日本キリスト教団 大塚平安教会  

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魂を生き返らせてくださる主

2019-10-08 09:29:27 | http://www.ohtsukaheian.jp/
【詩編23編1~6節】
【ペトロの手紙一 2章22~25節】


 異例ではありますけれど、既に週報にも記してありますように、私達の教会の群れとともに礼拝を守って来られた隠退牧師である有馬昭平先生が、二日前の20日、金曜日、午後3時30分に逝去されました。90歳のご生涯でありました。
 葬儀は明日午前10時30分よりこの場所にて執り行われる予定となっております。この時、召された有馬先生を偲びつつ、暫くの間黙祷を献げましょう。 

 有馬昭平先生は、1951年に牧師となられ、1996年の、高井戸教会を退職されるまで45年間主に仕え、歩んで来られました。
1998年に70歳で隠退教師となられ、その後大塚平安教会の礼拝に出席されるようになりました。ですから、引退後凡そ20年程は、奥様の正枝さん、ご子息の基さんと共に教会のお仲間として歩んで来られたわけであります。
 有馬先生は1928年、昭和3年生まれです。私達の教会は6月に関田寛雄先生をお招きして礼拝説教を伺いましたが、関田先生と同い年になります。
 
1945年、昭和20年の終戦の年には17歳となっておられた。しかし、有馬先生は、中学生の時には、既に洗礼を受けて、教会生活を送っておられたようですから、恐らくというよりは、間違いなく、自分の信仰と、当時、多くの青少年が教えられていたお国のために、という教育を受けつつ、自分の中で、どう消化していけば良いのか、随分と激しい葛藤、戦いを抱えておられたのではないでしょうか。

 更には、戦後、牧師としての道を歩まれる中で、日本基督教団が抱える、合同教会としての教団のあるべき道を、いつも先生なりに模索し、考えておられました。現在でも言えることですが、日本基督教団は一つの団体であるとしても、必ずしも皆が一致しているとは言えません。
 特に戦前の教会が大切にしていたプロテスタントの教派的な流れや信仰のあり方、社会に対する対応、教会形成の仕組み、その様々な姿勢や違いについて、その違いによって時には共に歩めないでいる教会の姿を危惧しておられました。
 
 私に話しかけて下さる時は、特に、教団の教派的な流れや、一致出来ていない状況についてどう考えているのか、何度も何度も質問されたものです。私の答えは、いつも勉強不足でよく分かりませんので教えて下さいと、殆ど話を伺うばかりで、いつも丁寧によく教えて下さいました。有馬先生が考えられていた背景には、なんとしても、より豊かな主イエスにある、確かな合同教会、日本基督教団のあり方があるはずという思いであったと思わされています。
 
 日本基督教団に限ることではありませんが、私達は、同じ信仰を持っているにしても、必ずしも同じ思考や、思想を持っているわけではありません。
 
 今、9時から行われる、子どもの教会の礼拝は、マタイによる福音書6章に記される主の祈りの一つ一つの御言葉について共に学び、礼拝を守っております。先週は「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」という箇所でしたが、今週は「我らに罪を犯す者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」という箇所でありました。
 この箇所について、今日はWさんが一生懸命に、子どもたちに伝えようとしてくださっておられました。「イエス様は赦しのチャンピオン」だからという言葉がとても良いなぁと思いながら聞いておりました。

 主の祈りは主イエスが直接、弟子たちにこのように祈りなさいと教えて下さった祈りでもあり、特に主の祈りは「我らの」とか「我らを」と言うように、複数形で祈るようになっていますので、私達が礼拝において声を合わせて祈るべき祈りでもあると思います。礼拝で毎週、毎週「我らに罪を犯す者を、我らがゆるすごとく」と祈ります。心を込めて祈ります。しかし、私達は本当に、私達に罪を犯す者を、ゆるしながら生きているのでしょうか。私はそのように生きていますと胸を張って言える人がどれほどいるのでしょうか。今、日本基督教団もこの主の祈りの、この箇所を徹底的に学び合う必要があるのではないかとさえ個人的には思います。

 先週の火曜日は、幼稚園の2学期がはじまって、久しぶりに幼稚園のお母さん方と一緒に「聖書に親しむ会」を行いました。ルカによる福音書の13章からの聖書箇所を読みました。
主イエスが安息日にある会堂に入って教えておられた場面であります。礼拝に18年の間、腰が曲がっていた婦人がいて、主はその婦人を呼び寄せ「婦人よ、病気は治った」と言って、その上に手を置かれたら、たちどころに腰がまっすぐになって、神を賛美したとあります。しかし、その様子に礼拝を司る役割を持つ会堂長が腹を立てて、主と群集に向かって話した。「働くべき日は六日ある。その間に来て直してもらうが良い。安息日はいけない。」そう言ったのです。安息日は労働する日ではない、イスラエルが、長い間守り続けて来た大切な律法の、また特に大切な教えの一つです。創世記においても、主なる神がこの世界を創造された時に、六日かけてこの世界を創造され、七日目には休まれたとあります。

 神でさえ、休まれたと記されてある。ましてや人はこの安息日の教えを大切にすべきではないか、私は、会堂長の言葉には一理あると思います。婦人は18年間腰が曲がって苦しんでいました。病気なのか骨折なのか、あるいはケガによって腰が曲がった状態だったのでしょう。けれど、恐らく安息日ではなく、安息日が終わった後に主イエスが癒されたとしたら、群衆も、会堂長も含めて、主を賛美し、婦人と共に喜んだに違いありません。

