日本キリスト教団 大塚平安教会  

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私は良い羊飼いである。

2018-04-16 10:31:30 | クリスマス
【ヨハネによる福音書10章7~18節】

 亡くなられていつの間にか10年経ちますが、河合隼雄という心理学者がおりました。少し極端かもしれませんが、私の思いの中では、この河合先生から心理学という学問が世の中に認知され、人の心の動きについて、多くの人が関心を持つようになってきたのではないかと思えるほどの先生です。以前にも紹介しましたが、先生の著書に、「心の処方箋」という本があります。
その本の最初に「人の心がいかにわからないかを、確信をもって知っているところが専門家の特徴である。」と記されていまして、河合隼雄の名言の中に、必ず出てくる言葉としてもよく知られていると思います。あるいは、「説教の効果はその長さと反比例する」(笑)という言葉もありまして、これもきっと名言だろうなぁとは思うのです。

 更に、読み進めますと「己を殺して他人を殺す」というタイトルがある話がありまして、どういうことかというと、ある一人の女性がいたというのです。「己を殺す」という言葉は、日本では案外美徳と考えられていますが、その女性は幼いころからそういう躾を受けて、己を殺して生きてきたというのです。とても大人しく、良い子と言われて育ってきました。学校の先生にも受けが良く、卒業して、良い職場も与えられて、一生懸命に勤めました。けれど、暫くすると、気づいてきたことは、どうも、自分は職場からの評判が良くなくて、もっと驚いたことに、「勝手な人」だと噂が立っていたというのです。それで、途方にくれて、先生のところに相談に来たというのです。
話を聞いて次第にわかってきたのは、この女性は「己を殺して」生きてきたけれど、自分自身は生きているので、全部を殺すわけにはいかず、ですから正しくは己の一部を殺しながら生きてきたわけです。ところが、殺したはずの一部が、自分では殺したはずだけど、どうしても再生してきたり、実際は殺しきれないでうごめいていたりする。
 
 そこで起こってくるのは、簡単に言えば、我慢の限界です。皆が楽しんでいるときに、突然、その場がしらける言葉を言ってみたり、すごく大変な仕事を熱心に皆で取り組んでいる時に、今日は体調が悪いので早退しますと言って帰ってみたり、ですから、勝手な人だと言われるのだと気が付いてきた。
 普段は「己を殺して」耐えているので、突然、その限界が来て、周りの皆が思ってもみない行動を起こしていたのだとわかってきたというのです。

 しかし、これは言ってみれば、この人の中で殺されたものが生き返ってきて、そして、復讐しているようなもので、復讐ですから、生き返って他人を殺すことをするというのです。
己を殺すと、いつのまにか、知らない間に他人をも殺していたのだと気が付いてくる。だったら、己を殺さないで自分が生きれば良いと思って、自由に生きようとすると、世の中はそれこそ「勝手な人」だと言われてしまう。特に私たちの日本社会ではそういうことが良く起こります。どちらにしても難しい社会を私たちは生きているものだとありました。

 その文章の最後の締めくくりとして、「自分を見事に殺しきって、それが新しい自分として再生してくるのを明確に知るのは素晴らしいことであるが」ともありました。
なるほどと思います。けれど同時に「自分を見事に殺しきる」ということが果たして出来るのかどうかどうか、これもまた難しいことではないでしょうか。それこそ私たちには出来ない相談だと思うのです。

 教会に時々、相談に来られる方がおられます。子どものことでと、相談を受けますが、この方がいつも言われるのは、「先生、私は大丈夫ですが、子どもが心配で。」、「私は大丈夫ですが、子どもが心配で。」これが口癖のようになっておられる。
 この言葉を聞きますと、私もつい意地悪心が出てきたりして、「お母さん、お母さんが大丈夫なら、どうして相談しに来たのですか。相談しなくても、お母さんの大丈夫を、お子さんに伝えれば良いのではないですか」とは言いませんけれど、そう言うと来なくなりますからね。ですから「お母さん、ここに来られるだけでも偉い」と言って励ますわけです。

