検査の結果は、遅くても次の日には医者には分かるわけで、一目見てまずいと思えば、心臓ですからすぐに病院から連絡が入るはず。ですから連絡が入らず、予定の日に行けるのは大丈夫の印でしょうと話しておりました。お蔭様で予想通り大丈夫でしょうと言われて帰宅いたしました。医者から大丈夫でしょうと言われると、本当に希望といいますか、元気が出ますね。その晩はなんだか久しぶりにぐっすり寝られたようにも思いました。
 
 私達が抱える所の不安、自分の健康だけでもありません。最近はよく老後の不安が取りざたされています。あるいは子育ての不安も言われます。家庭の事、夫や妻の事、仕事の不安、といったいわば人間関係の中で常に起こり得る不安もあれば、社会が抱え続けている漠然とした不安もあります。10月から消費税が10%に上がります。それによって私達の生活がどう変化するのかといった不安もありますし、日本、韓国、北朝鮮、中国といった国際関係だけでも十分に不安を抱えているようにも感じます。
 
 なによりも、私達の国は、先日も大きな台風がやってきて千葉県に大きな被害がありました。また新しい台風が来るとも言われていますが、地震はいつ起こるかわかりませんし、東日本大震災で起こったあの津波の恐ろしさは、昔の話ではありません。私達は自然災害の恐ろしさを、特に最近、頻繁に感じるようにもなって来ているのではないでしょうか。

 私達は、実に様々な不安に囲まれて過ごしています。そしてその不安は、今、こういう時代だからというわけでもありません。聖書が記された時代もまた同様であったと思うのです。

 今日は詩編の24編を読んで頂きましたが、この詩編が記されたと思われる今から2千5百年以上も前の時代も、現代と同じように人々は多くの不安を抱えていたと思います。むしろ詩編が記された時代のほうが、現代以上に人々は様々な不安を抱えていたのかもしれません。

 詩編24篇1節、2節には「地とそこに満ちるもの 世界とそこに住むものは、主のもの。主は、大海の上に地の基を置き 潮の流れの上に世界を築かれた」とあります。
この御言葉は、主なる神の天地創造の場面が連想されます。ここに記される「大海」も「潮の流れ」も人の力の及ばない状態を意味する言葉でありましょうし、何よりも「混沌」を意味しているのではないでしょうか。
「混沌」が意味しているのも不安であろうと思います。神は不安の中に、しかし、主なる神が自らの手で、この世界を創造されたと伝えているのです。この創造の業は人に希望を与えるものであったと思います。

 3節以下は、そのような希望が与えられた人はどのような人であるのか、が示されています。「どのような人が、主の山に上り 聖所に立つことができるのか。それは潔白な手と清い心を持つ人。」聖所に立つとは、礼拝を献げる姿勢です。潔白な手とは行動という外面を現し、清い心は内面を現します。つまり行いも心も清く、純粋であることが求められます。

 アブラハムが神に導かれてモリヤの地に到着し、息子イサクを縛り祭壇に乗せ、刃物をイサクに向けたその時、主なる神の声がしました。「アブラハムよ、その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」その後、イサクの代わりに神が備えられた雄羊を献げ、そこで礼拝をして神に感謝しました。主なる神は、アブラハムに対して「地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に従ったからである。」と告げて下さいました。主がアブラハムの行いも心もなんと純粋で、神に対してまっすぐであったかを褒めたたえている様子がよく分かります。

けれど、皆さん。私達は、アブラハムのように生きられるでしょうか。主の神が示されるように、あなたの独り子イサクを、それはつまり、自分が最も大切にしているものを犠牲にしてまでも、清く正しく、純粋に主に従うことができるのでしょうか。もし、人間が本当にそのことができるなら、主イエス・キリストは誕生されなかったかもしれないとさえ思います。

 主イエス自ら、山上の説教では、「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る」と教えて下さいましたが、そのような清さ、純粋さを、外側も内側も、行動も心も、塵一つないようには生きられない、それが正直な思いではないでしょうか。もし、そのように生きられるとしたら私達の人生には不安さえ無い人生になることでありましょう。

 私達はアブラハムのように生きることを望み、そのように生きて行きたいと願いますが、なかなかそうは生きられません。少なくとも私はそのように生きられないと思う。CTの検査をしましょうと医者に勧められて、説明を受けた時に、この検査は血管の中に造影剤を入れますと言われ、その副作用で40万人に1人は亡くなります、と言われた時には本当に驚きました。説明されてすぐ「先生よ、先生もご存知のように教会の牧師ですから、なんの心配もしていません。」と、もし言えたらどんなにかっこよかったと思いますけれど、とてもそんな心境にはなれませんでした。とてもアブラハムのようには生きられない。更には、潔白な手も清い心も神の前にあっては私は持ち合わせています、などととても言えるとは思えません。

 けれど、だからと言って、希望が無いわけではないのです。いや、それでも尚、希望は確かにある。詩編24編9節を読みますとこうあります。

「城門よ、頭を上げよ とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。栄光に輝く王とは誰か。万軍の主、主こそ栄光に輝く王」

 栄光に輝いて来られる王、それは旧約聖書に合わせて、新約聖書を読む私達にとっては疑いの余地なく、主イエス・キリストこそが栄光の王であり、この方にこそ希望を持ち続けることが出来るのです。

 先ほど、コリント書15章16節から読んでいただきました。そこにはこうありました。「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。」
 コリント書15章は16節以降だけではなく、15章全体を通しても、使徒パウロはキリストの復活を力強く告げている箇所でもあります。キリストがわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたこと、ついで五百人以上もの兄弟たちに同時に現れ、そしてヤコブにあらわれ、最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れて下さいました。とパウロは記しました。パウロがキリスト教徒を迫害する者から、主イエスは復活されたと宣べ伝える生涯を、喜びを持って送ることになった理由は復活の主と出会う経験をしたからです。それは何にも代えがたい、パウロならではの経験であったでありましょう。復活があるなら、そこに必ず希望がある。死から生への希望がある。

「その日、その時は、誰も知らない、天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存知である。」とも主イエスは言われました。

 復活については、父だけがご存知である。それで十分だと思います。この世を、天地万物を創造された方が、私達に命を与えてくださった方が、御子イエスを復活させた方が、私達の復活の日をご存知である。それで十分ではないでしょうか。そこに限りない喜びがあり、そして希望がある。そのことをパウロはその生涯において語り続けました。自分の命をも顧みずに復活の喜びを告げ知らせました。

 有馬先生の葬儀に際して、私は不思議なことですが、ずっと「永遠の命」という言葉を思い巡らしていました。それは、有馬昭平先生とまた、いつか必ず共々に復活して、お会いすることが出来る、そこに希望がある、と思える幸いでもあります。そのことをもっと強く申し上げたかったという思いすらあります。復活の主イエスは、必ず栄光に輝く王として、私達の前に、私達に永遠の命をもたらす為にやって来られます。私達はその喜びに預かることが出来る。まことに幸いなことだと思います。様々な不安を越えて、主にあって、希望を持って歩んで参りましょう。

 お祈りいたします。

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