 けれど、主イエスは会堂長に「偽善者たちよ」と強い言葉で反論されて、「この婦人は18年も苦しんで来たのに、安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」と告げられました。その言葉を聞いて、会堂長の仲間は恥じ入り、群衆はさらに主を賛美したというのです。

 この出来事を通して、私達が読み取るべきことは何か。それは、私達の心の中には、特に子供の頃から培って来た自分にとっては実に当たり前のこと、普通のこと、疑いの余地の無いことが沢山あります。しかも、それは実際に自分にとっては、当たり前の事、普通のことですから、自分でも全く意識しない程に当然のことであり、正しいことであり、間違いない事柄なのです。

 会堂長にとって、また、イスラエルの多くの、しかも常識ある人々にとっては、安息日に労働をしない。これほど疑いの余地の無い、当然で、誰もが守るべき教えてあって、緊急の場合には例外があるとしても、安息日は安息日、それは正しいことなのです。一般的には主イエスの方が正しくない、そう会堂長が思ったのはうなずけます。

 会堂長という仕事柄からしても、安息日を大切にする、神との契約です。正しいことなのです。自分の内に正しさがある。しかし、問題は、その正しさに当てはまらない人を見たり、出来事を体験したりすると、その人の内に怒りが出てくるのです。つまり「許せない」と思う。それが争いの種となるということではないか、そんな内容を話しました。
 
 それでお母さん方がそれぞれに感想を話して下さったわけですが、8月は、夏休みであったこともあり、田舎に帰省した話なども伺いました。伺う中で、殆どの誰もが、悩んでいることは、自分の子供の事よりも、自分夫のことよりも、その連れ合い、夫のご両親との関係です。姑、しゅうとめ、との間がどうしても上手くいかない、自分の実家に帰省するのは楽しみ、でも夫の家には出来れば出かけたくない、そんな話で盛り上がりました。先生、どうしたら良いのでしょう。たまたま集まったお母さん方だけが、そういう問題を抱えているわけではないと思います。
 
 原因は、それほど難しいわけではありません。自分の中の正しさと、相手の側の正しさが衝突するのです。自分の子供や夫には、衝突するとしても自分の正しさを主張出来るのです。けれど、お父さん、お母さんとは、衝突するわけにはいかない、良い嫁だと言われたい、思われたいと思うでしょうし、頑張って相手の正しさを受け入れなければなりませんから、結婚当初は我慢できたとしても、年を追う毎に、相手の正しさが自分の正しさと、違えば、違う程に赦せないという思いが膨らむのではないでしょうか。
 
 しかも、先ほども申し上げました通り、自分の正しさは、あまりにも当然なこと、普通のことであって、自分では気がつかないのです。気がつくのは、逆に、相手の言葉、行動が自分の当然に当てはめた時に、全く考えられない、非常識、このことはすぐに、とても敏感に気がつくのです。

 自分の常識とは違う、全く考えられない、赦せない状況を体験する。皆さんも、夫婦であったり、親子であったり、友達同士であったりする関係の中で、思い当たるところがあるのではないでしょうか。だから、何が難しいのかというと、「我らに罪を犯す者を、我らがゆるすごとく」という祈りです。この祈りは、主なる神無しにはとても祈れない祈りであるように思います。
 
 今日は、新約聖書ペトロの手紙、2章22節から読んで頂きました。22節からもう一度読みますと、「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せなりました。」とあります。この方とは、勿論、主イエス・キリストです。神の子、主イエスは、ののしられながら、ののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、つまり、これは主イエスの十字架の死について話しておられるのです。
 
 この方が、私達が抱え、私達が背負う重荷の全てを引き受けられて、そのことの全てを受けつつ、ののしり返さず、人を脅さず、私はここで死んでいくが、だからこそ、あなたがたは生きていけと、しかし、それは私たちが自分の内にある罪に死んで、三日後に起こった主イエスの復活の命と共に新しい命を生きて行くためでもありました。

 私たちが主イエスをメシア、救い主と信じるため必要なことは、自分の罪に死んで、神の復活の命を自分の心にしっかりとおさめることです。
 それまでは、自分自身の中にある自分が子どもの頃から培って来た、様々なあまりにも当然のこと、あまりにも普通のこと、その常識に翻弄され、時には怒りがこみあげ、時には許せないと思い、心が揺れ動き、羊のようにさまよって歩んでいるようなものなのです。そのような歩みこそが、私達がいつの間にか変えている「罪」そのものであると言っても良いでしょう。
 
 だから、その罪を脱ぎ捨て、救いを得るためには、自分の過去から解放されて、主にある信仰を得て復活の主と共に新しい命を生きなければなりません。そう決断しなければなりません。洗礼を受け、魂の牧者であり、監督者である方のところに戻って、私達の魂は潤いを取り戻し、これまでとは全く違った人生を得ることが出来る。
 
 詩編23編を読んで頂きました。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。」とあります。主イエス自らも「私はまことの羊飼い」と言われました。「まことの羊飼いは、羊の為に命を捨てる」と言われました。私達はその羊です。主イエスが命を捨てても惜しくないと思える一人一人です。命がけの神の愛を受けて、私達が思う自分の正しさを、すなわちその「罪」を一切裁くことをせず、そのままで良いよと言って自らが命を十字架で死んでいかれた。これほどの愛の形を私は見たことがありません。
 
だから、キリスト教なのです。私達は、主イエスの愛に包まれて、この一週間も共々に歩んで参りましょう。

お祈りいたします。

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