 皆さん、私たちは何も相談するほどの悩みもないと思われている方ばかりでしょけれど、案外「私も大丈夫じゃないし、子どもも大丈夫ではありません、」とは言えないのです。なかなか言えない。やっぱりどこかで自分のプライドというものもありますし、見栄もあるのです。

 二年ほど前に、高校に通っていた息子が、謹慎を受けて、二か月も家におりました。わざわざ学校の先生がやってこられて、息子と何時間も話しをしてくれまして苦労をおかけしたのですが、先生が言うのです。「お父さんもしっかりと息子さんと話し合って下さい」何度も言われるのです。でも、でも、これがこちらとしてもどうしても癪にさわるのです。(笑)やっぱりね、息子のことは自分がよく分かっていると思うのです。十分に話していると思うのです。先生より深く理解していると思うのですよ。でも、結局、先生の言葉を受けて、息子と必死に話しをしました。するとやっぱり、話をしてよかったなと思うのです。そう思うまでは大分時間がかかりました。

 人は、案外誰よりも自分は耐えていると思っていますし、己を殺していると思っています。だから上手くいかない時もあるのです。己を殺して、人を生かすというよりも、己も、人も共に殺してしまうようなことがよくあるのだと思うのです。そんな姿が私たちの本当の姿ではないでしょうか。なかなか私たちは私たちの命を捨てる、出来なことだと思います。

 だから、私たちには主イエス・キリストが必要で、神が私たちと共におられるという信仰が求められるのだろうと思います。今日は、ヨハネによる福音書10章という箇所を読んでいただきました。10章14節、15節にこうあります。「わたしは良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。」
良い羊飼いの特徴その一つは、自分の羊を知っているし、羊たちも主イエスを知っているというのです。
 
 先週、子どもの教会の礼拝がありまして、礼拝の後に、進級式という式を行いました。子供たちが前に来て、名前と何年生になりましたと言って、お祝いする小さい式です。子供たちが一人ずつ、やって来ては、話をする。私が司会で行っていましたが、子供たちのいつもの見慣れた顔ですから次々と紹介しては拍手をして、それで最後の子になりまして、名前も顔もわかっているのですが、つい、大きいなぁと思って、「はい、何年生になったの」と聞きましたら、親も子もちょっとびっくりした様子で、「花組から星組になりました。」と言うのです。
 あら~、まだ幼稚園生でした、しかも、ドレーパー記念幼稚園ですからね。(笑)自分で情けないと思いましたが、良くない羊飼いの典型のような者です。私たちは知っていると思っても、このようにして失敗してしまいます。でも、主イエスは「私は自分の羊を知っている」というのです。だから良い羊飼いだというのです。

 この知っているという言葉は、単に名前を知っている、この人の特徴を知っている。この人の年齢を知っているという意味以上に、この人を「愛している」という意味が込められています。私は自分の羊の一匹、一匹を、一人一人を愛している。あ~ダメだなと思ってしまう、なんと不十分なと思う、私たちの日常の中で、その気持ち、よく分かるよ、でも大丈夫、心配ないとしっかりと執り成して下さるというのです。どのようにして執り成して下さるのか、良い羊飼いの特徴の二つ目、「わたしは羊のために命を捨てる」と、命をかけて執り成して下さるというのです。

 そのようにして実際、主イエスは十字架にかけられるほどに、命を懸けてまで私たちを愛してくださったわけですが、大切なことは、十字架で死なれただけではなく、本当の愛は、死んで、更にその死んだことで終わるのでもなく、その先に起こった復活という出来事ですよ。「わたしは羊のために命を捨てる」でも、己を殺して、己も人も生きる道があるというのです。そういう道があることを私たちに示して下さいました。

 ヨハネの手紙一の3章16節にこうあります。「イエスは、私たちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちも兄弟のために命を捨てるべきです。」

 皆さん、ここで気が付かれた方がおられるかもしれません。ヨハネによる福音書も、ヨハネの手紙も「命を捨てる」というのです。一人に一つしかない命をなんで捨てるのか、でも、この捨てるという言葉も、主イエスの愛の形です。それは、もったいないけれどとか、これは大切な者だからよく感謝して受け取るようにといったように、恩着せがましくないといということです。先ほど、次男の話をしましたが、もっと前の長男が高校に入ったころだったと思いますが、何かの記念にと腕時計をあげたのです。本当は私がとっても気に入っていて、しかも、何かの特売で格安で売っていたものを、家内に頼んで買ってきてもらったものでした。

 自分としても思いが込められていた物を、父親らしくかっこよくお前にやるよと言って、それから数か月息子が時計をしていない、あの時計どうした。あ~、無くした。まあ、腹が立って腹が立って、だからそれなら最初からあげなきゃよかった、人間はそんなものです。

 だから、主イエスは、ありがたく貰っておくようにとか、もったいないけれど、ではなくあなたの為にはこの命を捨てる、というほどの愛を持って、つまりは一方的に無条件、無尽蔵に主が命を捨てるというのです。あなたの為なら少しも私の命は少しも惜しくないという思いをもって「捨てる」と告げられたのではないでしょうか。

 だから皆さん、主なる神が良い羊飼いとして、自分の命を捨てると言われるほどの愛を受けて、私たちは己を殺して、他人を殺すような偽物の愛ではなく、主イエスに与えられた本物の愛を受けて生きていきたいものです。

 本物の愛を受けて生きていくためには必要なのは三つです。一つは自分を愛すること、二つは隣人を愛すること。そして真の羊飼いである神を愛することです。

 人は、不思議なことに自分が自分を愛している分だけ、隣人を愛することが出来ます。ですから自分で自分が嫌いだなとか、嫌だなと思うその計りで、隣人も計りますから、まずは自分で自分を愛することです。
しかも、たっぷりと愛することですよ。お腹が空いたね。私も空いているのよ。では解決にはなりません。お腹が空いたね、あらそう、ここにたっぷりとあるよ、ということで解決になるわけで、そのように、まず何よりも、自分は、神の良き作品として、この世に命を与えられ、主なる神が自分の命を捨てるとまで言って下さるほどに、私は愛されているんだなぁ。その幸せを生きることです。

人から何をどう言われようとも、私は神から愛されている、だから大丈夫、と自分を励まして、神の聖霊を得神のエネルギーを蓄えることです。

 自分で自分を励ませない人は、人からの励ましを求めるのです。でも、人からの励ましは、時には励ましになるかもしれないけれど、時には邪魔なものです。だって、励ましは頑張れ、頑張れですからね、そう言われるともっと疲れることだってあるじゃないですか。ですからしっかりと自分を励ますことです。内なる人を励ますことです。そうすると日ごとに新しくなるのです。そこで蓄えたエネルギーでもって隣人を愛することが出来るというわけです。

 まずは自分を愛すること、そして二つ目は隣人を愛することです。隣人とは誰ですか、簡単です。隣の人です。それは隣に座っているという意味ではなく、身近な人ということです。だから家族、ご主人なら奥様を、奥様ならご主人を、息子を、娘を、父を母を、愛することです。でも、これもなかなか大変です。身近であればあるほど、互いに全てがわかっていますから、家族伝道程難しいものはないと言われる所以でもあるでしょう。でも、その秘訣は、自分の羊飼いをいつも知ることでしょう。ここがやっぱりカギになるのではないでしょうか。

 そして、何よりも神を愛することです。神を愛するとは、自分が主人公になるのではなく、神を自分の主人公として、この方が私を生かし、この方によって私が生き、生かされていることを知ることです。そして、生かされている喜びを、喜びの人生を生きていくことではないでしょうか。

 2018年度が、始まっています。この年度も良き羊飼いである神の愛によって、私たちは生きて参りましょう。
 お祈りします。


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